今は昔――。 いずれとも定めぬ御時のこと。都のはずれに小さな、それは小さな鎮守の森があった、と言う。社を守るものはなく、荒れた森にはただふつふつと泉が湧くばかり。 薄闇の中であった。屋敷の庭に一人の若い貴族が佇んでいる。ぼんやりと浮かび上がる姿が見えるのは、篝火のせいか。 「煩わしい」 吐き出すようにではなく、ただあるがままのそれだけのこととでも言うよう彼は呟く。 管弦の音がしていた。先ほどまで池に浮かべた竜船の上、あるものは笛を取り、あるものは笙を取り。春の朧の月夜に音が濁って届いていたものだ。 いま彼らは屋敷内に移ったのだろう。庭にいる彼の元に漂う音は遠かった。 花にはいささか早いこの夜に管弦の宴を催したのは彼の父。 「幸いの満月だ」 そう言って人を集めたというが、そもそも彼に興味などなかった。管弦も和歌も漢詩も人並みに、否、人並み以上にすることが出来る。それを誇ろうとは思わない。 彼には易いことだった。努力をしたわけでもなく、学んだわけでもない。やってみろ、と言われてやればできてしまう。誰がそれに誇りを持つことができようか。 「面倒な」 客はまだ当分、帰りそうにない。その間彼はこうして一人、人目を避けて庭にいるより他にすることがなかった。 ゆるゆると歩を進める。最前まで池に彼らがいたならば、反って目にはつきがたかろう、そう思ったのかもしれない。 「おや……」 気づかなかった。庭のほとりに立つ桜。まだまだ先だとばかり思っていたものを。父のぼやきを思い出す。 「せっかくの宴なのに、早かったか」 愚かなこと、彼は思う。この日が良いと決めたのは己ではないか。月夜の桜を愛でようと広いた宴。花には早すぎるとわかっていて決めた日。現に花は咲かなかった。 「花が」 彼は桜樹を見上げる。淡い闇に仄かに一輪二輪ばかり。かと思えばあちらに一輪、こちらに一叢。そう、三分咲きほどでもあろうか。 泉水に近寄って彼は桜に手をかける。夜気に濡れた木肌がざらりと冷たい。春遠からじ、なれどいまだ遠し。風が動いて彼の直衣をはためかせる。 我と我が着類を見やり、彼は笑う。面倒な上にも面倒な父親が、この日のためにと誂えた桜襲の直衣。桜の宴にそれではいくらなんでもあざとすぎる。が、いまさらながらの口論を思うにつけても面倒で、彼はそれをまとった。一陣の、今度は先程よりは強い風。直衣の袖を押さえて彼はうつむく。その目の先に泉水が。 「あ……」 ふわり、飛んだのは花びらか。黒い水面に浮かぶ白。思わず目が惹きつけられた。 「あ」 再びの声。彼はそっと身をかがめる。花びらの上、一点の黒が宿っていた。池のそれとは違う。夜の黒さとも違う。 蜘蛛だった。桜の花のその花びらに乗ってしまうほどの小さな蜘蛛。ゆるゆると花びらは震えていた。 「風に飛ばされたか」 震えているのは、あるいは蜘蛛だったのかもしれない。声を聞きつけた蜘蛛が助けを求めるよう見た、そのようなありえぬことを思っては彼は笑う。 「怖いか。よし、待っていろ。動くなよ」 静かに水に手を入れた。その拍子に波が立っては花びらを翻弄する。慌てて彼は蜘蛛を見て、それからほっと息をつく。 ゆっくりとゆっくりと手を動かして、ようやく水ごと花をすくった。蜘蛛はまるで彼が何をしているか心得ているとでも言うようじっと動かない。 指の間から水をこぼして花びらを残す。それでもなお蜘蛛は動かなかった。 「横着者め」 彼は笑って池から離れ、植え込みの木の葉に花びらごと乗せてやった。 「もう飛ばされたりなぞ、するのではないぞ」 葉の間に隠れていく蜘蛛に向かって彼は言う。わずかに足を止めたような気がした。言葉を聞きでもするように。 「まさか」 笑って首を振り、屋敷を見やった。意味などない。そして目を戻したとき、そこには水にくたびれた花びらが一枚、まとわりついているだけだった。管弦の音はいつの間にか絶えている。 なにか、夢幻の中にさまよいこんでしまった気がした。ふっと息を吐けば白い。桜に早すぎる晩は、やはりまだ寒い。 歩き出してふと振り返った。池の桜の下にあるもの。今のいままで気づかなかった、篝火のあと。宴の間ずっと盛大に火を焚いていたことだろう。 「篝の熱に誘われたか」 咲かぬ桜が咲いたわけなどたかがそれだけのもの。知ってしまえばどうと言うこともない。自らを取り戻し、彼は足を速める。直衣がすっかり冷え切っていた。 己が部屋に戻った後、火鉢に炭など熾させて、彼はやっとくつろいだ心持になる。客は面倒。父も面倒。女房どもは煩わしいだけ。 一人でいるのが好きだった。それなりに人付き合いはする。呼ばれれば宴にも出る。ただし長居はしなかった。 そんな彼だからこそ、人は群がり好んで集う。たいした家柄ではない。多少裕福と言う程度。受領と言うわけではないが、高位の貴族と言うわけでもない。 「煩わしい」 一人きりでいるときの、これが彼の口癖だった。まさか他人の前で口にできることではない。その点、彼は彼なりに世間との繋がりを保とうとしていたのやも知れぬ。 火鉢があれば、寒さはそれほどでもなかった。なんと言っても春なのだ。屋敷の内、御簾を掲げて庭を眺めているのはよいものだった。ぱちり、炭がはじける。 朧な夜に、惹かれたのかもしれない。先程まで鳴っていたうるさいような管弦の音ではなく、一人ほろほろとかき鳴らしてみたい。そう、琴を引き寄せようと目を離したときだった。 「誰か」 御簾の外、男が立っていた。好んで明りを落としているせいで容貌は定かではない。ただ男のまとう直衣の白だけが目に付いた。 「父が、お招きしたお方ならば……」 黙ってじっと立つ男にわずかの間、彼は戸惑う。戸惑いは恐れと知った。そしてようやく言った言葉に男は首を振るのみ。 「ならば何者か、名乗られるが良かろう」 およそ良からぬ輩とは思えなかった。悪事を為すには清浄すぎる。男は清らかだった。稚児でもないものにそのような言葉は似つかわしくない、そう思ってきた彼の思いが破られるほどに。 「みなかみ……」 囁くような声が言う。ぞくりとした。思ったより低かったせいかもしれない。思ったほど高くはなかったせいかもしれない。何が理由かなど、わからない。 「水上。聞き覚えは……」 呟き彼はにたりと笑う。どうやら男は名乗りたくないわけがあるらしい。偽の名ならばそれでよし。なぜか楽しかった。 「御名はなんと仰るか」 重ねて問うた。男は少し首をかしげて何事かを考える仕種。それからゆっくり言葉を紡ぐよう口にしたのは。 「千早」 やはり、それは彼の名ではないらしい。己が名を考えなどするものか。彼は笑って手招いた。この男の魂胆が、無性に知りたい。 「おいでになるがいい。私に御用か」 静かに男は入ってきた。まるで動きを感じさせない体に彼は瞬きをする。 「お座りになったらいかがか」 言われるまでこのあとどうするべきなのかわからない、そんな態度だった。男はこの世には座るという動作がそういえばあったのだな、とでも言いたげな顔をしてぎこちなく彼の前に座す。 「それで。私になんの」 小首をかしげ彼は言う。黙したままの男にはたと気づいた。あるいは人違いか、と。 「そなたは……」 彼が問いただそうと思い定めた頃になってやっと男はそれだけを言う。まるで話すことに慣れていないようだった。 「私の名か。名乗っていなかったものな」 ひとり笑って彼は言う。邸内でよもや名乗る日が来るとは思ってもいなかった。それがどこかおかしくて楽しい。 「はるひという」 どのような字を書くか見当がつかなかったのだろう、今度は彼に代わって首をかしげた男に彼はいつものこととばかり説いた。 「春の陽と書く」 それに男がうなずく。 「ふさわしい」 それだけ言って再びうなずいた。何がなにやらわからぬまでも、どうやら名前ではなく人柄を褒められているらしいと気づいた春陽は仄かに赤らみ、夜の闇にそれが紛れたことを感謝した。 「それで、用は」 千早が微笑った気がした。思わずぶっきらぼうに問うてしまう。それさえ微笑んで受け流されてしまった。顔貌もはっきりとわからぬ暗さの中、千早の顔がわかるのは不思議だった。否。わかってなどいない。ただ淡く空気が変わる。それで彼が微笑ったのが知れる。 「なにが」 「千早殿が来られた用だ」 「用」 言って首をかしげた。あどけない子供にも似た仕種。それなのに少しも嫌味ではなかった。 「ないのか」 「ないな」 「それならば、さっさと帰られるがよろしかろう」 言って春陽は困った。いま帰って欲しくはなかった。もう少し話がしたい。決して自ら積極的に人とは関わらぬ己がなぜ。そう思ったところで考えることをやめた。 「もう少し話がしたい。よいか、春陽」 「よいとも、千早」 あまりに早い返答に、驚いたのは千早ではなく春陽。急に気恥ずかしくてあらぬ方を見やれば、からかうよう千早が微笑った気がした。 |