――今は昔。 ほろほろと、雪の降るような夜であったと言う。凍えるほどに寒く厳しい夜であったと。宮中に、ぼんやりと灯るのは衛士の焚く篝火の赤。それがほのかな朝陽にとろけるように消えた夜明けのことであったと言う。 一人の男が都大路を急いでいた。否。ただ急いでいるのではない。男は怯えていた。夜目にも見える男の顔色は鮮やかにも青い。 夏の京は暑い。日中ともなれば、黙ってじっと座っているだけでも汗が額を伝う。ことに今日は暑かった。 そのせいだろうか。生暖かい風が吹いていた。夜になっても熱は冷めず、吹く風が反ってべっとりと熱気を運んでくるようだった。 それにしてはまとわりつくような風だった。額にぽつりぽつりと浮かんだのは、湿気か汗か。走るにつれてつ、と滴り落ちる。 「ひっ」 小さく悲鳴を漏らした。何者もいはしないと言うのに。これほどまでに暑い晩に男の体はがたがたと震えていた。そして男は足を速める。まるで後ろを振り返ればすぐそこに物の怪がいるとでも言うように。 我と我が身を抱え込み、震える体を必死に抑えて男は走る。くたびれた狩衣はすでに汗まみれになっては体に張り付いている。もつれがちな足を励まし駆け抜けようとした。 そのときだった。ぴたりと足が止まって動けない。小刻みに震え続ける体がまるで音でも立てるほど。悲鳴も上げられない男の前、何者かが立っていた。 「そなた、どこへ行く」 密やかな声。なのにそれは染みとおるようによく響く。その声に、震えが止まった。恐ろしくて震えていたはずなのに、それ以上の恐怖にあって体は震えることすら忘れてしまった。 現身とはとても思えなかった。見るからに柔らかく、細かい織りの入った上等の直衣。怯える男の身分では、触れてみることすら敵わないそれを無造作に着た男が、生身のはずがない。そのような高貴な貴族が夜の都を一人歩きなどするはずもない。 女のよう、薄い衣を衣被きした男の唇が、笑いを刻んだように見え。 「ひぃ……っ」 ぺたり、男は腰を抜かしてへたり込む。後ろ手についた腕はずり下がろうと試みるも果たせずただひたすらに土をかくのみ。 「恐ろしいか、私が」 どこか面白がるような男の声に彼は知らず首を振っている。それが否定なのか肯定なのか、本人にもわからなかった。 言いつつ覗き込んでくる男の仕種。けれど衣に隔てられた男の顔は見えなかった。それがいっそう、恐ろしい。 「なにかに追われているようにも見えたのだが」 ふと男が首をひねっては背後を見やる。大路は暗く、二人の姿から遠ざかるほどに闇が濃くなる。 つられて振り返った男の目には、追いすがってくるものの足音さえ聞こえるよう。まとわりつく風は、ねとりとした肌のよう。 思いを払うよう、ぶるりと首を振る。その目に留まったひとつのもの。 「あ……あんたは、生身か」 ようやくにして彼は気づいた。男が手にしている松明に。物の怪ならば、明かりなどは持つまいと。そのことに意を強くしたよう彼は立ち上がり、ばつが悪いとばかり咳を払う。 「物の怪にでも、見えたか」 松明の照り返しには違いない。けれどそう言って笑った男の唇は赤かった。 ふっと風が男の衣を乱す。軽いそれがなびいては男の顔を隠し、見えるとも見えぬとも。生身と信じはしてもなんとも言えずにただ怖い。 「見えた……」 何にか。物の怪に、あるいは赤さが。男は知らず目をそらす。 「見えたか」 再び男が笑う。今度は声を立てて。思わず一歩を下がりかけ、男はなんのとばかり踏みとどまった。 「物の怪はおらずとも、別のものならおるやもしれんな」 かしげた首に、軽い衣がまとわりついた。邪魔だとばかり男は払う。やはり顔は見えない。ただ、手は見えた。重たい物など持ったことなどないのだろう白いふっくりとした手だった。 「な……」 ぼんやりと男の手を見ていた彼は息を飲む。物の怪以上に恐ろしいものならば、知っている。よもや、と。 「夜の一人歩きなぞ危ないとうるさい男がおってな。式神の一人くらいはつけているやもしれん」 しかし彼のそのような思いになど気づいた風もない男の言葉は、彼の耳に鋭く響いた。 「式神……」 その言葉にはっとする。彼はいつの間にか下がってしまっていた足を進めて男にすがりつかんばかりだった。 「陰陽師に……陰陽師に……」 「知り合いがおる。そなたには、必要であろ」 返事も出来なかった。ただがくがくと首をうなずかせるだけ。震える手で男の直衣の袖を捉え、やはり柔らかい、そんなことを思っては慌てて手を離す。 泥に汚れたそれを気にした風もなく、男はふわりと背を返す。 「来よ」 振り返りもせず言う男に彼は黙って従う。声など出なかった。安堵に。 陰陽師に会えれば終わる。これでこの恐怖から逃れられる。彼を占めていたのはただその思いだけだった。 どれほど歩いたのだろうか。しばらくでもあったように思え、しかしすぐ目の前だったようにも思う。ひたすらに、前を行く男の背を見ていた。白い衣が松明の明りを受けて淡い熱の色に染まっていた。 あれほど恐ろしくも見えた衣被きの姿が、急に頼もしく見え出したことに彼は心を強くする。もう大丈夫だ、もう安全だ。知らず口中で呟いていた。それが聞こえているはずなのに、前を行く男は聞こえた風もなく静かに歩く。 「ついた」 独り言だったのだろうか。あるいは彼に聞かせるためだったのかもしれない。かすかに振り返った男の前で、閉ざされた門が開いていく。 「ひっ」 すっかり消え去っていた恐怖が、一度にどっと蘇る。この男はやはり物の怪か、異形か。逃れることなど、できなかったというのか。 何度目になるかもわからない悲鳴を漏らし、彼はそれを見ていた。誰もいない。何者もいないのに門が開く。夜の闇が濃くなった気がした。 「陰陽師が、要るのであろ」 何をしていると男が問う。立ち竦んでいた足が、その言葉に促されたわけでもあるまいにするりと動いた。 陰陽師。その一言に彼はすがりつく。陰陽師さえ。陰陽師ならば。 二人が入ると時を同じくして門が閉まる。ぎしぎしと音を立てる重いそれは、やはり何者の手も借りず独りでに動いていた。 「ここは……」 こうなったならば腹を括るのみ。そう思ったのだとわかったのはあとになってからのこと。彼はいまだ呆然と男に従うだけだった。 「何者だ」 闇の中では荒れ放題とも見える庭を抜け、これまた荒れ屋ではないのかとも見まがう屋敷の簀子に一人の男が立っていた。白い、こちらは狩衣だろうか。夏の夜にはほの明かりのよう、輝いて見えた。 「そなたの客だ」 してはこれがかの陰陽師と言うわけか。彼は心に言い、けれど異形物の怪の類かもしれないと思えば腰が引ける。 「客だと」 首をひねる陰陽師らしき男に衣被きの男は黙って手を差し伸べる。わずかな苦笑の気配が陰陽師の唇に浮かんだ。手を取る。そのまま軽く抱き上げた。 その拍子に簀子の上、被いた衣がはらりと落ちる。明りの元にさらされた男は直衣烏帽子の美しい、けれどごく当たり前の高位の貴族に見えた。 あれほど血のように赤く見えた唇も、今は仄かな赤味が差しているのみ。 「私が物の怪に見えるほど怯えておった」 「惑わせては喜んでいるのではないのか」 「なんの。人目を避ける通い男よ」 喉の奥で笑う声。陰陽師の苦笑が深くなり、落とした衣を拾っては放り投げ。目の惑いだろうか。投げたはずの衣はどこへともなく見えなくなった。 かさり、音がして庭の男は飛び上がる。どこかで小さな鼠が走っていた。 「あんまり怯えておったから、連れてきた」 面倒な。小声で呟いた声は庭の男にまでは届かない。それをたしなめるよう陰陽師は笑い、伸ばした指先でかの男の直衣の襟を弾く。するり、弾いただけの襟のはずが、留め紐ははずれ具合よく吹いてきた風に乱れた。 「だから一人歩きなどするものではないと言っている」 「ならばそなたが忍んで来るか。する気などないくせに」 「そなたの所になんぞこの俺が忍んで行ったら、大変なことになるわ」 からり、笑った。訳のわからぬそのやり取りを、庭で男はじっと聞いていた。いや、聞いているのではない。ただただ動けなかった。 「上がるがいい」 ちらりと向けてきた目の鋭さに、彼は強張った体が勝手に動くのを感じていた。這うように、己の体が屋敷へと向かう。簀子に上がる。上がった所で、へたり込んだ。 「どうした」 勝手に入ってしまった男の後姿に陰陽師は再び苦笑してから問いかける。暑いのだろう、誰ぞに御簾を掲げるよう言いつけている男の声に、彼はほっと息をつく。少なくとも、召し使う人間はいるらしい、と。 「普通の……」 あまりにも当たり前すぎた。目の眩むような調度の類はなく、けれど彼には手の届かない程度には素晴らしい道具の数々。明りに照らされた屋敷の中は、庭から見たほどには荒れてもいない、普通の貴族の屋敷だった。 「あまりにも普通で驚いたか。陰陽師とは言え、人は人だ。生身の、な」 へたった体を励まそうと蠢く彼の前、手が伸びてきた。何も考えず手を取った。温かい生身の手だったことにほっと息をつく。そして急に恐ろしくなった。これが冷たい手であったならば、と。あのときのよう、冷たいそれであったなら。 「入るといい」 震えだした男に向かい陰陽師は言う。 |