ずるり、衣の中まで水が入り込む。もがいてもなお水は体を離さない。否、もがくからこそ浮かべない。苦しかった。思うのはただ、千早。 手足に、絹が絡みつく。指が何かを捉える。握った、滑る。また、落ちていく。頭が鳴った。もう息が続かない。 「は……」 突然に、呼吸ができるようになった。なにが起こったのか、春陽は考えることなどなく咳き込むように息をした。 「春陽」 支えられる体に目を落とせば、そこにあるのは千早の腕。 「なにが……」 遠かったはず。駈けて間に合う距離ではないはず。思わず宿った不審の色。そっと千早が目をそらした。 「千早……」 楽になった呼吸に、春陽は改めて彼を見る。ずぶ濡れの己はまだ池の中に立っていた。もがくうち、奥へと進んでしまったのだろう、ほとりからはだいぶ離れている。 千早は。濡れてなどいなかった。ここまでどうやって彼は。視線を落とす。水の中でたゆたう千早の衣も、けれど濡れているようになど見えない。むしろその場で姿かたちを失うような。 短い声がした。己の悲鳴と気づくまで、時間がかかった。千早は黙って立っていた。目に苦悩を浮かべ、けれど笑みを刻んだまま。 「物の怪……」 呟いた声が自らのものとは思えない。けれど春陽は己が発した声と知っている。体が離れた。己が身を引いたとは気づかなかった。 千早の唇が、なにかの形に動いた。しかし彼は言葉を紡がず。黙ったまま、何も言わぬまま。 水に消えた。 「千早……ッ」 釈明くらいすればよい。聞かぬでもなかろうに。そう思ったのはずいぶん経ってのこと。知らぬうちに池から上がり、春陽は己の行いに気づかぬままに部屋へと戻り装束を変えていた。 「あ……」 体が温まっていく。夜明け前の寒さと言うのに、水に濡れた体がなぜか温かい。見下ろしていつの間にか着替えていたのだと知る有様。 呆然と、部屋の中に座っていた。まだ薄く鞠香炉が煙を上げている。嘘のようだった。千早と過ごした一晩が、否、彼がいたことそのものが。 「酷いことを……」 失ってしまった。物の怪のなにが悪かろうか。ぎゅっと己が体を抱きしめる。震えた。 「千早」 助けてくれた。溺れかけた己を助けてくれた。それなのに。物の怪と罵って、彼は行ってしまった。 寒くてならない。もう濡れていないのに、体は温かいのに。心の内が。 「寒い」 揺れた体を支えようと伸ばした手が、鞠香炉に触れた。からり、音を立てて転がっていく。どこか千早の笑い声に聞こえた。 そして気づいた。あのとき、千早は名を呼んだのだと。水に溶け消える間際、千早は確かに春陽の名を形作った。 堪えきれなかった。熱い、思ったときには喉の奥から絞り出すように漏れ出る嗚咽。己の不用意な一言で失ってしまった千早。愚かさに呆れ果て、春陽はその場にうずくまる。 「な……」 強い痛みを感じて目を開けた。このようなときであっても体は痛むのだと虚ろにおかしい。 目の先には、小さなものがあった。いや、居た。指先にとまっているのは、蜘蛛。 「え――」 訝しい思いで目をやればもう一度痛み。蜘蛛が噛んでいるのだと知った。それなのにただ、注意を引こうとしているだけだとなぜかわかる。 「蜘蛛」 意味のない呟きに、春陽の心を感じたのだろう。蜘蛛は指先から離れ這っていく。そして促すよう止まった。 「ついて来いと」 不思議には、思わなかった。ゆらり、春陽は立ち上がり、蜘蛛を追う。 思いのほかに速かった。まだ明けやらぬ都大路を蜘蛛と行く。暁闇に、足元さえも定かではないと。それなのに蜘蛛だけはしっかと見える。 「まるで」 この己こそが物の怪のよう。ひっそり春陽は嗤った。それを咎めでもするかに蜘蛛が立ち止まっては振り返る。 「すまぬ」 小さな小さな蜘蛛に詫び。春陽は悟る。ただそこに在るもの。人の身とそれ以外と、いったいなんの変わりがあろうか。 「千早」 詫びたかった。許してくれるだろうか。許されなくとも、詫びたかった。蜘蛛はきっと彼の元へと導いているに違いない。理由などなく、春陽は知っていた。 くらり。闇が濃くなった。ふと周りを見回して、春陽は都を抜けたのだと知る。わずかに足が止まった。都の外は異界、そう思ってしまう。 「千早……」 何を逡巡することがあろうか。我が身は人なれど、これから人であることをやめようとしているのではないか。 じっと待つ蜘蛛の前、春陽は足を踏み出した。するり、蜘蛛が滑るよう進んでいく。闇がねとりと体に絡みつく。 目つぶって息をした。何も恐ろしいことはない。異形、物の怪。人では何か。春陽が恋した千早。そこにいるはず、きっと、蜘蛛の行く先に、ならば。 はっと目を上げた。闇が薄い。否、暗さは元のままだった。けれど何かが違う。春陽の周りに満ちるものが違う。恐ろしい闇ではなく、何とはなしに清浄なもの。 「蜘蛛や」 道案内を探せばするすると袖を上ってきた。なにをするつもりかと見やれば春陽の視線を導くよう案内を続ける。 そこは社だった。小さな、朽ちる間際とも見える廃れた社がある。春陽が辿り着くと時を同じうして蜘蛛が社の前に飛び降りた。 春陽は呆然とそこに立つ。社の前に滾々と泉が湧いていた。夜明け前の闇にさえ輝く泉。はたと目を上げれば、泉に降りかかる桜の大木。はらはらと満開の桜は早、散り初めている。 「見事な……」 このような場所に、このような桜があるとは。そっと木肌に手を触れた。その春陽の耳に届く涼やかな音。ころころと、笑う声。 「千早」 思わず呼んだ。誰もいはしない。見回せど、影もない。それは泉の立てる音だった。沸き出でる水が細い沢となって流れ出る。砂礫だろか、それを水が鳴らしている音だった。 まるで胸を裂かれて心の臓を握りつぶされたようだった。流れの音を、千早の声と間違うとは。こんなにも、たった一夜過ごしただけの彼が恋しい。 と、蜘蛛が糸を紡いだ。春陽はぼんやりとそれを眺めていた。痛くて、痛くて。なにも考えなどできはしない。 蜘蛛は崩しては紡ぎ、紡いでは崩し。春陽が気づくまで何度それを繰り返したことだろう。散り掛かる桜の花びらに小さな蜘蛛が押しつぶされかけては逃れる。それでやっと気づいた。 「蜘蛛や、何を……」 答えるとはさすがの春陽も思ってはいない。ただ己の声でも聞かないことには気が狂ってしまいそうだった。 何度目になるのだろう。蜘蛛が糸を紡ぐ。目をみはった。それは文字だった。春陽が惑う間に蜘蛛は糸を崩し、再び同じ文字を繰り返す。 「会……」 偶然ではない。このような偶然があるわけもない。春陽が読み上げたのをきっかけに、蜘蛛は別の文字を紡ぐ。 「見」 それからまた別の。続けて読んだ。まさかと思った。 「会見沢彦命――」 そして蜘蛛はつ、と社に登った。祭られている神の御名であろうか。ころころと流れが笑った。 「あ……」 息を飲む。すでに崩れた蜘蛛の糸の名残を見やり、知らず呟く。 「えみさわひこのみこと」 そう、蜘蛛は紡いだのだ。えみさわ。笑う沢。この場か。そして春陽の心に刻まれたあの笑い声。 「――千早」 我が身が震えた。ようやくわかった。なんと己は愚かであったことか。はじめから、千早は名乗っていたではないか。みなかみ、と。水神、と。困ったよう、千早と言ったわけもいまならばわかる。ただ、神にかかる枕詞だ。いずれにせよ、彼は名乗っていたのだ、最初から。 「千早」 ここが彼の社ならば。そのはずだ。水神ならば蜘蛛は使わしめ。間違いなく、彼はここに。 「千早……すまなんだ、私は」 泉のほとり、春陽は膝をついて覗き込む。そうすれば彼が見えるとでも言うように。何も見えなかった。ただ黒い水が渦巻くばかり。はたと音が絶えた。 「尊い御身を、私は」 物の怪と罵った。二度とは口にできない。そのようなことを言えるものか。春陽は水面に額がつくほどにかがみこみ、言葉がなかった。 ふっと、その手が取られた。我が目を疑う。千早が、傍らに立っていた。 「ちは、や……」 困り顔のままに、けれど口許に笑みを刻んだあの顔で千早は、会見沢彦命は春陽の頬を拭う。目を瞬いて知った。気づけば春陽は泣いていた。 「我が眷属を助けてくれた礼をしに行っただけだった」 そう言って、千早は春陽から目をそらした。その先には小さな蜘蛛。あの晩、春陽が屋敷の池から救った蜘蛛は水神の眷属であったか。こくりと春陽はうなずいた。 「なのに……帰れなくなった」 「え」 「春陽に会ったら、それこそが目的であったか、と……」 仄かに目元を和ませて、人ならぬ神は言う。信じがたさに春陽はただぼんやりと彼を見ていた。 「けれど、春陽。人ならぬこの身がそなたとこの後も関わるならば、そなたの災いともなってしまう」 ゆっくりと千早の両手が春陽の頬を包み込む。それから優しいくちづけをひとつ。ゆるり、手が離れた。 「そなたの幸いを見守ろう」 からり。沢が笑い声を立てた。千早が伸ばした手の先に蜘蛛が飛び乗り、彼はそのまま泉へと足を進めた。 「千早……ッ」 一度彼は振り返り、そして水に消えた。 「嫌だ、こんな。こんな……」 己の暴言を、許してくれるつもりがあるならば置いて行かれるなど。ぎゅっと握りこんだ爪の中、濡れた泥が入り込む。 「千早」 春陽は莞爾とした。しっかりとした足で立ち上がり、まるで千早がしたよう振り返る。この世に、人の世に別れを。 踏み出した足先を水は飲み込み、するすると春陽の体が沈んでいく。小さな小さな泉に春陽の頭が消えていく。ゆらり。一度きり、波紋がたった。そのときひときわ大きな音を沢が立てる。ころころと、それは涼やかな音色をしていた。 都外れの小さな泉には、忘れられた神が住むと言う。社を守るものもないのに滾々と泉は湧き続け、優しい笑い声にも似た音を立てるのだと言う。 そして春の一日。満開の桜が咲く日こそが小さな神の祭日。涼しく笑う泉の流れに、降りかかった桜の花びらが筏となっては流れていく。そこに差す一条の陽こそが、泉にまします神の何よりも愛しい者と。 ――そう、語り伝えられている、という。 |