いつのまに眠ってしまったものやら、春陽は夜明けに目覚めて苦笑する。どうやら昨夜、あのまま眠ってしまったらしい。
「あれは」
 夢ではなかったのか、とふと思う。我が家に貴人が来るなどありえぬことと。どこの誰とも知らねど、確かにあれは尊いどなたかであったに違いない。
 紫の曙に、春陽は体を起こす。冷えた晩であったのに、少しも寒くはなかった。
「あ」
 起こした体から滑り落ちたもの。
「千早」
 思わず笑ってしまった。体にかけてあったそれは、確かに彼が着ていた直衣。いったいどのような姿で帰ったものか、そう思えば微笑ましいやら気恥ずかしいやら。
 まだ己の体に温まったままのそれを手に取る。柔らかかった。絹は上等、織りも上等。やはり千早は高位の貴族か、と思う。
 それならばなぜこの屋敷に、と首をひねるが考えてもわかるものでもない。春陽は借りた直衣を畳もうと取り上げる。
 不意に香った。焚き染めてある香だろうか。思えば昨夜も香っていたような気がする。
「不思議な……」
 まるで女のするように春陽は直衣を腕に抱く。恋しい男が帰ったばかりの朝のよう、そんなことを思っては笑った。
「後朝の文でも来るかな」
 己で己を笑い、春陽は呟く。そのようなことはなかったというのに。まるでなかったことが残念でもあるような己の述懐に少しばかり驚く。
「千早」
 呼んでみた。ほのぼのと胸が温かい。わけもなくただ、今夜も彼は来るだろう。そう思った。

 ゆるり、一人酒を飲んでいた。珍しく酒を所望する春陽に女房はわずかばかり驚いた顔をし、そして明るく用意を調えた。
「杯をもうひとつ」
「あれ、どなたかがお出ででござりまするか」
「さて」
 要領を得ない春陽の言葉にも女房はそれ以上何を言うでもなく余分の杯を持ってきた。
 だからいまここにはもうひとつ杯がある。満たされていない空の杯だ。
 きっと来る。そうは思っていたけれど、なんの確証があるわけでもない。直衣を取りにくるだろうとか、そのようなことではないのだ。
 高位の貴族であるならば、戯れの思い出に直衣の一枚くらいどうと言うこともあるまい。傍らに置いたままの彼の直衣に手を触れた。
 淡々とした香りがまだする。香は貴族のたしなみだ。春陽とてかなりの種類を当然のように知っている。けれど千早の香りはそれのどれにも似ず、それでいて馴染み深い。
 それが悔しくて春陽は鞠香炉を用意させていた。艶なそれに女房どもの笑い声が聞こえたものだ。香炉の中には春陽が好むよりいささか甘い香。足先でつつけばつるり、滑って行った。
「おかしなものよ」
 千早のそれは決して一度として聞いたことのない香りだと言うのはわかっているのに、知っているというこの不思議。甘い香りにもかき消されず届いてくる匂い。
 思わず手にとって直衣を抱きそうになった。その手が止まる。もしやこの姿を千早に見られでもしたらいかにもばつが悪いと言うもの。
「あ……」
 つい、声を上げてしまった。安堵の溜息が漏れる。下ろした御簾の向こう、気配ひとつ感じさせぬままに千早はそこに立っていた。
「千早」
 早く来いとばかり呼んでみた。御簾にさえぎられた向こう側、定かにも見えない彼が笑った気がする。
「春陽」
 応えるように彼は言い、御簾をくぐってこちら側。ここにいるのに、なぜか千早は遠い。この世の人ではないような心持に春陽は知らずぞっとした。
「なにか」
 首を傾げるその仕種。変わっていない。昨夜と同じ。
「いや」
「私を怖がったように、見えた」
「気のせいだ」
「そうか」
 まるで納得しかねるとでも言いたげな口ぶりに春陽は苦く笑った。
「少し……」
「怖かったか」
「そうではない。千早が、この世の人ではないような気がした」
「そうか」
 なるほどとうなずいている。それが春陽にはおかしい。そのようなことを言われて喜べとは言わないまでも納得するのさえおかしいではないか。
「千早」
「うん」
「あなたはどこに住んでいる」
「住んでいる……」
 言葉がわからない、とでも言うよう繰り返し、それからうなずく。少し笑って千早は言った。
「都の外れに、住んでいるよ。春陽は知らない」
 あからさまな嘘だと思った。このような貴人が都外れに住むわけなどあるはずがない。春陽は黙って口許に笑みを刻んでうなずくだけ。嘘ならば嘘でよい。
「我が家には、何をしに」
 嘘を、聞きたくなった。春陽は重ねて問う。千早はやはり首をかしげ、それから笑う。ころころと涼やかな笑い声をしていた。
「春陽に会いに」
「戯れを」
「なんの」
「嘘ならばもう少し嘘らしいものをつかれるがいい」
「信じぬと」
「どうやって信じられるものか」
 わざとらしく拗ねてみた。嘘だと知って尋ねたはずが、あからさまなそれには反発を覚える。そのような己の気持ちを量りかね、春陽は心の内で自らを笑う。
「……困った」
 と、千早は言った。
「え」
「困ったな。春陽に信じてもらえない」
 心底、困った顔をしていた。薄暗い燈台の明りに、千早の表情が曇ったのが窺える。煌々と照る明りではない。そもそも夜は暗いもの。けれど当たり前より春陽の部屋は暗かった。
 千早の顔をまざまざと見るのが残念だと思ったせいかもしれない。朧に霞んだ貴人と思っていたいのかもしれない。理由など様々あれど、ともかく春陽は部屋を暗くしたままだった。
 それでさえ、千早がどうにも困った顔をしたのがわかってしまう。となれば彼は真実どうしようもなく困っているのだろう。それは微笑ましい思いを春陽に呼び起こさせた。
「千早」
「私は春陽に会いに来たよ」
「そうか」
「うん」
 晴れやかな顔。春陽がうなずくだけでいいとでも言うよう、千早の顔は明るくなる。尊い貴族の戯れならばそれもよし。
 いたずらに鞠香炉を追いやった。転がりながら千早の元に。千早はそれを春陽へと。転がる音に被さるのは千早の笑い声。
「まるで子猫だ」
 猫の仔の遊びのよう。大人の男が二人、鞠を転がし遊んでいる様は笑いを誘う。香炉が千早の元へと転がって行った。それを彼が返すより先、春陽は彼の側に。
「春陽」
 困ったような笑い声。よく笑う男だと春陽は思う。それでいて品が下るというわけでもない。
「良い香りがする」
 そっと千早の香りをかいだ。淫靡な仕種だ。そう思った途端に気恥ずかしくなった。
「香り」
 不思議そうに言って千早が自ら袖を掲げて顔を近づけた。
「わからないというわけでもあるまいに」
 春陽は笑い、袖に顔を寄せる。やはり良い香りがした。
「さて」
 困り顔のまま千早が笑う。そして鞠香炉を招き寄せ、指先でいらった。甘い香りが強くなる。それを足先で追いやってしまってから春陽は自らのあまりの行儀の悪さに気が遠くなりそうだった。
「春陽」
「邪魔」
「私がか」
「香炉が」
「なぜ」
 笑い声。本当に、よく笑う。それにわざとらしく拗ねて見せ、さらに向こうに追いやろうと足先を伸ばした。ぐらり、体が揺れる。これもまた、わざとだった。
「春陽」
 抱きとめられた。袖の中、包み込まれて香りが変わる。
「さわやかな匂いがする」
「なるほど、香炉は邪魔か」
「あれは俗な香りだから」
 自ら用意するよう言いつけたにもかかわらず、春陽は断じる。確かに千早の香りと比べれば、あれはいかにも俗だった。
「俗だ。あなたもそう思うだろうに」
 腕の中から見上げた。定かには見えない千早の口許が笑みを刻む。
「うん」
 はっきりと笑みが深くなった。腕を離す気配はない。そっと頭をもたせ掛ければ、支えるだけの腕が抱いてきた。
「千早」
 見上げて呼んだ。なのに戸惑う気配。腕は抱くだけ。襟元に顔を埋めるあからさままでして見せて、春陽が今度は惑う。
「うん」
 かすかに含んだ笑い声。春陽の頬が熱くなる。もしや違うのかと。からかわれているのかと。
「会いに来たと言った」
「言ったよ」
「嘘」
「春陽に会いに来た。信じてくれただろうに」
「ならば、なぜ」
 きゅっと胸が痛くなる。それを察しでもしたよう、そっと抱いてくれた。望むのは、そのようなものではない。
「千早」
 ゆるり、手を上げ触れたのは彼の頬。しっとりと冷たい肌をしていた。
「うん」
 初めて目の当たりにした彼の目。春陽の中のどこかが打たれた気がした。
「会いに来た、とはこういうことではないのか」
 添えた手で彼の頬を包み込み、笑みを刻んだままの唇に己がそれを寄せていく。触れた。不意に抱く腕が強くなる。くちづけたまま、笑みを刻んだのは春陽だった。




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