声もなく見入っていた。恐ろしかったわけではない。ただ眼前の異形の者をじっと見ていた。 これが気鬱の正体か、と思う。尊い聖にもその姿をつかませなかった、鬼。 みすぼらしかった。姿だけならば。 季周はつ、と視線をそらし庭に目を向け、そして再び笛を手に取る。吹きはしなかった。 「何の用だ、鬼」 目にしていなければ消えてしまったのかと思う。が、すぐ隣に圧倒的な存在感があるのも感じる。それはまるで大きな風が吹きもせずそこに留まっているかのようだった。 「ぬしに逢いに来たのよ」 「ずっと、そこに居ったろう」 季周の勘、だった。今まで感じはしなかった。けれどいたことは間違いない、そう確信していた。 視界の端でにやり、鬼が笑った。ちろり、唇から炎が揺れる。 「気づきもせなんだ癖に、よう言うわ」 鬼は笑い手を伸ばしてきた。避けよう、と思ったときにはすでに手をつかまれていた。 乾いた手だった。恐ろしいほどに伸びた爪が食い込むことなく季周の手をつかんでいる。 「傷つけは、せん」 爪は赤かった。生血の桶に何度浸したら、こんな赤に染まるのか、ぼんやりと季周はそう思う。 「私に、何の用がある」 鬼は手をつかんだまましばらくじっとしていた。手は温かくもなく、冷たくもない。それが不意に人ではないのだ、と感じさせ季周は言葉を発せずにはいられなかったのだ。 「惚れたのよ」 「なにを、言うか」 「ぬしの笛に、惚れた。ぬしにも、惚れた」 「笛」 「おう、笛よ」 季周が握ったまま放さずにいた笛をこつり、爪ではじく。 「秋の加茂川べりだったなぁ。ぬしが笛を吹いていた。良い音だった」 「嘘をつけ。まずい笛だ」 「上手い下手はわからん。わしは好いた。それだけだ」 「そうか」 「おうよ。なぁ竜胆。吹いてくれ。聞かせてくれ」 「竜胆?」 「加茂川べりの晩、ぬしは竜胆襲の直衣だった。夜目にも鮮やかな淡い蘇芳に真っ青な裏がちらちらとな。わしは思ったものよ、生き身の竜胆が笛を吹いて居るとな」 だから竜胆と呼ぶ。鬼はそう言ってはからから笑い、ようやくつかんでいた手を離した。 それに季周は少しばかり不思議そうな顔をし、後は答えるでもなく笛を唇に当てた。 おかしなものだった。 ちっとも恐ろしいとは思えない。いま聖を呼びに行かせればすぐにでも調伏できるだろう。そんな考えを持ちはしたが誰かを走らせようという気はさらさらなかった。 夜気に季周の笛の音が流れ溶け込む。 あるいは、季周自身の目にだけ、映る鬼なのかもしれない。それならばそれで良い、そうも思う。 鬼はこの笛が良い、と言った。 ならばしばしの間身近に置くのも悪くはなかろう、と。 「なぜ、祟った」 ふと、心付き季周は笛を話してそう問うた。 「祟ってなどいるものか」 「秋から私はずっと気分が優れなかった。何かが憑いている、と人は言う。お前なのだろう」 「それならば」 言葉を切った鬼に不審の目を向ければ鬼は笑っていた。顔を伏せ、くつくつと肩を震わせ。その白髪に炎が移りめらりと燃え、消える。 「わしの気鬱じゃ」 目を上げた鬼。柑子色の目がぎらりと光る。ほんのつかの間、恐ろしい、と思った。 「どんなに近づいてもぬしは気づかん。だんだん笛も吹かないようになった。いっそ取り殺してくれようか、とも思った」 赤い爪が喉元に伸びてきた。留紐を外した直衣の襟からあらわになった首は鬼の手に触れられるとねじ切られそうに、見える。 「わしには」 それきり言葉を続けることなく鬼は季周の首に手を触れたまま、季周の肩に額を置いた。頬に雪白の髪が触れる。思ったよりもそれは柔らかい髪だった。 ぷつり。喉もとの爪が皮膚を割った。盛り上がる血の珠を舌で舐め取る。 「竜胆」 その鬼の目を、初めて恐ろしいと思った。どうしようもなく、哀しい、とも思った。 「竜胆よぉ」 血涙。絞り出すような声を上げそのまま鬼は、消えた。 一陣の風が草を揺らす。まるで鬼などどこにもいなかったかのように。目覚めたまま夢でも見たかのように。 季周は喉に触れる。確かに傷があった。自らの指で触れた傷口は深くもないのになぜか、痛い。 黙って笛を取り上げる。ずっと握り締めたままだった。そっと唇に当て、吹く。 やはり、上手くはない笛だ。吹きながらそう思う。が、これがいいと鬼は言った。この笛に惚れた、と。 「中将様。風が冷とうございます。内にお入りあそばせ」 女房がそう声をかけるまで、季周は吹き続けた。外はすっかり暮れきっていた。 以来、鬼は度々姿を見せた。ちらほらとほころび始めた桜の下、鬼の髪が風に舞っていたのを一度ならず、見た。 「ずっと」 ああしていたのかもしれない。季周は思う。加茂川べりの夜からずっと、自分が気づこうとしなかっただけで鬼はそこにいたのだ。 「竜胆」 鬼の呼ぶ声がする。どことも知れぬ場所からの声。誰彼時の魔の時間。人ならざるもの表れし時の声。季周は応えて笛を取る。 返事はしなかった。代わりに笛を吹いた。それでしばらく声がやむ。 やませたいがために吹いているのではなかった。ただ、聞かせたい。こんな自分のつたない笛が良いと言った鬼のために、吹いていたい。 「酒を持て」 女房に命ずれば瓶子がひとつ、杯がひとつ。 「杯を、いまひとつ」 怪訝な顔をする女房に口を開かせることなく命ずれば、程なく空の杯が。一つ、二つ、杯に酒を満たす。間には若菜を茹でた肴の皿。それに目を留め 「春なのだな」 知らず、呟く。山の上に春がある。都ではすでにたけなわだろう。柳の瑞々しい新芽が川面に映る。仄かに色づく桜花の艶。どんな錦よりも美しい都の春。 鬼の声が夢想を破った。まだ硬い蕾ばかりの桜の下に鬼が立つ。 「こちらへ参ったらどうだ」 季周は言っていた。はじめから姿を現す、と思っていたわけではない。ただ、来たら呼んでみようか、とは考えていた。そのための、杯。 「恐ろしうはないのか」 切なげに呼ぶばかりだった鬼が、少し驚いた声で、言う。 「恐ろしい。だから呼ぶ」 「嘘をつけ」 「わかるか」 「おうよ」 鬼がそばに寄った。動いた、とも見えなかった。気づけば傍らに座っている。 「もう言葉を交わすこともないかと思っておった」 「なぜだ」 「傷つけてしもうたからよ。傷つけぬ、わしは言った。それなのに喉を破ってしもうた」 「悔いているか」 季周が笑った。ひそやかなそれであったが、鬼はぎらり、睨む。 「赦せ。あのような些細な傷を気にしていたとは。そう思っただけだ」 「わしは」 「もういい。一人で飲むのに、飽いた。酒の相手をするがいい。それを詫びと思おう」 黙って杯を取る気配。一息に干した。 「おう」 声を上げた鬼の空の杯に酒を注す。また、干す。 「良い酒であろ」 「良い酒じゃ」 笑った季周に鬼もまた、笑い返す。 「鬼よ」 「なんじゃ」 「……笑うな。恐ろしい」 めらめらと口から漏れた炎が燃える。逆立った白髪が風に舞う。鬼は全身で、笑った。 「よう言うわ」 「なにを。真実恐ろしいと思っているから言うておる」 「それが怖がっている生身の態度か」 鬼の差し出す杯に酒を注せば、また鬼が笑った。その瓶子を鬼は取り上げ、季周の杯に注す。 それからしばらく、ほろほろと飲んでいた。 良い風だった。 篝火も焚かない庭は暗い。月が照らすにはまだ、時があるだろう。 「おう、のうなったわ」 季周の杯に注ごうとした鬼が言う。肴など、疾うにない。 「竜胆」 もう少し飲むか、訊ねかければ鬼が呼ぶ。 黙って季周は懐に手を伸ばす。いつも携えている錦の袋。笛を取り出す。 「よいなぁ」 うっとりと鬼の声。立ち上がる気配。ひらり、庭に降りた。 笛に合わせて鬼が舞う。さす手かえす手。襤褸の袖がひらめき足を踏む。灯りはない。鬼の口元の炎のみ。柑子色の目が時折光る。美しかった。美しい、季周は確かにそう思った。 「蘭陵王か」 「たわけ」 鬼が笑った。と見えて消えた。その時、刺してきた一筋の月光に解けでもしたかのように。 |