緩やかに抱いていた腕にきつく抱きしめられた。春陽は莞爾とした自分がおかしくなる。 「春陽」 訝しげに問う声に、春陽は音を立てて彼の唇にくちづけた。 「笑っている」 指先で彼の唇に触れた。柔らかいそれを押しつぶしてもまだ笑みを刻んだまま。 「いけないか」 「いい」 「春陽」 「あなたの笑い声が好きなのかもしれない」 「おかしな」 互いの息がかかるほどの近さで交わす言葉。それこそがおかしい、春陽は思って千早を見れば、彼もそう思ったのだろうか。わずかに苦笑めいた口許だった。 唇に触れていた指で彼の首筋をたどる。繊細な、高位の貴族らしい姿をしていたけれど案外、彼の首は逞しい。そこにも唇を寄せた。くすぐったそうな声が上がる。 「千早」 鼓動が速くなる。それが我がことながらおかしかった。 元々、このようなことをする男だとは思ってもいなかった。己のことなどわからぬもの、そう言ってしまえばそれまでだけれど、会いたかった、そう言われた春陽はどうしても千早が欲しかった。 「ん」 かすかに苦痛をこらえたような声。軽く歯を立てた千早の首に赤い跡。そっと舐めては無体を詫びた。 柔らかい衣に手を滑らせながら剥いでいく。現れるのは男の体なのに、どうしようもなくときめいた。 とろりとした目をしているくせ、まだ笑みを浮かべたままの千早が少しばかり悔しくて肩口に歯を立てる。 「春陽、痛い」 「痛いか」 「うん」 邪気のない答え。同様の笑み。詫びの代わり今度はくちづけ。唇にそって舐めれば軽く開いた。這入り込めばどうしたらよいものか惑う舌。捕らえて絡めればすぐに覚える。 ぴちゃり。立った水音にどちらからともなく離れては互いの口許に浮かんだ苦笑に目を留める。 「千早」 脱ぎ散らした互いの衣。色とりどりのそれの上、彼の体を押し倒す。手を引かれた。気づけば春陽は千早の上で抱きしめられていた。 「温かい……」 呟く声が春陽の耳許で聞こえる。重ね合わせた肌が吸い付くようだった。 「千早」 腕をそっとほどいてくちづける。それから彼の肌に触れようと体をずらせば手を取られた。 「春陽」 戸惑うような声。それでもまだ笑っているのだから不思議でならない。 「嫌か、千早」 だからかもしれない、そのような意地の悪い問いをしたのは。 「嫌ではない」 「なら」 「どうしたらいいか……わからないけれど」 まるで笑い声のように可愛らしい。春陽は笑ってくちづけ彼の目を覗きこむ。 「任せてくれればいい」 「うん」 握っていた手が離された。穏やかな、安心しきった表情に、わずかに物足りなさを覚え春陽はくちづけ。 「ん……」 合わせたままの唇からくぐもった声が上がった。春陽の片手は彼の胸の辺り、緩やかに動いている。 千早の呼吸が速くなる。重ねた唇から伝わるそれに、春陽は千早のよう、笑った。 「は……」 離せば荒い息をつく。仰け反った首は白い。そこにも唇を落とせば跳ね上がる。 「春陽」 苦情めいた千早の呼び声に春陽は答えず、指先を脇腹にと滑らせる。ぎゅっと緊張する千早の体に春陽は唇を沿わせてとろけた。 まとわりつく衣を蹴れば立ち込める千早の匂い。彼の肌にも移っているのだろうか、千早が体をよじるたびに強く匂い立つ。 握った。掌に千早の鼓動。首を振りつつ仰け反ったまま、千早の視線が春陽を捉える。吸い寄せられるよう、くちづけた。 「ん」 今度は春陽の唇から声は漏れ。抱きしめられた体が温かい。頭の後ろにまわった千早の腕が逃れられないよう春陽を押さえ、舌が這入り込んでは絡めとる。 くちづけの、仕方ひとつ知らなかった男が。春陽の舌を捉えて離さない。抱え込まれるままに春陽は酔った。思わず漏れる吐息が熱い。 「千早」 熱に浮かされた声にわずかばかりの気恥ずかしさを覚えては彼を見る。千早もまた、とろけていた。ならば何をためらうものか。 一度目をつぶり、その勢いで千早の上、またがった。きゅっと身がすくむ。 「春陽」 戸惑い声に目を閉じたままくちづける。柔らかく千早を握ってあてがった。 「く……」 漏らすまい、そう思ったはずなのに苦痛とも快楽ともつかない声は上がってしまう。 「春陽……痛くは……」 そういう千早こそがつらそうだった。だから春陽はこらえて笑って見せる。 「平気」 「嘘を」 ついていない、言う代わり一息に彼を飲み込む。仰け反ったのは千早。貫かれた苦痛に春陽は彼の腕を強く握った。 と。不意にきつく抱きしめられた。温かい体。無性に嬉しい。 「春陽」 うわごとのよう千早が呼ぶ声に、春陽は彼の頬に己がそれを摺り寄せては囁いた。 「温かい」 「うん」 「千早」 「……うん」 まるで幼子。首を振って堪えている。その仕種に、穢れを知らぬ無垢な何かを汚してしまったような気さえする。 「春陽が」 吐息とも溜息ともつかない声。 「なに」 ゆっくりと動いた。喉の奥で堪える音。彼の体に掴まったまま腰を浮かす、落とす。 「――欲しかった」 吐き出す息と共に紡がれた言葉。体の中が熱くなる。 「千早」 これ以上は、もう。もっと千早を感じていたかった。けれど。 「あ」 千早が呼吸が抜けてしまったかの声を漏らしたとき春陽の中で何かがはじけ、そして千早の腹を汚していた。 体が冷たくて目が覚めた。はっとして身を起こせばまだ夜は深い。さほど眠っていたのではないらしい、そう春陽は辺りを見回す。 「千早……」 夢幻のよう。人付き合いは煩わしいもの、ずっとそう思って生きて来たと言うのに。知ってみればなにと言うほどのこともない。ただ付き合いたいと思う者に出会っていなかっただけ。 そのことに気づいてひとり闇の中で春陽は笑う。そっと体の上を探れば、やはり彼の衣がかけてある。 「また、返しそこなってしまった」 柔らかい絹の手触り。腕に抱いては彼の残り香を吸い込んだ。 「なにを」 驚いた。すぐそこに千早はいた。何度か瞬きをしても消えはしない。 「帰ってしまったと、ばかり……」 「まだ夜明けには遠いものを」 近づいてきては抱き取られた。熱い男の肌だった。それで気づく。まだ互いに何もまとってはいない。夢でも何でもなかった、と。 「いなかった」 「春陽」 「なに」 「怒って、いるのか」 仰ぎ見れば心底戸惑った千早の顔。それなのに口許には微笑が浮かんでいる。 ただ肌を合わせただけ。それでも春陽にはこれがこの男の当たり前なのだともうわかる。なにをしても浮かんでしまう笑みがちぐはぐで、可愛かった。 「こういうときには、黙って抱いたまま眠っているものだ」 「そうか」 「知らなかったか」 「うん。知らなかった。それで春陽は怒っているのだね」 「怒っては……」 「いるのだろう」 浮かべた笑みの変わらぬままにからかいの声音に代わり、そっとこめかみにくちづけられた。 「少し」 だから春陽は笑って応じ、唇にくちづけを返す。くすぐったそうに上がる声に、どうしようもない愛おしさ。 「千早」 また高鳴る鼓動が気恥ずかしくて名を呼ぶだけ呼んで衣をまとう。背後で衣擦れ。彼もまた身なりを整えているのだろうと思えばなぜかおかしい。 「なにをしたい、春陽」 ゆるりと背中から抱かれてもたれかかれば、感じた覚えなど一度たりとてありはしない安堵。 「花を見に行こう」 昨夜は三分ほど咲いていた。ならば今夜はもっと咲いているに違いない。 「春陽が見たいなら」 言って千早はころころと笑う。そんな彼の手を取って春陽は庭へと降りていく。まるで幼子が二人。そう思って春陽は心の内で苦笑した。幼子ならば、あのようなことはしないもの。 「千早」 まだ笑っていた。涼やかで懐かしい笑い声。まるで彼が焚き染めた香のよう、そう春陽は思う。そっと千早の袖に頬を摺り寄せれば彼の匂いに包まれる。ほんの少し、己が匂いがした。 「あぁ、大きな桜だ」 池のほとりの桜を遠くから見上げて千早が呟いた。 「満開ならば、綺麗だけれど」 謙遜と誇りと。昨日よりは数の増えた花を見上げ春陽は言う。千早ならば、きっともっと素晴らしい桜を知っているはず。そう思っては気恥ずかしい。己が家のこの花など、彼にとっては。 不意に腕を抜け出し池のほとりへ駈けていく。枝に手を伸ばしたのはそこだけはよく花がついていたせい。戯れに手折ろうと伸ばした手に体が揺れる。 「あ――」 足が滑った、そうわかっているのに体が落ちていく。冷たい水の中へと。まだ遠い千早が向こうから見ていた。 |