ゆっくりと流れる読経の声を、どこか遠いものに聞いていた。それは自らの声であるにもかかわらず、何者の声ともわからない。人でありながら人ではないもののような。 人でなし。恵弘は己をそう思っている。世を捨てたのだからすでに人ではない。それは確かだ。だがそれだけではない、人が人であること、それ自体が嫌で仕方ない男だった、在俗のころから。 それは童殿上のころ気づいた己の性癖だった。この世の人の愛憎が嫌で仕方ない。人から愛されることも憎まれることも恵弘には同じこと。鬱陶しい粘液質の何かでしかない。ひっそりと女童に文を託してくる女ならばまだいい。なにも見なかったことにすれば良いのだから。しかし男相手ではそうは行かない。相応の返答もせねばならぬし、身をかわすにしても機知が求められる。 それに、疲れた。 べたべたとこの身を欲しがる男の相手がおぞましくてならない。じっとりとした恨みの視線が吐き気を催す。 たまらなかった。 だから出家した。出家したとて僧侶には僧侶の確執なるものがあると知ったいまでは、何一つ変わっていないと知っていはするものの、少なくとも宮中に比べればまだいい。 あの男を除いては。左馬頭光重。一足先に童殿上を遂げていた大納言の息。その後、父を亡くして昇進の道を閉ざされて以来、鬱屈している男。童のころから妙に付きまとわれていた。いまも、付きまとわれている。 あれであちらは無邪気に自分を友だ、と信じているらしいのだから笑止、恵弘は思う。いや、友ではないか。おそらく手に入れたいと思っているのだろう、すでに人ではないこの身を。厭わしくてたまらない。それなのにもうどこに逃げることもできない。僧侶なのだから。人の世を捨てたのだから。生きた人間では、ないのだから。 知らず喉の奥に自嘲の笑いが湧き上がり、声が乱れてはようやく読経の最中であったことを思い出す。このように上の空の読経など、なんの験があるものか。恵弘はまだ途中であった経を置き、空を睨んで目を閉ざす。 背中で胡蝶が鳴いていた。 振り返って恵弘は手を伸ばす。その手の下に猫が頭を差し伸べては愛撫をねだった。 「胡蝶……」 微笑んで彼はゆっくりとその黒い毛並みに手を滑らせる。しっとりと柔らかく温かい。 溜息ひとつ、立ち上がり夢想を振り払って僧衣を脱いだ。薄い褥を敷いただけの場所に横たわり薄物一枚引き被る。夏の夜にはそれでもまだ暑いくらいだった。 「おいで」 恵弘の声を待っていたかのように胡蝶は小走りに彼の元へ。片手で開けてくれた薄物の隙間からもぐりこんでは器用に体をひねって恵弘の胸元から頭を覗かせていた。 薄い単に熱いほどの猫の体温。次第に滲んでくる汗が、だがしかし気にもならない。軽く抱きしめた猫が喉を盛大に鳴らしていた。 「胡蝶」 呼び声に、猫は鼻面を擦り付けて答える。柔らかい肉球が恵弘の頬に触れていた。 「お前が人であったらよかったのに」 ぽつり、呟く。胡蝶が人であったならば、彼とならば語りあえそうな気がする。 「いや……」 一人首を振った恵弘に、胡蝶が不思議そうな顔を向け一声鳴いた。 「お前が人でなくて、よかった――」 私は人を信じられはしない。内心の、その恵弘の声が聞こえたかのように胡蝶は静かに胸元に丸まって恵弘を慰めるのだった。 その翌日だった、左馬頭がまた現れたのは。胡蝶はよくぞまあ暇なものだ、と小さな頭で思うのだけれど、下級とは言え貴族など暇なものなのかもしれない。 「信隆、碁をやろう」 あの下品な大声で光重は言う。 「俗名で呼ばないでくれるか」 「なにを、お前と俺との仲ではないか」 「捨てた名だ」 「まぁ……そう望むなら」 気弱な恵弘か珍しくきっぱりと言うのに気圧されたように光重はうなずき、猫の姿を眼にしては眉をひそめた。 「気持ちの悪い獣だ」 「どこが」 碁盤を持ってきながら恵弘は言う。愛しがる猫をそのように言われて気分を害した、と言う風でもない。あるいは言われ慣れてしまっているのだろうか。 「ぬらぬらと黒い」 猫を指差し、こればかりは貴族風に持っていた扇で口元を覆う。その仕種が身の丈にあわず、かえって品がなかった。 胡蝶は軽蔑するかに鼻を鳴らし、恵弘の足に少しばかり体を擦り付けて僧坊を出る。その後姿に 「そのようなことを言うから出て行ってしまった」 そんな恵弘の軽い非難の声が聞こえていた。 胡蝶は僧坊の裏手のいつもの場所に陣取り、中を窺うでもなく中空を見つめていた。草むらは日陰のせいか、じっとりと濡れて暑い。昼をだいぶ過ぎたとはいえまだ熱気のこもる時間だった。 じ……蝉が思い出したように鳴く。何に驚いたのか不意に飛び立ち、そのまま落ちた。鼻先に落ちてきた蝉に胡蝶の方こそ驚き、背中の毛が一瞬逆立つ。じりじりと地上の蝉がもがくのを認め、胡蝶は前足でそれを押さえた。 鳴き声が止まった。か弱い蝉の声は鳴く、風もない。夏はもう、終わりだった。 僧坊の中からは相変わらず左馬頭の大きな声ばかりが聞こえてくる。猫は人であったならば顔を顰めた、と言うところだろうか、明らかに嫌そうな顔をして目を閉じる。 草むらの中、前足を体の下に折り敷いて胡蝶は転寝をする。風に乗る、かすかな恵弘の声を聞き取ろうかとするように、静かに。 どれほど時間が経ったか。びくり、その薄い三角の耳が動いた。眠っていたとはとても思えない俊敏な動作で立ち上がり、次の瞬間には走り出していた。 あたりはすでに暗い。夏の宵に風が吹き始めていた。ふっと、その風に生臭さが混じる。 僧坊の前に辿り着いたとき、慌てた様子の左馬頭とぶつかった。 「えぇい、気味の悪い獣め」 何に狼狽したのか、左馬頭が胡蝶を目にした途端、身をすくませる。そのような自分を嫌悪したかに、左馬頭は足を上げ、そして胡蝶を蹴った。 けく。小さな鳴き声とも言えない声が上がる。僧坊の壁にぶつかった胡蝶はそのままずるずると地面に落ち、しばしの間動きを止めた。蹴られた拍子に吹き飛んだ喉の鈴が、壁にあたって小さな音をはじけさす。 空に星が瞬き始めたころ目覚めた胡蝶の前にはすでに何者もいなかった。ただ吹き付ける生臭い匂いだけが、そこに。 逃げ出したかった。 僧坊の中に「ある」ものを見たくない。胡蝶は身震いをして立ち上がる。そのまま背を向けるはずだった。黙って闇の中に消えるつもりだった。 しかし足が、胡蝶の意に反して動き出す。僧坊の中へ。戸を閉めることもせずに出て行った左馬頭のおかげで、胡蝶は易々と中に入り込むことができた。 ぷん、と鼻を突く臭い。胡蝶にとっては、なじみのある臭い。だが、普段であったならば心地良い陶酔をもたらすそれが、いまは厭わしくてならない。 ぴちゃり、足が濡れた。小さな丸い前足が濡れそぼっても、色は変わらない。黒い胡蝶の毛並みがただ濡れた、とわかるばかり。 胡蝶の足が小さなものを蹴った。白い小石、黒い小石。散乱した碁石を蹴って胡蝶は進む。倒れた碁盤をまわったそこに。 決して見たくないと思っていたものが。胡蝶は鳴いただろうか。否。鳴きはしなかった。鳴けはしなかった。 額を割られた無残な骸。白い小袖が闇の中、血塗れだった。驚いたように見開いたままの目。胡蝶は汚れた額に頭を擦り付け、瞼をそっと舐める。それでようやく恵弘は目を閉ざすことができた。けれどもその無念を浮かべた顔は変わらず。 生臭い血の、その濃密な香りの中、胡蝶は狂乱する。のた打ち回って体に血の染みを塗りつける。もしもそれを見た者がいたならば、きっと胡蝶こそが魔性の者、恵弘を惨殺した獣と見ることだろう。 夜の闇の中、闇より黒い獣が立ち上がる。最後にちらり振り返り、愛しい者を一瞥し獣は走る。 都へ。恵弘を殺したものに死を。 「おのれ左馬頭、赦すまじ」 きりきりと、噛んだ唇の間から漏れる呪詛。 先程まで黒猫がいた場所にいま、美しい稚児が立つ。 「猫……か」 おののく声であの美しい貴族の男が言う。目の前に立つのがあの黒猫だとは、話を聞いた今でもまだ信じがたい。たとえ陰陽師――瑞治の力を自らの経験をもって知る往周であっても。 「胡蝶、と言ったか。その姿で何をする」 瑞治が問いかける。どこか面白そうでもある声音に、わずかに往周が眉をひそめた。 「言うまでもないこと」 胡蝶が笑った、華やかに。そして風もないのに袖がなびいたかと見え。 「消えた……」 どこか呆然とした往周の声を、初めて吹きそめた風がかき消していった。 |