竜造寺に、一人の若い僧が住んでいた。修行僧ではなく、学僧でもない。貴族の位にあるものが出家を志したときに住み暮らす、そんな寺だった。
 都では高位の、と言われる僧がその寺を司り、出家した貴族たちはそれぞれ僧坊に住む。方丈、と言われるとおりに狭い。が、世を捨てたものに豪華な設えも広い部屋も必要はなかった。
 僧の名を恵弘、と言う。世を捨てた、と言うだけではない陰のある顔をしていた。が、その顔がほころぶことも稀にあった。
 寺には、猫がいた。誰が飼っていると言うわけでもない、野生のものだった。時折現れてはなにがしかを食べて去っていく、そんな猫だった。
 それが恵弘が来てからはがらりと変わった。猫は恵弘の僧坊に居たがった。写経の合間、その黒い毛並みを柔らかい指で撫でられるのに喉を鳴らして喜んだ。僧侶らしい、粗末な食事を分け合うことさえあった。
 猫は、それで満足だった。
 その猫にも嫌なものがあった。恵弘には友がいた。俗世の男で嫌な顔をしている、と竜造寺のものは誰もが言う。
「恵弘」
 寺にふさわしくない、大きな声で男が呼ぶ。がらがらと濁った声だった。
「もう少し、静かに」
 恵弘はいつもたしなめる。聞く気のないことは知れていはしたが。
「なに、お前は遠慮のしすぎなのだ」
「何が遠慮なものか」
「声の一つ一つにびくびくしているではないか」
 言ってどうだ、とばかりに男は笑う。がさついた声が不愉快だ、と猫はたいていそのあたりで姿を消した。僧坊のすぐ裏には、いたのだけれど。
 男の大きな声は寺のどこにいても聞こえるようだった。他の僧侶が噂する。
「左馬頭と言うではないか」
「おお、馬か」
「馬じゃ、馬じゃ」
「ならば声が大きうあっても致し方なかろうなぁ」
「なぁに、あれは生まれが悪い」
「そうよ、それ」
「なんぞ、知っておるか」
「そこよ。たかが左馬頭ごときがなにゆえ恵弘殿とああも親しい」
「左馬頭の父は大納言であったと聞くが」
「すでにないと聞いておるぞ」
「応よ、だからこそ左馬頭どまりよ」
「したがなぜ恵弘殿と」
「童殿上でご一緒だったと聞くが」
「ははぁ」
「そなた、何を知っておる」
「知らぬか。恵弘殿といえばその歌声の麗しさに迦陵頻よ、と上達部の方々が愛でられたそうな」
「さぞやさぞお美しかっただろうな」
「だからこそよ、左馬頭はもしや恵弘殿を」
「いやいや還俗は叶わぬこと」
「そのような迂遠な手を取るものだろうか、左馬頭ごときが」
「あなや、恐ろしいことを」
「まったく、まったく」
 雀ほどにかしましい坊主の噂など、当の左馬頭は無論、知りはしなかった。
 荒々しい音が轟いて、左馬頭光重が帰ったのだ、と知れる。荒々しい、と言っても気分を害したというわけでもなく、ただ所作が武者のようだ、と言うだけのこと。
 猫はやっと僧坊の裏手から姿を現し恵弘の膝元に擦り寄った。ちりん。喉に結ばれた鈴を鳴らして恵弘の顔に目を向ける。
「おかえり」
 小さな声でそう言って、猫の背を撫でる。その柔らかい感触に猫は喉の奥をごろごろと鳴らした。喉が鳴る、そのたびに鈴もまた、ちりちりとかすかな音を立てている。
「胡蝶は鳴神だったのかい」
 からかうような声音。僧侶は猫を胡蝶、と呼んだ。無論それは自身の童殿上時代の呼び名であった迦陵頻に由来している。
 左の唐楽、迦陵頻。答える右は高麗楽、胡蝶。夢のような童舞。白の袴に赤の袍、小鳥を散らした迦陵頻の衣装の愛らしさ。額にかざした桜の枝も初々しく舞う天の鳥、迦陵頻。対する胡蝶は袴こそ同じものの、衣装は胡蝶模様の緑の衣装は萌え出た春の艶やかさ。手に持つ山吹が色を添え、いっそう華やかだった。
 恵弘は世を捨てる以前、迦陵頻と呼ばれた。それは決して雅楽にちなんだ呼び名ではなかったけれど、なぜか恵弘は猫を自らの対のように胡蝶、と呼ぶ。
「お前の目が緑にも山吹にも見えるせいかもしれないね」
 そう密やかに笑いながら。
 猫は恵弘の言葉など聞こえた風でもなく、勝手気ままに彼の手に擦り寄る。額を擦りつけ甘えた声で鳴く。
「胡蝶」
 笑うような、問いかけるような声に猫は顔を上げ、それから一飛びに恵弘の膝に乗りかかった。そのまま身を伸ばし彼の肩に前足をかけては頬に顔を寄せる。
「くすぐったいよ、胡蝶」
 今度こそは声を上げて笑い、恵弘が身を離そうとするのを胡蝶はよりいっそう擦り寄ることでそうはさせない。いつの間にか前足の柔らかい感触が恵弘の両頬を挟んでいた。
「なんのおねだりかな」
 何か食べるものでも欲しいのか、と彼は猫が膝から落ちないよう気をつけながら手であたりを探る。胡蝶は一声鳴き、その色は抗議の色。
 人の顔と猫の顔と、正面に相対し互いの目を覗き込む。胡蝶は見ただろうか、恵弘の黒い目の中に己の金の目が映りこむのを。
 恵弘の唇の辺りに擦り寄ったのは、もしかしたらくちづけだったのかもしれない。胡蝶が人であったならば。
「胡蝶」
 たちまちいつもの気の弱い不安げな声になった恵弘に、胡蝶は何事もなかったかのように鳴いて見せ、それから子猫のように法衣の中、もぐりこもうとする。
「こら、胡蝶」
 ほっと安堵した気配。猫はそれを察したようにそのまま遊びを続け、とうとう襟元から法衣の中に入ってしまう。
「痛いよ」
 爪を立てられた恵弘の優しく叱る声も聞こえぬげに胡蝶は衣の仲で身をひるがえし、襟元から顔をのぞかせた。
「してやったり、とでも言いたげだね」
 困った顔をし、恵弘はそれでも笑みを浮かべて襟元にある猫の頭をそっと撫でる。あいた片手は胡蝶のいたずらのお蔭で着崩れてしまった法衣の腹の辺りを押さえている。その手にはしっとりとした猫の体温が伝わっていた。
 しばらくの間、そうして恵弘の温かい掌に額を撫でられているのは、胡蝶の至福だった。恵弘にとっても何か優しいものが胸中に湧く時間。
 宮中の、やんごとないと言われる男たちの権力闘争やら、愛憎やらを見すぎて疲れてしまった恵弘には、人間など浅ましいと言う思いしかない。だからこそ、世を捨てた。
 人であることをやめたかった、のかもしれない。御仏の道を志しても人のおぞましさは消えることなく、返って我が身さえも貶めたくなる。何度心の中で呟いたことだろう。「人間など大嫌いだ」と。蔑みは自らにも刃をふるい、恵弘は気弱な笑みを漏らすだけの男に、いや僧侶に成り下がった。
 信仰に生きようとも果たせない己を知りつつ、それでも僧であることをやめることはできない。だから今夜も読経する。就寝前の習慣、と言えば聞こえはいいが、恵弘は惰性と知っている。そんな己を嗤うこともできない。
「さ、胡蝶」
 言葉だけは柔らかく、恵弘は懐の猫を追い出した。途端にすっと寒気が肌に染みる。寒いような季節でもないのに、猫に温められた肌は生暖かい外気すらも冷たいと感じていた。
 それを振り払い、恵弘は静かに読経を始める。毎日の、身すぎ世すぎに過ぎないものでも、いつの間にか声だけは朗々と響くようになった。自分のために唱えることはできない。まして現の世に残してきた親のためになど。あるいはそれは背後にいる猫のためなのかもしれない。
 恵弘が読経している間中、じっと座って待つ猫。ちんまりと座し、しおらしく頭を垂れる胡蝶の姿を知ったのはいつだったか。
 それまで恵弘は当然のように読経の間、猫を追い立てて僧坊から出していた。それは人の身の理性の名残だったのだろう、獣に経を聞かせることはない、そう思っていたのだった。
 それがある夜、舞い戻った胡蝶の姿を見た。目を閉じて仏の教えを吸い込もうとしているようにも見える猫。途端に申し訳なくなった。浅ましい人間が仏の教えを受け取ることができると言うならば、獣とて同じこと。人が猫より優れていると、誰が言い切れるものか。
 以来、胡蝶は読経する恵弘の背後に居続ける。静かに、ただ静かに。けれどそこにある命を恵弘が心に留めない日は一日としてありはしなかった。




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