今は昔――。 右大臣・藤原基季の三男、季周(すえちか)と申した方が頭中将であられた時のこと。 都を覆う闇の色は濃く深い。その闇の中、あらゆる異形の者が跳梁跋扈していた時代であった。 季周は深山にいた。気鬱の病である。 さして上手くもないが笛を吹くのをことのほか愛している季周は、ふと夜の闇にまぎれて笛を吹いてみたくなった。 嫌がる童を一人ばかり連れて加茂川べりに出る。 とろりとした闇夜であった。 童の持つ松明の炎だけが明るいが、それとて頼りないものでしかない。 川のせせらぎが恐ろしい、と童が言う。がたがたと震えているのを横目に答えもせず季周は笛を取り出しては吹き鳴らした。 それ以来であった。 思えばその夜から気がふさいで何をするにも手がつかぬ。 父・右大臣からは兄達よりなお愛でられた美貌が病にやつれたのもまた美しい。 「初瀬の山に尊い聖のおわすと聞きます。いかがです、お出でになっては」 病やつれした頬に右大臣が見惚れつつ言うのに一も二もなく従った。 ただでさえ気がふさぐ所に「女であったら時の帝にも……いっそ自分が」とあからさまに語る視線を浴びせられているのはたまったものではない。 仮にも右大臣の息である。いかに尊い聖とはいえ、かの者の堂に参ったまま何日も、というわけにはいかない季周はちょうど良い場所にある貴族の別邸を借り受け、当座の住まいとした。 山家風にしつらえた風雅な屋敷であった。 当初は何人も連れてきていた従者達、女達も早々に都に帰し、今は残っている者が「風の音が空恐ろしい」と嘆くほどの数しかいない。 面白がって訪れてきた若い貴族も飽きたと見えて最近は姿を見せなくなっていた。 加茂川べりの夜は秋の初めであった。都から逃れるように山に登ってきたのが春とは名ばかりの頃。それからすでに半月ばかりが経っていた。 山の春は遅い。 とはいえぽつりぽつりと花が咲きはじめてきてはいた。淡い緑の葉が萌え出てくるのを見るのもまた心浮き立つ。このように気がふさいでさえいなければ。 人気を排した間で季周は溜息をつく。直衣の襟の留め紐もはずしたしどけないなりであった。 脇息に寄りかかり、庭を見るともなしに眺めているその姿。 山桜の白い花がちらりと葉先から覗くのを見やる目元の涼しさ。 桜萌黄襲の直衣の裏からわずかに見える赤い色。 「この世ならざる者さえ見入りましょうぞ」 そう父が目を細めたのもまたむべなるかな。 「酒を」 女房に命じ、それを捧げ持った女がいなくなってからはじめて瓶子を取る。 手酌であった。 ほろほろと何を考えるわけでもなく庭を眺めて酒を飲む。 楽しかろうはずもない。 「いったい……」 季周はひとりごち、それこそいったい何が、と言うのかいぶかしむ。 「あれからだ」 そう、あれからだった。 秋の加茂川べり。 嫌がる童を連れただけの酔狂な晩。 「月の綺麗な夜だった」 煌々と月の光が川面に散っては流れのままにたゆたい、流れた。 共に流れるのがこの世ならざる笛ならばどんなに素晴らしい夜であったろう。 そう思っては苦笑を浮かべる。 自分でも決して上手い笛だと思ってはいなかった。 ただ、好きだった。 好きで仕方なかった。 趣のある夜に、あるいは散り行く紅葉に。 興を覚えては吹かずにいられなかった。 あの晩もそうだったのだ。 「なんと美しい月だったろうか」 思い起こせばすでに半年もの年月が流れている。 あれから少しも笛を吹こう、という気にならなかった。 それも当然のことであった。 何をする気にもならないほど気鬱に落ち込んだ人間が笛など吹く気力があろうはずもない。 あの晩の月は魔性のものだったか。季周は思う。それほどまでに魅入られた。正に魅入られた、としか言いようがないほど。 無鉄砲な質ではない。季周は自分を良く知っている。己が笛が、好きで好きだたまらない笛が上手ではないことを認められる男であった。 普段であったら決してあのような無謀はしないであろう。 童が引き止めるのにもかまわず歩いた。川辺で吹いた。 「魅入られた、か……」 喉の奥で笑う。 いかさま、それ以外に考えようのない気鬱ではあった。 聖とは何度も会っていた。 都にまで名の知られた尊い者。言葉を交わし、経をあげてもなんの験もない。 しわびてくしゃくしゃになった顔をさらに小さくして聖は詫びた。 今も惰性のように時折経をあげさせてはいるが、気分はいっこう良くならなかった。 魅入られたのだとしたら無理もない。 聖には魔性の者が憑いたとは見破ることすら出来なかったのだから。 瓶子を振れば酒はない。何度目かの新しい瓶子を持ってこさせた頃、庭に目をやれば早、夕闇。 「篝火を」 どこにいるとも知れぬ男達に命じれば待つほどもなく庭に灯りが。 「もう少し、そちらへ」 一つ二つばかり咲き初めた山桜の下へと運ばせる。 白い蕾が篝火に映えて仄かに色づく。 男達はすでに消えた。 ただでさえ気が滅入る所にむさくるしい者の姿など見たくもない。 ぱちりぱちり、火のはぜる音がする。 見上げれば月はまだない。 「惜しいことを」 言いつつふと懐に手が伸びた。 その動きに我ながら驚く。 懐には笛があった。 吹く気はなくとも肌身離さず持っている笛。 それを今、吹こうとしていた。そんな気はさらさらなかったにもかかわらず。 「それもまた、一興」 口元で笑って季周は錦の笛袋の紐を解く。 出てきたのは古い笛。古いだけで取り立てて取りえがあるわけでもない。 季周の腕と似た様なものだ。 そのことに皮肉な笑みを浮かべて唇に笛を当てた。 山気の中に澄んだ音が吸い込まれていく。 確かに都の上手と比べれば雲泥の差がある。 だが何か惹きつけるものがあった。 音を外し、調子もずれるのに、どこがとろりとした蜜のような音がする。 笛の癖に蜜のような、というのが問題なのかもしれなかった。 「……どう」 風の声。 「り……」 否。 笛でもなく。 「何者か」 恐れ気もなく振り返った。 部屋の隅にぼうと人影が見えた。 「何者か」 再び問うても影は答えず。 ならば、と季周はまた笛を唇に当てては吹き始める。 ふわり、風が吹く。 と、思えば横にかの影があった。 笛の音が消え、季周が横を見た。 「何者……」 問いかけた言葉は喉の奥で消えた。 異形の者がいた。 ぼろぼろの狩衣は元々白かったのであろう。今は見る影もない。何より驚くのはその肌の色。赤銅の肌をしていた。その上に髪は雪白、目は柑子色。ざんばら髪が恐ろしげに顔に前に垂れている。 季周は悟った。今ここに姿を現した者こそ、気鬱の正体。 「やっと気づいてくれたなぁ」 そう言って鬼は笑った。その唇の間からちろり、燃える火。 |