今は昔――。 若い貴族の息子がいたと言う。父は中納言の位を授けられ、自身もまた、幼きころより童殿上をとげ多くの上達部から愛された。 その歌声の麗しさ愛らしさに貴族たちは幼き殿上人を迦陵頻、と呼んだ。極楽浄土に舞い歌う鳥のよう、と。 それほど美しい声だった。何某の大臣が抱き寄せたとも、中納言の何某が扇を贈ったとも。迦陵頻は浄土の鳥に相応しく、いつも高位の貴族の燻らす香に包まれていた。 しかし幼き人は世を去ってしまった。 「なにやら思うところありまして」 ただその一言を残し、髪を下ろしてしまった。童姿の愛らしさが、若い貴族の男のすっきりとした涼しさに変わった、すぐ後のことだった、と言う。 何某の寺に身を寄せてからも父の愛惜の念は衰えることなく、季節季節の届け物も怠ることがなかった、と。 都大路を黒猫が歩いていた。みっしりとした闇の中、定かには知れない。黒猫、と知れたのはなぜだろうか。 羅城門には鬼が住むという。猫は少しばかり足を止め、見上げる。金の目が緑に燃え立った。それを気に留めるでもなく猫は再び足を進める。 九条から八条へ。右京を左に左京を右に。まるで勅使のように華やかに、そして百鬼夜行のように密やかに。 艶々と夜の闇に光っていた。ぽつり、ぽつり、猫が歩くたびに梅が花開く。足跡であった。土の道に猫が歩くだけで足跡がつくものだろうか。 つく。 その足が濡れていれば。水に、あるいは、別の何かに。 猫は濡れていた。川に落ちでもしたものか。黒猫でなかったならば、それと知れたことだろうに。 声もなく、鳴いた。 闇が震えるような、声だった。 ふいに門が開く。猫の声を聞きつけたとしか、その声を待っていたとしか思えない間合いで門が開く。 重たい、音だった。猫もまたそこを動かない、怯えたわけでもなかろうに。 ある屋敷の前だった。猫は足を止め、敵意をこめたとしか思えない目でそちらを睨む。ぎらり、金の目が篝火に光った。 「手を、貸してやろうか」 現れた男は言った。ふわり、直衣が夜風をはらんではしぼむ。白い生絹の男。対するは黒猫。正に男は猫に話しかけていたのだった。 黒猫はじっと男を見上げる。何を語るでもない。当然だった。 黒白相対し、夜闇が緊張をはらむ。 「瑞治」 それを破ったのは新たな声だった。 溜息をついたのはどちらであろう。先に動いたのは猫だった。 猫がそちらを見上げれば立つのは美しい人。しかし彼が呼んだ、みずち、とは人の名だろうか。猫が人であったならばいぶかしく思ったことだろうに。 「なにを」 「猫に、手助けをな」 「おかしなことを言う」 新たな男はまるでここが宮中でもあるかのように華やかに笑った。 瑞治と呼ばれた男に劣らずおかしな男だった。見れば貴族の若者。それが男を追って気安く門から一人、出てくるとは。 「笑うな、往周」 たしなめるように言う言葉の優しさ。ゆきちか、と呼ぶ音の柔らかさ。それは猫に痛みを思い出させる、声音。 この身にまとった何よりも、つらい思い。耐え難いそれに身を焼けば、かっと開いた口から漏れるのは――なにもない。 ただ声にならない声が漏れるばかり。 猫が人ならば立ち去っただろう。身をひるがえして走り出しただろう。そのような思いに、人は耐えられないのだから。 しかし猫であった。己が思いよりも何よりも、果たすべき思いを抱いていた。 猫は足を返そうとする、が、立ち去りかねてはまた男を見上げた。 「来るがいい、猫」 差し出した手に、飛びつくでもなく猫は屋敷内に足を進めた。誇り高く、確かな足取りで。 猫が人であったならばその男が何者であるか知っていたかもしれない。男は、陰陽師であった。都でも名高く、そしてある意味では、有名な。 猫は知らない。しかし獣の持つなにかが、その男の力を頼りにせよと告げていた。 「酔狂を、と思っているだろう」 かすかに笑いながら陰陽師は言う。 「なに、慣れたもの」 往周はさらりと流し答えて笑う。 「鬼の、末裔だもの」 そう続けて。陰陽師は否定も肯定もせず、歯を見せて笑うばかり。その歯が牙と言ってよいほどに長いのは、夜の闇のせいばかりではなかった。 二人は猫に続いて屋敷に入る。閉めるものもなく門が閉まるのを、いぶかしく思うものは誰一人いなかった。 陰陽師は庭で猫と相対する。往周と呼ばれた男は簀子で一人、面白そうな顔をしてそれを見ている。 言葉通り、見慣れたものなのかもしれない。おかしな組み合わせではあった。陰陽寮の者ならば位はそう高くはない。転じて往周はどう見ても高位の貴族の若君であった。供もなく一人で陰陽師の屋敷にいる、それ自体が不可思議だ。 二人の出会いはずいぶん以前に遡る。が、しかしそれはこの物語とは関わりのないこと、いずれ語る機会もあろう。 「猫」 陰陽師が呼ぶ。金の目を灯火に揺らめかせ、猫は彼を見上げる。 「それは、血だな」 彼は腰をかがめ、猫の体に触れた。その手にべっとりと赤いもの。簀子で往周が息を呑む気配がする。 だから、闇に光った。だから、都大路に花が咲いた。 血塗れの猫は陰陽師を見上げ、黙って金の目を輝かせるばかり。 「力を、貸して欲しいか」 此度は、息を呑むに留まらなかった。陰陽師の不思議を見慣れているはずの往周でさえ、自らの指が直衣の裾をつかむのを覚える。 猫は泣いていた。かっと広げた口の中ほどにも赤い血の涙を流していた。 声もなく、たらたらと滴る血の涙。黙って猫はそこにいた。 「愛しい者の、血だね」 陰陽師の声が変わる。それは往周の名を呼ぶほどに優しい声。はじめて猫は鳴いた、掠れた声で。 悲しい声だった。この世の中に、これほど狂おしい声があるなど、知らなければよかったと思う声だった。 「姿が、いるか」 呟く陰陽師に、身をゆだねるよう猫は目を閉じる。金の目が隠れると、その姿は闇にまぎれて見えなくなる。 自分の体で猫を隠すよう陰陽師は立ち、往周の耳には切れ切れの、意味のわからない言葉が届くばかり。 なにを、しようと言うのか。陰陽師は猫にどのような力を貸そう、と言うのか。往周でさえ恐ろしい、と思う。知らず体が震え、猫が来る以前に飲んでいた杯を取り上げ、取り落とす。震える手で瓶子を持っては再び注ぐ。飲み干した。 何事もなく済むはずがなかった。往周の前にいるのは血みどろの、猫。そして力ある陰陽師。 ゆっくりと酒が喉を通っていく。その感触にほっと息をつけば陰陽師の声。 「往周、目を閉じろ」 ふいに言葉が途絶え、陰陽師は背を向けたまま命ずる。往周は黙ってそれに従い目を閉ざす。命ぜられなくとも喜んでそうしたことだろう。恐ろしさに、目も閉じることができなかったのだから。 どれほど経っただろうか。その間もずっと不可解な言葉は聞こえていた。 恐ろしい言葉は、いつの間にか、柔らかい問いかけるような声音に変わっていた。往周の知る、陰陽師の声だった。 しかしその間、一度として猫の声は聞こえなかった。 「良いよ」 陰陽師の言葉に往周が目を開ける。往周は思う。猫が、いなければいい、と。これで騒ぎが起きれば、また陰陽師に悪名が立つ。それが少しばかり悲しい、とも。 諦めたように目を開ける。息を呑んだ。 美しいものが、そこに。 「語るがいい」 陰陽師の遠い声が響いた。 |