なにやかにやとうるさい女房どもを追い出して一人、季周は酒を飲む。庭に面した簀子に座してほとほとと。
 瓶子がひとつ。杯が――二つ。
 己の杯に酒を満たし、あおる。再び注ぎ、手は少しばかりためらったあと、もうひとつの杯にも酒を満たした。
「大蛇丸、ここへ」
 呟きは大きくはなかった。
 夜風にまぎれて消えそうなほどの大きさ。と、まるでその通りの風が吹く。
 ふうわり、季周の直衣がなびいた。
「……来たか」
 風が消えたとき、そこには鬼がいた。
 あの庭の木の下、破れ衣を身にまとい、吐く息吸う息に連れて炎が揺らめく。
「ここへ」
 かすかに顎で隣を示せば動いたとも見えず鬼はそこにいた。
「なぜに呼んだ」
 ようやく口を開いた鬼はそれだけを。
 怒りか、それとも別のなにかか、口元の炎がぱっと散る。
「酒の相手でもせい」
「許すか、わしを」
「許さんわ」
「ではなぜ呼ぶ」
「知るものか」
 つい、と顔をそむけた季周の顎先を鬼の手が捉えた。
「竜胆」
「放せ」
「なぜわしを殺さん」
 きりり、指先に力が入り、季周の肌に血が滲む。
「放せ、鬼」
「竜胆」
「放せ、と言うておろうがッ」
「真実、放して欲しければどうすればよいか、ぬしは知っておる」
 静かな鬼の声に季周は無理やりに顔を背けた。その拍子に傷が広がる。
 流れた血を鬼の舌が拭うのに、季周はただされたままでいた。
「竜胆。ぬしはわしを殺すことも出来よう。すればよい」
「……なぜ死にたがる」
「死にたがってなどおらんわ。いまも震える。恐ろしゅうて恐ろしゅうて震えておるわ」
「ではなぜ」
 振り返った季周は鬼の目を見た。
 悲しい、目だった。
 恐ろしい目だった。
 柑子色の目に炎がぎらぎらと映えていた。その中に季周が、ただ季周一人が映っている。
 不意に力をこめた鬼の手が季周を床に倒し、のしかかる。
「あ」
 鬼のざんばら髪が頬にかかった。冷たくも温かくもない鬼の頬が頬に触れた。
 震えて、いた。
「竜胆が許せん、と言うならばそうするほかになにが出来よう」
 ゆったりと季周の上に乗った体。人ならばどれほど温かいだろうか。
 死を恐れ、償いようがないと嘆く。愛おしいと言い離れられないと言う。
 どこが、人と違うというのか。
 季周は知る。離れられないのは、どちらかを。
 目を閉じ、鬼の頬の感触を心に刻み付けるよう味わった。
「夢を……」
「なんじゃ」
「夢を、見た」
 冷たい簀子に鬼と人と。ひとつの固まりになってここに在る。
 我が身を焼くはずの炎さえ、触れれば熱も持たず冷たくもない。季周は不思議にも思い哀しくも思う。
「気分が悪かったらしい……聖が加持に来た」
「おう、知っておるわ」
 言ってようやく鬼は体をずらし、横になったままその腕の中、季周を抱きこんだ。
 仄かな香の匂い。あの忌々しい芥子の臭いではない、もっとずっと良い香りが鬼からしている。
「つらくは、なかったか」
「なぜじゃ」
「……そうか、つらくはなかったか」
 不思議そうな鬼の声音に季周は安堵する。そこに少しばかりの寂しさがあったことはまぎれもない事実として己に認めはしていたが。
「なぜそう思う、竜胆よ」
「お前が、出てきた」
「わしがか」
「そうだ。お前がだ」
 鬼の喉元にかすかな笑い声。季周の夢に出た、季周が夢に見た、ただそれだけでこれほどまで喜んでいる。
 それがまた、季周にも嬉しかった。
 が、あの夢のことは話すまい。話せばなにをするつもりでいるか、悟られる。そんな気がする、そう思うのだった。
「見てはおらん。が、ぬしがそう思ったは嬉しいこと」
 思わず目を伏せ、羞恥に染まった目元を隠す。が、結局は鬼の胸に顔を埋めるばかり。
 鬼の先ほどの声音に違うとは知ったものの、共に見たもの、と思っていたのだ。あのような幸福は、必ず鬼が共にいた故、と。
「竜胆よぉ」
 楽しげな鬼の声に顔を伏せたまま返事をすれば驚くことを言う。
「ずっと遠くから、見てはおった」
「夢をか」
「ぬしをだ」
「なに」
「そばには行かなんだ。ぬしが呼ばぬから、行かん。だが、ぬしの姿を遠くから、見てはおったよ」
「では聖は……」
「あの臭いばかりには閉口して、しばらくの間はもっと遠くに行っておったわ」
 鬼が笑う。つられて季周も笑った。もったいぶった聖の祈祷などなんの意味もなかった、と。ただ芥子の匂いばかりが嫌でその場を離れたのだと知ったら、あの聖はいったいどんな顔をするものか。そう思えば笑いがこみ上げて仕方ない。
「竜胆よぉ。殺せば良いのだ」
「まだ言うか」
「殺さねば、また嫌がることをする」
「……良い」
「するぞ」
 くるり、体勢を入れ替えた鬼が再び上から季周を覗き込む。
 両の手を顔に脇についてはじっと見つめるのを、なぜか見ていられなくて季周は目を閉じた。
「……できぬ」
 声は上から降ってきた。
 目を開け、鬼の目を見た。苦悩に揺れる目。柑子色が深く沈んでまるで血の、色。
 季周は手を伸ばす。鬼の首に。抱きかかえ、抱き寄せた。触れた、唇が、唇に。
 ぬくもりを感じない鬼の唇は少し、震えていた。
「竜胆……」
 離れた唇を惜しがるように再び季周は鬼を抱き寄せ。
 後はどちらからともなく求めあった。
 鬼の長い爪をした指が、季周の肌を傷つけまい、と慄きながら直衣を剥いでいく。
 季周も鬼の肌に触れた。温かみがない他は人と変わらぬその肌。
「あ……」
 鬼の舌が胸の辺りを舐め上げる。人のものではありえない長いそれがつるり、と胸を舐め首まで達して離れた。
 背筋がぞくり、とする。恐ろしい、忌まわしいばかりであったあの時。そう思い込んでいたあの時。今は――違う。
「竜胆よぉ」
 鬼が呼ぶ。季周は目で答え、笑んだ。
 冷たい簀子も気になどならない。鬼の肌に温められることこそなかったけれど、心の底がこんなにも、暖かい。
 がっしりとした鬼の肩にすがりつき、抱え上げられた、と思ったときには
「く……あぁ……っ」
 鬼が季周の中にいた。
 座ったまま、抱き合う。鬼の頭を腕の中、抱え込めばうめき声。快楽に酔った鬼のその声に、季周ははじめて満足を知る。
 知らず微笑んでは鬼の耳に軽く歯を立て、また鬼の声を楽しんだ。
「ん……っ」
 仕返しに、とばかりに鬼が季周の胸に舌を絡ませ。指先が季周自身をやんわりつかむ。
「あぁ……」
 悦楽にのけぞった体。腰をしっかとつかまれて、後ろに倒れることもならず、深く鬼を咥え込む。
 そのまま突き上げられ、恐ろしいばかりの快感に我と我が腕に齧りつく。
「竜胆」
 鬼が呼ぶ。朦朧としたままそちらを見れば鬼の指が季周の唇から腕を引き剥がしている。季周の腕からは血が滴っていた。
「噛むならわしにせい」
 ちろり、流れた血を舐められた。ぞっとする。恐ろしさにではなく快感に。
 この血を舐められることにこんなにも悦楽を感じるならば、いっそ喰われたならば。腰の辺りがその想像に引きつるように蠢いた。
「くぅ……」
 季周の腰をつかんだ鬼の片手の力が強まった。引きつける力の強さに季周もまた、鬼の首を抱いては腰を揺らす。
「止せ……」
 苦しげな鬼の声に思わず莞爾と。
「やめぬ」
 鬼の肩に唇を寄せ、それから腰を使った。己の中が熱い。例えようのないこの充足感。不意に突き上げられては鬼の言葉通り、その肩を噛んでしまう。
 滲むことのない血の味を想像しながら季周は狂ったように鬼の上、動いた。鬼の腹に自らを擦り付ければ身悶えもならないほどの快楽。
「止せ」
 力ずくでその腰を抑えられれば、切なさに首を振る。
「ぬしより先に行ってしまうわ」
 苦笑いのようなその声に目を開ければ、眼前に鬼の目。柑子色の目の中、己ひとりが映っている。
「竜胆」
 ふわり、体が浮き上がったか、と思うまもなく鬼の下敷きにされた体。ずしりとした鬼の体を受け止める満足感。抱きしめられ、満ち足りたこの気持ち。
「あぁ……」
 手指を絡ませあい、ひとつの生き物になったかに絡み合う体。
「ふ……あ……っ」
 互いに最後が近かった。動きとともに早まる鼓動。
 うめいたのはどちらが先か。固く抱きあったまま、動きを止めてきつく互いを抱きしめあう。
 聞こえるのはただ、互いの荒い息遣いだけだった。

 不思議そうな目をした鬼の前で、身仕舞いをする。面映いような、心持。
 ゆったりと簀子に寝そべった鬼は体に破れ衣をかけたままのなりでいる。
「竜胆……」
 問いかける鬼の声を聞かぬふり。季周は指で髪を整え庭先に目をやった。いつしか桜がほころんでいた。
「大蛇丸。呼ぶまで近くに来ては、ならぬ」
 喉元を締め上げられたような声が聞こえた。
 風に溶け消え往く鬼のその姿を、季周は決して見ようとはしなかった。




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