季周は振り返る。すでに鬼の姿は、ない。 「お……」 大蛇丸。呼べなかった。呼べば、鬼は来てしまう。これからの姿を鬼に見せるわけにはいかなかった。 だからこそ、あのようなことを言ってのけたのだから。 ゆらり、簀子から立ち上がった体が左右に振れる。 這いずるように帳台までたどり着き、横になったときには全身が汗みずくだった。なのに体は芯まで冷たい。 額の汗を手で払い、季周は笑う。 こうなると、わかっていた。そう笑う。 鬼との交わりが体中の精気を吸い尽くしている。先の交わりで知ったこと。 泥のように疲れ果て、季周は眠った。 悲鳴が聞こえていた。 前にもあったこと、どこかで季周は思っている。遠い所から聞こえる女の泣き声。 「だれぞ……」 掠れた声が自らのものとは思えず、季周は目を開ける。目を閉じていたとも気づかなかったというのに。 「中将様……」 「お目覚めに……」 わらわらと聞こえる女たちの声。そして芥子の臭い。 それで知った。また深い眠りのうちにいたのだと。あの聖が加持をしているのだと。 以前とは違うことはただひとつ。夢を見なかった。 「また……」 夢を見ることが出来るやも知れぬ、どこかでそう思っていた。あの幸福な夢を見られるならば、と心待ちにしていたのだが、此度はそれさえ叶わない。 「さようでございます。またお眠りになったまま……ようございました、ほんによう……」 見当違いな喜びの声をあげる女房に季周は答えることもせず、手振りで水だけを求める。 愕然とした。 手が上がらない。ようよう上がった手指はまるで他人のもののように見覚えがない。それほどやつれはてていた。 「ささ、そっと……ええ、もっとお飲みなさいませ」 慣れた女房が口元に椀を寄せ水を吸わせる。ほのかに甘い。 「甘葛でございますよ」 目元に涙を浮かべた女がいた。見慣れたはずなのに、見覚えがない。遠い昔に会ったかのように。 「聖は」 喉に絡まる声をようやく出して問う。 「あちらで加持を。恐ろしゅうございました。もう何日もお目覚めなく……」 話し続けようとするのを視線でわずらわしそうに払えば、女房もそれ以上言葉を継ぐことなく黙って立ち、程なく聖を連れて戻った。 「おぉ、ようございましたな。またも物の怪めが参りましたと見えまする。なんとも執拗な物の怪でございますなぁ。ですがもうご安堵召されませ、我が法力に恐れをなして退散したと見えますれば……」 放って置いたらいつまででもだらだらと喋り続けるであろう聖を手振りひとつで黙らせた。 「中将様、まだご気分が優れませぬようにお見受けいた……」 「もう帰っていただいて良い」 「いやいや、まだ早ようございますぞ」 息を継いで精一杯に話そうとする聖のその野卑な顔。皺だらけの顔に爛々と目を光らせて涎でも滴らせんばかり。 季周は顔を背け細く息を吸う。芥子の臭いがたまらなかった。 が、思う。これほど芥子が立ち込めていればああ強く言わなくとも鬼は来はしまい、とも。そのことにこそほっと安堵した。 この生臭聖などに調伏されるような物ではなかれども、万が一と言うこともあろう。この者のいる場所に鬼を近づけたくはなかった。 いま、鬼はどうしているだろうか。あの晩の、いや、それまでに会ったすべての晩の顔の一つ一つがまざまざと浮かび上がる。 「中将様」 「帰って良い」 「ですが」 「もう良い、と言っておる。だれぞ、だれぞおらぬか」 張り上げたはずの声は驚くほどにか細かった。 唇を噛み締め、季周はただ待つ。程なく現れた女房に聖を連れ出すように命じ、目を閉じる。 「だれぞ」 そっと寄ってそばに控えた女房に御簾をかかげるよう命ずれば 「お体に障りますゆえ」 そう、言葉少なに抗った。 「良い」 話しにならぬ、とばかりに季周は自ら体を起こす。いや、起こそうとした。 けれどほんのわずかばかり枕が上がったのみ。 「あれ、中将様」 聖を連れ出した女房が戻り、驚いて声を上げては季周を押し留める。 「御簾でございますか、ようございます。ほんの少しばかりでございますよ」 乳母のような口をきいては立ち上がる。 「ささ、常陸介さんも手伝ってくださいな」 先ほどの女にも声をかけ、御簾を巻き上げていくその後姿が小さかった。 思えばどこか涙声。はじめて季周の心に罪悪感が生まれ、わずかばかり切なくなった。こんなにも心にかけてくれる者たちがいるというのに、と。 巻き上げられた御簾から庭がのぞいた。 見れば桜が。 「ああ……」 あの晩は、ほころんでいたばかりの桜花がいまは咲き誇っていた。 はらりはらり、落ちる花びらは、きっとあの夜のもの。 真昼の光も柔らかく、ほの白い花を照らしている。風もないのに散る花びらの一枚一枚に光があたってはひらめいて、消え。 あの下で、鬼が舞ったならばどれほどに。 「蘭陵王……」 見えた気がした。 ひらめく袖、さす手かえす手、踏む足にちろりちろりと花が舞う。 白い花、赤い炎。柑子の目が、笑った。 目を閉じた季周の瞼の裏、しっかとそれらは見えていた。 鬼はいた。山の中、季周のいる屋敷が見える山の中、鬼は一人そこにいた。 忌々しい芥子の煙が鬼の目には見えている。もうだいぶ前より焚かれていないというのに、芥子は漂い離れない。 「忌々しい……」 ぽっと口元の炎が大きく燃えた。 季周の元より離れて早十日。桜は散り初め、風がなくともはらりはらりと舞い落ちる。 「竜胆よぉ」 呼んで欲しかった。 まさかこれほどまで長い間呼ばずにいられるとは思いもしなかった。 あの晩、確かに竜胆と求め合った、そう思ったのもつかの間の夢であったか。鬼はがちがちと歯噛みする。 木の間隠れに月が出ていた。春の宵の朧月。鬼の破れ衣を照らしている。 悔しさまぎれに傍らの桜を叩けば降りかかる花びら。 不意に一筋の煙。 立ち上るは野辺送りの。 さっと顔を上げて鬼は走った。と、壁にでもぶつかったかのように進めない。 「竜胆――ッ」 鬼は吼え、頭を振った。その髪から落ちる桜花。 背後で笑い声。 「だれぞ笑うかッ」 振り返ったそこに季周がいた。 「……竜胆」 気が抜けたように鬼は彼に近づく。今度は阻まれなかった。 「ぬし、なぜ笑う」 「おかしゅうてな」 そう言ってはまた笑う季周は加茂川べりの夜の装い。春だというのに竜胆襲の直衣も鮮やかに。淡い蘇芳の色合いが月に映えてはぬめるように光っていた。 袖口からちらり、青がのぞいて、そして出てきたのは錦の袋。 「おぉ……」 鬼が歓喜の声を上げる。それは笛袋だった。 「聴くか」 「おうよ」 短いやり取りで季周は笛を吹き始める。やはり、上手くはなかった。 それを鬼はいとおしげに見ている。月下の桜、その下の竜胆の貴人。 「いいなぁ、竜胆」 溜息に炎が混じり、偶然か、口元に舞い降りてきた花びらまでもがぽっと燃え。 いつの間にか笛を放した季周が鬼を見ていた。 なにを言うでもなくもただじっと。 その手が上がり、鬼の頬に触れる。 「あぁ、温かいな」 微笑んで言う顔のその青さよ。 「竜胆……」 鬼の顔もまた。 笑って鬼の胸に顔を埋め、それから両の腕を背に回し、力一杯に抱きしめる。 鬼の体のぬくもりを今を限りに確かめようと。 不意に鬼が青ざめる。 「ぬしは」 鬼の言葉が途切れる。言葉を口にしてしまえばそれが本当になってしまうとでも言うように。 長い爪をした指で季周の口を覆い、それでも足らぬとくちづけでふさぐ。 はじめてだった。温かく、甘い。真実を知らずにはいられないその、感触。 そっと唇を離した季周が鬼を見つめ。微笑む。 「この世の命は尽きた。あれは私の野辺送り」 抱き合ったまま季周は振り返り、あの煙を指差して見せる。 「わしの」 「お前のせいではない」 「だが」 「お前をいとしゅう思うた。死んでも悔いはないと思うた」 鬼の体をそっと押しのけ、季周は微笑んだ。 言葉もなく立ち尽くす鬼の頬に今一度触れ、炎を指先に移す。あの夢のように。 炎は踊った、あの夢のままに。指から指へと躍り上がって跳ね上がる。幼子のような笑い声を立てて季周はそれを放り上げ、両手に挟んでぱちりと消した。 「今しばらくの別れぞ」 「なにがしばらくなものか……ッ」 「いつの世か、共に。人と生まれ――」 そのあとの言葉は聞こえなかった。夜風に溶けるよう、季周は消えた。 ただ鬼の頬に温かい手の感触だけを残して。 「竜胆……ッ」 追った。どこへとも知れぬ夜の山、鬼は走った。手を伸ばし、力の限りに。 そうすれば季周が戻るとでもいうかに。 鬼の頬に涙が伝う。血の色をした、赤い涙。二度と会うことはない、己が死に追いやった季周を求め、鬼は走った。 「竜胆ぉ……」 駆け出した鬼の足跡にぽつり、ぽつりと咲き初めるは竜胆の花。 「竜胆よぅ――」 走り去る。咲き乱れた花に気づくこともなく。それも程なく、名残の桜の散る花びらに覆い隠され。 風が桜を舞い上げる。鬼の姿はすでになかった。 以来、春の初瀬山には鬼の泣き声がこだまする。哀しげな、切なげなその声は聞く者の心を揺さぶるのだ。 ――そう、語り伝えられている、という。 |