秋が逝った、と思ったら冬が駆け足でやってきた。瑞治は荒れた庭を簀子から眺め溜息をつく。秋草は、消え隠れてしまった。
 雪が降り初めていた。はらはらと、落ちかかるよう降る雪が庭を覆っていく。いつしか草は隠れ、目に映るは一面の白。
「寒いな……」
 言わずもがなのことを言い、冷え切った酒をあおった。酒器もそのまま立ち上がる。
 思うのは往周のこと。あのように言ったとて、会えるとは思ってもいない。ただ、会いたかった。そう言った。それだけに過ぎない。
 己の言い方がまずかったのだとはわかっている。だが彼があれほどまでに呼び声を厭うているとは思いもしなかった。
 なぜかそれは己が拒まれたようで胸が痛い。そして拒むも何もないものだ、そう思いなおした。彼と己はわずか一時を共に過ごしただけ。
 おそらく、と瑞治は思う。身分の差などないふりをした、友のふりをした誰かが欲しかったのだろう。そんな遊びをしてみたかっただけなのだろう、彼は。
 それは彼を貶めるものとなる。けれどそう考えなければとてもやりきれなかった。
 母屋に戻ればかすかな温み。背後で蔀が下りては夜を締め出す。火鉢の側に座し、燈台引き寄せては書物を開く。
「頭に入らん」
 呟いては苦く笑った。そろそろ追難のことを考えなくてはならない。この年が行過ぎていくのに瑞治は必要だった。
 いかに普段、鬼の末裔よと噂されてもそこは力ある陰陽師。儀式の際には必ず声がかかる。それを不満と思うことさえ忘れていた。
 そこで往周に会った。まるで生まれる前より知っていたとしか思えない。彼を知り、はじめてこの世のやるせなさを知った。
「往周」
 なにかの間違いのようだった。高位の貴族が易々と名を呼ばせた。それだけでも信じがたい。
 素直に笑んだ。つい声をかけてしまったと言った。彼もまた、己のよう感じたもの、そう思いたかったものを。
 瑞治は目を閉じ、じりじりと炎が焦げる音だけを聞く。耳を澄ませば雪の降る音さえ聞こえそうな、夜だった。
 あの夜、往周が忘れていった狩衣を手に取っては眺める。胸苦しくて頬を押し当て彼を思った。
 何の香だろうか。焚き染められた残り香がまだ香る。懐かしい匂いと往周は言った。彼の残り香を吸い込む己は何者か。苦く嗤ってうつむいた。
 はたと伏せていた顔を上げる。式を呼ぶことすらせず蔀を上げる。母屋から駆け出し、庭を臨む。簀子が冷たい、見れば道理で雪が積もっていた。
「往周――」
 雪の中、狩衣被いた彼が立っていた。あの夜のよう、けれど今夜は物の怪には見えなかった。
 強張った顔がある。何事かを言いかけて黙った唇。冷え切って色が変わっていた。
「寒い」
 被いた物を滑らせて、彼は表情を変えもせずそれだけを言う。慌てて手を差し伸べる。冷たい手だった。
 物も言わず彼の腰を掴んで抱き上げた。緩く、首に腕がまわった。冷たい体にぞっとする。
 そのまま母屋へと連れ込めば背後でぱたりぱたりと音を立て、慌てて蔀が閉じられる。式が気を利かせたと思えばなにやらおかしい。
 それどころではない、と瑞治は首を振っては己が腕に抱いたまま火鉢の側へと座らせる。冷え切った体は温まらなかった。
 頬を彼の額に添えれば、芯まで冷たい。瑞治は狩衣の袖を落として首元の留緒をはずす。肌に温められた単に往周を包み込む。
「往周……」
 黙ったまま、彼が瑞治の背に腕を回した。寒いだけか、それともわずかばかりであっても心を緩めてくれたのか。
 いまは問うより彼が動いたことが嬉しかった。生きている証の鼓動を感じる。ほっと息をつく。それを聞きつけたよう、往周が目を上げては軽く睨んだ。
「言い訳なら、聞かぬ」
 そしてあらぬ方へと目をやった。聞かぬ、と言いつつ聞く気になってくれた。遠まわしな言い方が、彼のためらいを語る。
「話ならば、聞いてくれるか」
 微笑を隠し瑞治は問う。わずかにうなずいたような気がした。瑞治はどこから話そうか、少し惑う。それから深く息を吸い、話し始めた。
「親がいた」
「孤児だったと言うた」
「だから、いた、と」
「捨てられたか」
「そうだ」
「なぜ」
「それを話そうとしている」
 苦笑の気配に往周が黙る。押し付けてきた額に頬寄せ、袂に包んで抱きなおす。
「寒いか」
「平気だ」
「冷たい手を」
「歩いてきたからな」
 背中を抱いた手が少しずつ温まってくる。落とした袖をもかき集め、往周を温めた。
 人知れず、屋敷を出てきたかと思う。行き先を知られたくないのならば牛車には乗れない。騎馬にしても供が付く。誰にも知られず訪れようと思ったならば、こうして徒歩で来るより他にない。
 何もこのような晩にと思いはするが、それでも訪う気になってくれたことが嬉しくてたまらない。
「生まれた時、おかしなことがあったそうだ」
「どんな」
「――竜胆の花を、持っていたという」
 はっとして往周が顔を上げた。やはり、とでも言うよう唇を噛む。
「呼んでいるのは、俺ではない」
「では誰だ」
「知らぬ。ただ……」
「まだあるのか」
「ある」
 いつのまにやら式が用意したと思しき熱い酒。片手で注いでは往周に含ませる。とろり零れた酒を唇から拭った。
「親に捨てられた後、師に拾われた。だからこれは後に師から聞いたこと。俺は知らん」
「それで」
「初瀬山に鬼がおったそうだ」
「あぁ、聞いたことがある」
「どんな話だ」
「春になると泣く鬼だ、と。鬼の足跡に竜胆の――」
 口にして、往周は顔を上げた。まさか、と目が語る。仄かに瑞治は笑い、首を振る。
「俺が生まれるより少し前、鬼が消えたそうだ。だから」
「鬼の末裔、か……生まれ変わりといったほうがらしいの」
「そう思う」
 知らず瑞治の唇がほころんだ。彼は違うと心が言う。彼は世の人のようではない。己を恐れもせず、ありのままに見てくれる。
「そなたを竜胆と呼ぶは、だからその鬼かも知れぬ。探そうか」
「いい」
「そうか」
「うん」
「往周」
「まだ、隠しているのか」
 嫌そうな声。けれど作り事。そろそろと温まってきた体を瑞治は強く抱きしめる。
「笛が聞こえる」
「笛」
「そう、笛だ。子供の頃からだ。あるいはそなたに聞こえている……」
「竜胆の呼び声のように、か」
「きっと」
 不思議な符号に目を見合す。往周の目から険は消えていた。嘘などついていないことをわかってくれた。それが瑞治には嬉しい。
「どうしようもなく笛に惹かれる」
 この頭に聞こえている笛の音は、いったいなんなのか。知りたいと常々思っていた。笛の名手がいると聞けばどこにでも行った。聞かせてもらえることもあれば追い返されることもあった。
「切なくて、苦しくて、どうしようもなかった」
 さすが鬼の末裔、酔狂よ、世人の噂は己が耳にも痛かった。首を振って思い出を振り払った瑞治は、目を瞬く往周を見損ねた。
「あの晩、聞こえた」
「私の笛が」
「そうだ。やっと、見つけた、そう思うた」
「そなたに聞こえる音だったか」
「間違いない」
 言えば怒るから、瑞治は口にはしなかった。往周の、決して巧みとは言えない笛の音。どうりで名人名手と呼ばれる人の笛を聞いてもだめだったはず、今になっては良くわかる。
「だから、なんだとそなたは言うのか」
 きつい目が、腕の中から見返していた。
「なんだ、とも言わぬ」
 薄く微笑み瑞治は言った。
「往周は、往周だ」
 ふっと、雪が溶けたような微笑だった。往周の口許がほころんでは笑みになる。
「前つ世も、巡り合わせもどうでも良いわ」
「まったくだ」
「瑞治」
 ぬくもりに満たされた体をそっと離す。それから首をかしげて懐を探った。
「吹こうか」
「いいな」
「火を、もっと」
 言うが早いか式は瑞治の意を察して火鉢に山と炭を積む。赤々と熾る炭が熱を発した。
「雪が見たい」
 ねだるよう、言う往周に瑞治は笑う。だから火か、と。あえて異は唱えず蔀を上げ、御簾を垂らすのみ。
「篝を」
 式に命じて庭に焚くは赤い篝火。雪に照り映え煌々と照る。
 ちらり往周は片目でそれを確かめ、するりと庇の間へと滑り出る。唇に笛を当てた。流れ出す音に瑞治は目を閉じる。あの、ずっと聞こえていた音だった。切なくて苦しくて、いまはときめくほどに胸か温かい音。
 するり、瑞治は立ち上がる。居ても立ってもいられない。御簾を跳ね除け簀子に立つ。袖ひるがえし瑞治は舞った。往周の笛の音が、夜気に流れて体に染み透る。さす手かえす手かざす指先。蘇芳の単が篝に明るい。
「瑞治」
 いつしか笛は絶え、漸う瑞治は正気づく。照れた笑いを浮かべれば簀子に出てきた往周の手。掴んだ己の手が今度は冷たい。
「愚か者」
 甘い声音がそれを言う。両手に包まれ移るぬくもり。見上げた往周の片手が首を引き寄せた。と思うより早く瑞治は唇に彼のそれを感じていた。




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