季周は、そのままじっと鬼の消えた場所を見つめていた。 「なぜ……」 あのようなことを。 陰陽師に聞いたことがある。真実の名、というものは人を縛るものだ、と。あるいはそれは人に限らずすべての存在を、ということなのかもしれない。 事実、自分は名で操られた。それを目の当たりにしては鬼が名を教えていった意味など、問うまでもない。 「なぜ」 再び呟く。 いや、理由などわかりきっていた。あの鬼は自分を――。 額に手を当ててため息をつく。疲れは去らなかった。じっとりと重たい体に加えていささかの寒気。 「鬼よ、なぜ」 惰性で呟き、季周はその場に身を横たえる。 身につけた衣装までもが重たく感じられては目を閉じる。 眠りに引き込まれていった後、起こった騒ぎを季周は知らなかった。 鬼がいた。 いた、ではない。その腕に自分が抱かれている。 はっと気づいて身を引こうとしたけれど、一瞬の後にはまた胸に頬を寄せていた。 それが快かったから。 それで夢だ、と知った。 そんなことが現実にあるわけもない、と。鬼の腕に安らうなど、ありはしないと。 けれどもこうしていることの心地良さ。まるでこれがあるべき姿だとでもも言うように、当たり前に自然で。 「竜胆」 鬼が呼ぶ。その口元にわずかな微笑。ぽっと、炎が灯った。 腕に抱かれたまま、季周はその炎を指先に受ける。 小指に受けたそれは薬指に、中指に、そして親指まで広げた指先を順序よく移動し、そしてまた小指に戻った。 それから再び中指まで。そこで躍り上がってはじけて消えた。 夢の中の自分はそれを楽しげに声をあげて笑って見ている。 どこか遠く、我が身が二つに分かれてしまったように眠る季周は自分と鬼の姿を見ていた。 どこか、胸が騒ぐ。あそこにいるのは自分であるというのに、なぜか他人でもあるように。 そう思った途端、胸の騒ぎが痛み出す。襟元を握り締め、首を振ってそれを否定しようとしたけれど、そう動いたのは鬼の腕の季周。 気遣わしげに鬼の指が腕の季周の髪を梳く。 「なんでもない」 満足そうに笑って鬼の肩口に頬を摺り寄せている。 あれは自分か。愕然とする。わかりきったことなのに、愕然とする。 あれが自らの望み。そうでないならばなぜ、このような夢を見る。 と。 鬼の姿が変わった。 狩衣姿の美しい男だった。白の狩衣の襟元から重ねた単がのぞく。蘇芳に赤。樺桜の襲色目もあでやかに。腕の中の男を包む袖に見えるは夜目にも鮮やかな袖くくりの紐。白に映えて美しかった。 その腕の中にいる男もまた、変化を遂げている。 が、それが鬼でありまた季周である、そう眠る季周には、わかっている。 いつか、どこかでそうあるかもしれない、自分達の姿、だと。 眠る季周はその男の温かい腕を感じている。頬寄せた胸のぬくもりも抱く腕の強さも。 これほどの満足は知らなかった。愛しいものと触れ合っている、その幸福感。 「そうだ、愛しいものだ……」 腕の中、季周であった男が言えば 「なにを急に」 男が笑う。笑って彼を抱きしめる。くつくつと笑うその口にわずかに尖る牙のような歯。 けれど男は人間であった。なによりそのほんのりと温かい体がそれを証していた。「鬼の末裔」と噂されていることも知っていた。けれどこのぬくもりのある体。「私」は知っている。まぎれもなく人だ、と。が、知っている「私」とは誰だろう。 「なんでもない」 彼は言い、その目を閉じれば男がくちづけをする。うっとりと、ただ触れるだけのように。 ふっと、その姿が鬼と季周の二重写しになった。鬼と自分がくちづけをしている。 眠る季周に嫌悪はわかなかった。 むしろその甘いくちづけを、もっと――。 不意に強い香りが漂って、季周は覚醒に追い込まれる。目覚めたくなかった。 このまま鬼の腕にいたかった。このような幸せなど、絶えて知らなかったものを。 目を開ければそこは己の居室。 「中将様……」 泣き濡れた女房の顔が目に入る。 「お目覚めに」 「ようございました」 「これも尊い聖がいましてのこと……」 口々に言い交わす声が、わずらわしい。目覚めたくないものをわざわざ聖を呼んでまで起こすとは。 「お倒れになられましてから、三日の間ずっとお声をかけましてもお目覚めにならず……」 そば近く使っていた女房が言うのを聞いて季周はなんと驚いたことか。 三日が。泡沫の夢、と思っていたものが。 「私は眠っていたのだな……」 揺れ動く心を見透かされまい、と季周はわかりきっていることを言う。女は涙ながらにうなずき、白湯など召しませ、と椀を手に持たせた。 それをすすれば確かに喉が渇いていた、と知る。 その季周の鼻に匂いが届く。 「……芥子か」 「さようにございます。魔除けの香、とは聖の仰せにございます」 「なるほど」 答えて知る。それゆえに覚めた夢か、と。 鬼と共に見た夢ならば、異界のものに芥子はさぞ辛かろう、と。 鬼があれを見たことを季周は疑わなかった。鬼が見せた、のではない。あれは共に見た自分の、夢。 ならばあれが我が望みである、ということか。 自らに問うもそれの答えをすでに季周はわかっている。 「おぉ、お目覚めになられましたな。よろしゅうございました」 夢想を破られ、季周は不満げにそちらを見た。 そこに聖がいた。芥子の匂いが漂っている。 「手数をおかけした」 半身を起こして礼をすれば、なんの、と手を振って聖が笑う。 その笑い方に気分が悪くなりそうだった。こんな下卑た笑いをするような人物であったか、と。 「中将様におかれましては、いかな前世の因縁をお持ちのことか。危うい所でお命を留められましたのも、きっと素晴らしい前世の行いがあってのこと。お慶び申し上げますぞ。生気を吸われ、ほんに危のうございましたな。このごろ体がだるうはございませなんだか。あと少々気づくのが遅れましたらお命がないところでしたぞ」 一息に言って、聖はまた笑う。よほど験があったのが嬉しいらしい。冷めた思いで季周はそれを見ていた。 そしてなにが起こったのか、まったくわかってもいなかった聖の言葉から、季周は真実を知る。 あの体の変調は、鬼と情を交わしたそれ故と。 途端にあの夜を思い出し、知らず頬を染めた。 「そのようにお恥じられになるには及びませぬぞ。前世の因縁、と申しましたが正にその通り。こうしてお目覚めになられたのですから。いやそれにしてもお美しゅうございますな」 なにを勘違いしたものか唾を飛ばしてしゃべる聖が厭わしい。 眠りにやつれた顔を涎を垂らさんばかりに見ている。これが聖と言われた者か。 嫌悪に顔を歪めたのを見られぬよう、顔を伏せればまた笑い声。 「いかな物の怪に憑かれたものか……なに、すぐにわかりましょうほどに、ご心配あられませぬよう。いや、ほんにお美しい。物の怪もそのお美しさに引き寄せられましたものと見受けられまするな」 顔をくしゃくしゃにして、大声で笑うその声の疎ましさ。 しかし聖の言葉に季周はさらに知る。すれば聖はまだなにもわかっていないということか。心うちで嘲笑った。物の怪と鬼の区別もつかぬような者がよくぞ尊い聖、などと言われたものよ、と。 「もう、何事もないでしょう」 目を伏せ、それだけを言う。 「いやいや、油断は出来ませぬぞ。これからが肝要かと……」 「お引き取りください」 最後までも言わせずに季周はそう言った。婉曲な物言いも通じないならばはっきりと口にせざるを得ない。 「なにを仰いますか……」 驚く聖が身じろげば立ち上る芥子の臭い。 手を打って女房を呼んだ。 「斎の用意を。粗相があってはならぬ、庵まで誰ぞお送りさせるよう」 命ぜられた女房はわずかに目を見開いたのみ。あとは黙って従った。 「中将様」 抗うように言う聖から漂ってくる芥子の臭いがたまらない。 あの臭いこそが幸せな夢を破ったのだ、と思えばこそ。 無性に鬼に会いたかった。夢に己の思いを知った。 思えば初めから恐ろしいとは思っていなかった。そばにいるのが楽しい、とさえ思っていた。 今はしかと知る。あの晩、拒むことは出来た、と。そうしなかったのは紛れもない、己だと。 無性に鬼に会いたかった。 気づけばすでに聖はいない。漂う芥子の匂いも消えた。それがなにより季周に安堵を与えていた、これで鬼が来られる、と。 |