屋敷の中は空疎な活気に満ちていた。酒を運ぶ女房の背中にも、肴を用意する女房の頬にも、何とは言わず恐ろしげなものに浸されている。
「酒はまだか」
 大きな声でわめくのはあの、左馬頭光重。
 女房が持ってきた瓶子をひったくるように取り、自らの手で杯に注ぐ。震える指から酒が零れた。あおった口元からあふれた酒が顎に垂れる。相も変らぬ品のない男だった。
 だがしかし、屋敷に立ち働く女房にはいつもの左馬頭、とは映らなかった。
「なにやら今宵はいつにも増して……」
 荒れ狂っている、とはさすがに主人をさしては言えず、女は口をつぐむ。
「殿がお酔いになるのはいつものこととは言え、ほんに」
 肴を運んだ後なのだろう、戻った女房がそう言葉を濁しつつも同意する。二人は顔を見合わせ、そしてぶるると体を震わせては左馬頭の目に入らぬよう、身を縮めるばかり。
 左馬頭が荒れるのも、無理はなかった。彼の瞼の裏には、くっきりとひとつの姿が映っている。
 血塗れの、恵弘。己が手で打ち殺した、友。
「恵弘……」
 食いしばった歯の間から漏れる声は呪いか後悔か。いいや、違う。左馬頭光重は、恵弘を呪ってはいなかった。すでに死したもの、いまさら呪ったとて何になる。光重は後悔など、しはしなかった。己を拒んだものを殺した、この光重を拒絶した恵弘。殺されたとて文句は言えない。そう思う光重に後悔、などという言葉はない。
 だからこそ。そのまなかいにあの恵弘の姿が残るのが忌々しい。
「なぜ」
 口にした言葉にぎょっとする。なぜ、なんだと言うのだろう。なぜ死んだ。あるいは、なぜ拒んだ、そう言いたかったのだろうか。光重にもわからない。
 恵弘は翌朝、朝の勤行に出てこないのを不思議に思った僧侶に見つけられたのだ、と聞く。僧坊はまるで塗り広げたように血だらけだった、と。
 外聞をはばかって、恵弘の父はひっそりと葬儀とも言えない葬儀を営んだらしい。
「竜造寺に恐ろしい賊が入ったようだぞ」
 何食わぬ顔をして出仕した光重は、怖いと言いながらも噂の速さを喜ぶように目が笑っている殿上人にこそ、恐ろしさを感じる。
 結局、検非違使が動くことも、なかった。恵弘の父が嘆願したのだとも竜造寺の僧がそうしたのだとも噂は言う。
 恵弘は死に、そして何もない。光重は苛立ちを抑えかねて、元々多い酒量が増えた。屋敷内に立ち上るどんよりとした気配も日ごとに増える。
 光重は、恵弘がまだ信隆、と言っていた時代、童殿上の時代よりずっと彼を慕ってきた。慕ってきた、というより恵弘を欲した、と言ったほうが正鵠を射ているだろう。ただ、光重自身はそれに気づくことはなかったが。それが不幸の始まりだった、のかもしれない。
 美しい少年だった、恵弘は。何がどうと言うわけでもなく、ただその少年らしいふっくらとした頬に不幸せの影がある、とでも言うより他にない表情。高貴な人々に仕え、文の用を務めあるいは自身が贈られ。それなのに気弱で消えてしまいたげな目をしていた。そんな態度が宴で一変する。恵弘の歌は見事だった、正に迦陵頻。後に僧侶となった恵弘にとってそれは当然のことだったのかもしれないが、光重にとっては皮肉なことだった。
 この世を捨てられては、手を伸ばすことすらかなわない。
 しかし光重は追った。竜造寺まで追いかけ、通いつめ、そして。
「手に入れたとばかり」
 苦々しげに、呟く。そう、碁の相手は務めてくれた。あれはそう、恵弘にとって童殿上で貴人に仕えるのと同じものだった、いまになってわかる、恵弘の死んだ、自分が殺したいまになって。
 恵弘は決して心を開きはしなかった。
「あの、猫」
 忌々しい黒猫。確かに思う、あの猫に見せた柔らかい笑みを向けられたことなど、一度もなかった、と。
 ふいに背が寒くなった。あの猫はどうしたのだろうか。噂を知らせてくれた者は猫のことなど何も言ってはいなかった。
 闇の中、ぴちゃり、猫が恵弘の血を啜る。ぎらり光る目。
 見たことのないものを幻視しては光重は身を震わせた。
「ば……馬鹿ばかしいッ」
 体が震えているのか、手が震えているのか、はたまた大地が震っているのかわからない。瓶子を持った手から酒があふれて膝を汚した。
 ちりん。
「な……」
 それは鈴の音。どこからともなく聞こえる涼やかな、音。
「ね、こ」
 声が掠れた。しかし光重はそれに気づくこともない。
「あ、いや……いや、馬鹿な」
 そう、間違っている。猫ではない、決して。あの黒猫は鈴などつけてはいなかった、間違いなく。
「さ、酒を持ていッ」
 平静を失った光重は叫ぶよう、言う。ばたばたと、主のうろたえを映したかに女房が返事もせずに立ち回る気配。それがこんなにも頼もしいとは。
「お持ちいたしました」
 瓶子を捧げ持った女房が音もなく現れて光重はぎょっと体をすくませた。それを苛立ちと共に隠し傲岸に顎をしゃくる。そんな光重に慣れた女房は黙って杯に酒を注いだ。
「よい、下がれ」
 一息であおればやっと人心地がつく。何も言わず女房が下がるのも意にかなう。
「あれ」
 そう満足した光重の耳に届く女房の声。
「まぁ、可愛らしい」
 少しばかり屈んで女が何かを拾い上げ。
 ちりり。それは手の中でくぐもった音を、あげた。
「捨てろッ捨ててしまえッ」
 女房の手の中で光る銀色の鈴に、光重は絶叫していた。

 光重は帳台の中で震えていた。湧き上がってくる空恐ろしさに耐えかねて、馴染んだ女房を抱き寄せてもそれは収まらず、結局は一人で震えるのを選んだ。
 一人のほうが恐ろしい、もう一人の光重が心の中で言う。それに答えてまた一人の光重が言う。あの女の目が光った、猫のように、と。
「馬鹿な、馬鹿な」
 それだけを病のように彼は繰り返し、まんじりともできない。そのままに夜は明け、光重は一晩であたかも十の年を重ねたかに見えた。
 朝の用を済ませ、出仕すればざわざわと同僚が立ち騒ぐ。が、光重が側を通りかかるとぴたり、止む。
 ――何を騒ぐか。よもや恵弘のことが。
 内心の恐れを悟られぬよう、彼は努めて普段どおりに過ごそうとするのだが、その挙措の空々しさは隠せない。
 用もないのに立ち上がり、また座る。そうかと思えば手にした筆を取り落とす。普段の光重の殿上人とは思えない豪放を知っているものからすれば、問うもおろかな変事だった。
 同僚の射すような、とは言わないまでも好奇の視線に耐えかねて光重は建物を出た。明るい夏の日差しが降り注いでいる。今日も暑くなるだろう、そう思っただけで気が滅入りそうになる。
 そして己を嗤った。いまさら夏の暑さごとき、と。気ならばすでに充分、滅入っているではないか、と。
 空に向けた目が明るい陽の光に焼かれそうになる。身の内の冷たさには心地良いほどの光だった。このまま焼き尽くされれば、恐ろしさも消えてしまうかもしれない。そう思ったとき。
「おや光重」
 声に振り返ればそこには高位の殿上人。彼の用を勤めることで光重はずいぶん良い思いをさせてもらっていた。
 光重は貴族の例に漏れず、公務とは別に高位の貴族の私用も務めている。そうして良い働きをして目に留まれば、出世の道が開けるのだ。
 光重のように良家の出でありながら早くに父を失ったものなど、そうでもするより先がない。いくら今は殿上人と呼ばれるその端に連なっているに過ぎなくとも、受領に落ちぶれるのだけは、やはり耐えられない。光重は、当たり前の貴族であった。
「これは殿」
 憔悴を気取られぬよう、頭を下げれば殿上人の笑い声。思わず何がおかしいか、とかっとしかけるのを唇を噛んで堪えた。この男の引きを失えば、残されている道は受領にしか繋がらない。
 それを思えばどのようなことにも耐えうる。
「夜通し遊んでいたのだな、ほら落ちた」
 彼はそんな光重の内面になど、まるで頓着せずに軽やかに笑う。夏の単がふうわり、涼しげに風にはためく。
 そして貴人が扇で指し示す先にあるのは白い、石。
「碁狂いだったとは知らなんだ。いずれ一局」
 男の声ももう、耳に入らない。気が遠くなっていく中、光重の目には確かに白い碁石がぽつり、汚れているのが映っていた。赤い、かすかな染みが。
 残っている道は、受領の道だけでないことを、初めて知った。




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