屋敷内は普段と何の変わりもなかった。左馬頭が出仕もせずに浮かれ騒ぐのもそう珍しいことではない。昼間の内から酒だ肴だと貴族らしからぬ大声が飛び交うのさえ。
 ただ。雪白の絹布にわずかに一刷け、薄墨を刷いたかの怖れが。光重の笑い声さえ空虚に聞こえた。
 一人、二人と光重の元から去っていく。女房さえも消えた。光重はむっつりと押し黙ったまま杯を口許に運ぶ。
 おかしなことばかりが起こる。屋敷内に鈴が落ちている。猫の鳴き声が聞こえる。
「恵弘が……」
 死んでからだ。そう思い、光重は苦々しく自分の思いを改めた。殺してからだ、と。
 だがしかし、恵弘が死んですぐではなかった。少なくとも二三日は経っていた。それが不思議だ、と光重は思う。
 知らず笑い声を立てていた。このような異変が起こってなお、些細なことに執着している。
「日が経つも経たぬもあるものか」
 恨んでいるならば祟りもするだろう。あの恵弘に限って恨むの祟るのなど、似合わない気がしたが、殺した相手を憎むなとは言えない。
 ――あの執着のなさに、惹かれた。
 杯を口に運び、空になっていたそれに舌打ちをしては新たに注ぐ。それをあおっては、だいぶ酔いのまわった頭で考えている、恵弘のことを。
 何物にも、誰にも執着しなかった恵弘。何を考えているのか、わからなかった。光重にとってこの世は己の快楽のためだけにあるもの。
 それは富であったし、体の快楽でもあった。良いものを食べ、美しい女を抱き、美々しい衣装をまとう。それでこそこの世に生まれた意義もあろうもの。
 恵弘は違った。冷たい目こそしないものの、彼の心の目はいつも冷たかった。愛されるもの憎まれるのもわずらわしい、そう感じる恵弘が不思議でならなかった。
 生まれの良い彼は多くの上達部に愛された。美しい童であったし、声も良かった。もしそれが光重であったならばためらいもなく利用したことだろう。少年の鮮烈な美しさはすぐに消えてなくなる。女のそれよりずっと時間の短い美貌を利用しない手はない。光重ならばそう考える。
 恵弘は逃げた。この世の外に逃げた。なぜなのか、光重にはついにわからなかった。光重とて、生まれの良い男である。居間でこそ、早くに父をなくして鬱屈しているが、その父の築いた富はあるし、元々生まれは良いのだという誇りがある。
 いつかこの富を元に位階を進める、そう決めている。そのような光重にとって、己の美貌を利用しなかった恵弘は理解できない存在だった。
 そしてえてして、理解できないからこそ、手に入れたいものになる。
 それが互いにとっての不幸の始まりだった。
「いずれにせよ……」
 恵弘は死んだ。殺した。理解出来ずに怯える日々もない。
 内心の述懐にはっとする。
「怯えて、いた……」
 恵弘を恐れていたと言うのか、この自分が。震える手で残りの酒をあおけば唇の端から零れる。
「恵弘は、恵弘はもう、いない」
 掠れた呟きは誰の耳に届くこともない。だが、光重の心には染みとおる。
 ――もう、いない。
 それだけがただひたすらに。
 いつら恵弘を法名で呼ぶようになってしまったのだろう。彼が生きていたときは何度たしなめられても俗名で呼んだものを。
「信隆……」
 はるか昔、先の世で呼んだ名のように、響く。初めて苦しくなった。彼を殺してはじめて、悔いた。もういないのだと、初めて。杯を持つ手が小さく震えた。堪えようとしても堪えきれない嗚咽が喉を震わせる。熱いものが床に滴り。
 と。
 かつり。かすかな音が。目を上げた光重の目に映る小さなもの。白い石。血に汚れた碁石。
「恵弘――ッ」
 光重は吼えた。俊敏に立ち上がり碁石を手に取る。目を走らせればやはり、血の染み。投げた。遠くに。掲げたままの御簾の向こう、石は飛んで消え、草にまぎれてわからない。
「赦せ」
 呟きを聞くものがいただろうか。心からの改悛を知るものがいただろうか。いたとしても。
 光重を許しは、しまい。
 だからまた。かつり。光重の背後で音がする。光重は瞬間、身を固くしては振り返ることを拒んだ。が、体は拒みはしても心が求める。その音の源を。
 頭をめぐらせた彼の目に映るは白い碁石。先ほど投げ捨てたものと寸分と違わぬそれが、床に。声のない絶叫が響いた。
 振り返ったままの不自然な体が動かせない。目は石を凝視し、かっと見開かれたまま息も詰まるような無言の声をあげていた。だらり、紫色に膨れ上がった舌が垂れる。
 その光重の前に落ちかかるは、石。かつり、かつり。
 かつり。
 降り注ぐよう、床の上は跳ね返る白い石であふれている。そのすべてが血で汚れていた。光重の罪を暴くように。
「が――ッ」
 詰まっていた息を吐き出し、光重は叫ぶ。この異変に誰一人として姿を現さないのはおかしけい。だが、すでに光重はそのようなまとまった考えを持つことは出来なかった。
 いつしか床の上は白い石で埋め尽くされていた。
「恵弘……許せ、許してくれ」
 光重は床の上、うずくまるよう腰を落とし、掌いっぱいに碁石をすくい上げては頬を擦り付ける。泣いていた。白い碁石が涙にぬれる。
 その程度のことで、光重は許されるのだろうか。否。
 ふいに光重は顔を上げ、手の中の石に目を落とす。石は白くはなかった。
「ひぃ」
 小さな悲鳴を上げ床に目をやればそれもまた。光重の周りにあった石が、水に浸るよう、色を変えていく。白から赤へ。鮮やかな、噴き出したばかりの血の色へ。
 救いを求めるよう、光重が目をやった先の石も次第に色を犯されていく。床まで染まりそうな血の色だった。
 ぷん、と鼻を突く臭い。生臭いそれは間違いなく。
「あ、あ……あ――」
 呆けた声を上げた光重は気づいている。あの晩、あの僧坊でかいだ臭い。恵弘の、自らが手にかけた男の血の臭い。碁石は染まり、染まった色をまた変える。どす黒い、血の色へと。
 小さく悲鳴を上げた光重は逃げ出そうと立ち上がりかけ、腰が抜けて動けぬことにようやく気づく。腰を落とした途端、手にぬたりとしたものが触れた。見てはいけない。そう思えども光重の視線は動いてしまう。
 手までもが染まっていた。べっとりとついたものを落としたくて、阿呆のように手を振った。そんなものでは落とせぬと知りつつも。足にまとわりつく不快な感触。直衣の裾が、尻が濡れている。恵弘の血に濡れてまとわりついている。決して許さぬ、とばかりに。
「もし」
 澄んだ高い声がした。
「ひっ」
 悲鳴を上げて振り返った光重が見たものは、庭に立つ美童。血だらけの部屋からそらしたばかりの目には、まるで天童が降り立ったかのように見え。
 その清らかな目に、決してこの有様を見せてはいけないと光重は己の体で部屋内を隠そうとする。
「どうなさいました」
 かすかに笑いを含んだ声。光重はそれに気づかなかった。そのようなことより他に気をとられていた。
 床は血に塗れていなかった。
 掃除を済ませたばかりのように一点の染みもない部屋。先ほどまでは几帳にも、帳台の帳にも血飛沫が飛んでいたというのに。
「は……いや、その」
 呆然とした光重に、不可解さは浮かばなかった。屋敷のこれほど奥まで見知らぬ童が入ってこられるわけがない。ましてこのように美しい稚児であったならば、誰ぞの供であってもおかしくはない。否、その方が自然ですらある。だが。思い当たる客はない。皆、光重の狂気に恐れをなして疾うの昔に帰ってしまっている。それなのに、誰か、とも思いもしなかった。
「酒でござりますか」
 うっすらと笑った稚児が言う。その手に山吹の枝が握られている、とはじめて気づく。今時、いったいどこで咲くというのか。初夏の花が。黙って座っていても汗が滴るばかりの熱を放っているのに、稚児はその白い額に汗の珠ひとつ浮かべていない。
 稚児の立つ庭には風があるのだろうか。萌え出たばかりの若草色をした童直衣がはためいた。
「あ。あぁ……」
「お相手いたしましょう」
 つ、と動いたとも見えぬ滑らかな動きで稚児が庭から上がってきた。厚かましい、と怒るべき所であったが、少しもそんな気になれずにいる。
「さ」
 瓶子をかかげて稚児が笑った。杯を差し出しながら、一度は静まった恐れがまた湧き出してくるのに光重はいぶかしげな思いで耐えている。
「お飲みなさいませ」
 平然と言った胡蝶に恐れを感じてはじめて間近で稚児の顔を覗き込む。薄暗かった。いつ、日が暮れたのかも覚えていない。ぼんやりと、明かりが灯っていた。光を背負った稚児が口許だけで笑んだのが見え。そして。
「ひいっ」
 稚児の目が光った、金色に。あの猫のように。光重が殺した恵弘の愛した胡蝶のように。
「なにをご覧に」
 笑いを含んだ声だけが聞こえる。もう目は光っていない。己の見間違いか、と目をしばたかせ、まじまじと稚児を見る。ふと思いついては問うた。
「そなた、名は」
 唇の端をゆがめて薄く稚児は笑う。光の加減か、今まで見えなかった童直衣の模様が見えた。一面に刺繍されたは舞い遊ぶ蝶。
「胡蝶、と――」
 光重の手から杯が落ちた。




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