気づいたときにはすでに鬼の姿はなかった。外の様子をうかがえばまだ、夜明け前。 夢か、と思った。 嫌な夢を見たものだ、と。が、しかし確かにあれは現のことだった。 帳台の中、自分のものではない香りがしている。鬼の、ぼろぼになった衣に、それでも焚き染められていた香の匂い。 夜の間、ずっと香っていた気がする。不意に思い出す。 「なぜ……」 呟いた己の声に正気づき、女房に気づかれぬうちに身じまいを済ませた。 静かに用意した布を水に浸せば肌に冷たい。 鬼の触れた肌。布で拭えば、冷たいはずのそれが熱く疼いた。 体が重かった。 闇の中の出来事のせい、と思えば羞恥に身悶えしたくもなる。 しかしそのことのせいばかりとも言えないほど、重たい。 こんなことはたえてなかった。ありえないことが起きたせいだ、季周はそう断じ体を清める。 姿を整え、そっと帳台から滑り出す。格子を上げればその物音に女房が起き出す気配。それを手で押し留めてはまた帳台に戻る。 帳をかかげて横になったまま季周は庭を眺めた。庭を、ではないかもしれない。何も見てはいなかった。 夜明け前の曙光が鮮やかに空を染め、そして消える。闇。そして少しずつ空が白み始める。 東の空に浮かぶ雲の紫めいたその色合い。 差し込む一条の光が庭の木にかかった。 あの、鬼が舞った木に。 季周は目を背け、放り出したままの扇を取っては目を覆う。 けれど見えないはずの目の中に、ありありと鬼の姿が浮かんだ。 忌々しげに扇を投げ出し衣を引き被いてはその中に顔を埋め。 その日一日、季周は日が暮れるまで帳台を出ることはなかった。 女房どもがあたふたと騒ぐ声も聞かず、 「中将様、何か召し上がられませ。お体に障りますゆえ」 そんな言葉に耳を貸すこともなかった。 聖が、来ていたらしい。 女房がそれと告げに来た。季周は帳台の中で身をよじる。 どうしてこの体で尊い聖にまみえることができようか。 異形の者がほしいままにした体から、聖ならばきっと情欲の焔を見て取ることだろう。 それを知られてしまう以上の恥辱など、ありはしなかった。 遠く、聖の穏やかな笑い声が聞こえる。 季周は聖も、女房さえも寄せつけず帳台の中に一人、横たわっていた。 いつしか日が暮れていた。帳をかかげたままの帳台の中から季周はぼんやりと月を見ていた。 月を、ではなかった。木々の影から差し込む光に青白い庭。それを眺めていた。 なぜ。 自問する。拒もうと思えば拒めたのではなかったか。 目覚めから何度も自らに問うた。答えはいまだ出ない。 と。帳が落ちた。明かりのない帳台の中が闇に閉ざされ。 その隅にぼうとした、明かりが。 それを認めた瞬間、季周は手近にあった扇を投げつけていた。 音を立てて、落ちる。確かに当たったのだ。鬼の、体に。 「去んでしまえ」 叫び声は掠れて小さい。静かに押し殺したような声だった。 「ぬしが、呼んだ」 「呼ぶものかッ」 「呼んだ」 鬼の唇から炎が燃え立ち、揺らめく。言い募る声は、少しも恐ろしく思えず、それが季周をいっそう苛つかせた。 「……なぜ」 あのようなことを。 言葉には出来ず、心の中でそう問いかける。 「惚れた。そう言うた」 目を閉じた季周の耳にいっそ、哀しいほどの鬼の声。 「念願果たした、というわけか。ならばもう姿を現すこともなかろう」 「なにを言うか」 「この体を手に入れた。思いを遂げたならもう……私にかまうな」 鬼を睨み、そして目を背けた季周に鬼が不思議そうな声で問う。 「ぬしは惚れたことがないのか」 と、そう。 「誰かを愛しい、そう思うたことがないのか」 鬼は言い、炎が揺らぐ。それはどこか寂しげな色をしていた。 「わしはぬしに惚れた。惚れたから抱いた。惚れたから、名を呼ばん」 「名を……。なにを言っているのか、わからぬわ」 鬼がかすかに笑った。 「季周、来い」 鬼の声。 声、と気づくより先に季周の体は動いていた。 動く、と意識さえしなかった。 はた、と心づいたときには鬼の腕の中、抱かれていた。 「季周、動くな」 再び、声。命ぜられた、とも聞こえないのに季周は身じろぎひとつ出来ない。 長い爪をした鬼の指がそっと髪を撫で、頬に触れる。繊細なほどの仕草で抱き寄せられれば温かくもなく冷たくもない鬼の体温を頬に感じ。 開放は突然に訪れた。もう、呪縛されている感覚は消えていた。 季周は己に問う。なぜ、逃げ出さないのか、と。 答えはやはり現れずただ黙ってされるままになっていた。 鬼は静かに季周の頬を撫でるばかりだった。 「名を呼ぶ、というのはこういうことだ」 言葉少なな鬼の答えに季周は悟る。昨夜、そうしたいと思うならば鬼は好きなだけ自分を意のままに出来たのだ、ということを。 「ぬしを愛しう思うた。名で操りとうなかった」 ぎりり、鬼に握られた腕に爪が食い込む。痛みに身じろげばはっと鬼がそれを詫びた。 「愛しうて愛しうて、耐えようものうなったわ」 季周を抱いたまま、その肩口に顔を埋めてはぎりぎりと歯を鳴らす。 愛しい、苦しい。 言葉なき声がそう言っていた。 きつく抱かれたままの腕の中、思い起こした。 昨夜だけではない。 鬼が自分を見初めて以来、いつでも好きなように出来たのだ、と。 影から、闇の中から、ひたと見つめるだけでなくそうしたいと思えば抱くことも攫うことも出来た。 鬼は、しなかった。 竜胆と呼ぶ。そう告げたときの鬼の気持ちはいかばかりであったのだろう。 わずかに心動かされたのに気づき、季周は動揺した。 「酷いことをした。そう思うておるわ」 自嘲したかの声が聞こえる。 耐えられなかった、と言い。酷いと言う。 鬼の白い蓬髪が頬に柔らかい。体からはずっと気づかなかった香の匂い。 裂けてぼろぼろになった鬼の衣に頬を寄せて季周は惑乱していた。 あのような恐ろしいことをした者。 何度心に呟こうとも、呟き以上の大きさにはならず、絶えず響きに疑問が混じった。 恐ろしい。 はたしてそれは真実か、と。異形の腕に抱かれて慄くこともなく、こうしているではないか。 熱に浮かされた心地がする。 「信じられるものか」 けれど唇を割ったのは鬼を責める言葉。 「もっともだ」 少しだけ、鬼が笑った気がした。 「竜胆よぉ」 ためらいの口調で鬼が言う。季周、とは呼ばなかった。それをどこか残念に思っている己に気づいて愕然とする。 鬼は気づかず言葉を続けた。 「わしは恐ろしい」 しばし口を閉ざす。急かそうとは思わなかった。 「わしは」 鬼の喉がごくりと鳴った。 「大蛇丸、という」 季周は、知った。 鬼は、大蛇丸はいまその命さえもを季周に預けた。 季周が死ねと命ずれば大蛇丸はその名によって従うだろう。 「いつでも呼ぶがいい」 今一度きつく抱きしめたかと思うまもなく大蛇丸は、消えた。 |