帳台の中、光が射し込んだ。密やかで、それでいて華やかな空気。かたり、かたりと蔀が上がる。 「少将さま」 朝を告げる女房の声。 「気分が悪い」 帳台の中から出もせず往周は答えた。女房が慌てて何かを言いかけるのを制し、朝廷には参らぬことだけを言う。 「朝餉は――」 「薬湯を――」 など言いかけるのを煩わしげに遠ざけ、往周は再び体を横たえた。 半ばは嘘ではない。気分が悪いのも頭痛がするのも本当だった。一晩中、まんじりとも出来なかった。 「瑞治……」 知らずうちに呼んだ己の声が聞こえ、往周は体を硬くする。あるいは誰ぞに聞かれたか、と。そっと辺りを窺えば、誰もいない。ほっと息をついた。 加茂瑞治の悪名はつとに聞いている。曰く鬼の末裔、曰く呪殺を請け負う等等。力ある陰陽師ゆえに付きまとう恐れと憧れがないまぜになった噂ばかり、そう思っていた。 だがしかし。往周は思う。昨夜のあれはなんだったのか、と。物心ついて以来どこからか呼び声が聞こえ続けている。 「竜胆……竜胆……」 と。時に強く時に淡く。聞こえる声はそのたびに往周の心を苦しめた。 花の名である。それなのにそれが己の名であることもわかっている。そのように呼ばれたことなど、一度としてないにもかかわらず。 あの甘く切ない呼び声は、年を重ねるにつれ往周の心を苦しめた。恋など知らなかった頃から知っていた、あの切なさ。 恋を知り、そして漸う気づいた。呼び声は己を恋うている。そして自らもまたかの者を求めていると。 「瑞治であったか」 信じたくはない気持ちばかりが先走る。かといって、信じる理由もない。まさか瑞治が、と思う。そして反面、あの懐かしさはそれゆえかとも思う。 あれがかの者の呼び声であったとしたならば、腑に落ちるというもの。陰陽師ならば、あるいは。 だが、と往周は首を振る。物心ついて以来のこと。かの者はそのとき幾つであったものか。そう、年上とは思えなかった。 ならば呼び声は瑞治ではない。改めてそれに気づいて往周は頭を上げた。わずかな落胆を、己がものではないように感じつつ。 「ならば、なにゆえ」 知っていてたのか。彼でないのはどこか嬉しい。それと同じく切ない。知っていたならばなおのこと、不思議で苦しい。 「もう、知らぬ」 これでは子供と変わらない、自らを嗤い往周は帳台に臥せった。 煩わしいことを言う女房も、少将のご機嫌を損ねては、と今日ばかりは近づかない。それをよいことに往周は惰眠を貪る。 一度目覚めて香炉を引き寄せた。いくつか香を選び出し、何度か首をかしげて考える。ひとつを焚けば淡い香りが帳台に満ちる。 「違う……」 これかと思った。間違いないと思ったはずが、違っていた。あの瑞治の匂い。香のものではないのか。 目を閉じ思い出す。熱い男の体から匂い立つ香り。知らず頬に血が上る。懐かしい香りだからこそ、探っている。わけもなく言い訳をし、往周はまた眠る。 「少将様、少し召しませ」 掲げられた帳から、馴染んだ女房が顔を出す。手を振るだけで下げさせた。がっかりと肩を落とした女の顔をいまは見たくなかった。 眠りに飽いた目を外に向ければいつのまにやら日は落ちて。庭に篝がぽつりぽつりと赤かった。 「日がな一日眠って過ごしたか」 思わず苦笑が浮かんだ。夜の間は一睡とてできなかったものを。 女房の目を避け、往周は再び帳を下ろし帳台の中に篭った。まだ先程の香りが漂っている気がする。すでにそれは男の匂いとは似ても似つかないものに変わり果てていた。 燈台が、あちらに一つこちらに二つ。灯る仄かな明かりが帳を透かして見受けられた。 ぼんやりと、帳越しに庭を見る。ほんの一晩で秋は去ったらしい。風が冷たく吹いていた。警護の男たちの厭わしい声が上がる。よほど寒いかと思えばわずかに哀れ。 と。一陣の風が帳台の帳を揺らした。吹きぬけた風に、今度は女たちの嬌声とも罵声ともつかないものがあちらこちらで上がる。 「あれ、几帳が――」 「御簾を押さえてくださりませ」 「なんと恐ろしい風」 口々に言う女の声を、往周は華やかなざわめきと聞く。鬱々とした気分がわずかに晴れた。 和んだ視線をそらせば不意に鮮やかな物が目に止まる。今までなかったはずの物。愕然と目を見開いた。女の声など、もう聞こえもしない。 「竜胆……」 往周はくたびれた秋の花を手に取った。風は、帳を捲くり上げはしなかった。それなのに、ここにある。そして見覚えのある花。 荒れた庭に一輪。秋も終わりと言うのに健気に咲いていた花。花びらの端がほんのり茶色に末枯れていた。 「瑞治」 かの者の式神とやらが運んで来たに違いない。手に取った花はしっとりと夜露を含んでいた。その茎に結び付けられた文がある。まるで恋文のよう。思った途端、ほんのり頬に血が差した。 なぜか知らねど震える指で、結び文を解く。中には一言。 「愚か者」 往周は投げ捨てる。文など見なければよかった。期待するのではなかったと思ってしまう。 「期待……」 何に対してか、己に問うた。思わず唇を噛みしめる。 文にはたった一言だけがあった。会いたい、と。鬼の末裔と噂される男らしくもない流麗な手蹟。我知らずときめく。 「歌のひとつも書いて寄越すがいい」 結び文ならばそれらしく。花につけた恋文ならばそれらしく。 瑞治が、どのような歌を詠むものか、興味があった。優雅で猛々しく、傲慢な歌を詠むことだろう。不意にまざまざと男の体温が蘇る。火照る頬を押さえれば、外の風もやんだよう。女たちの静かな声が聞こえ始めた。 そして目をみはる。そのようなことを思った己に。歌など、恋文など贈られるような仲ではない。欲しいと言える仲でもない。言いたい気持ちなどどこにも――ないと言えぬ己に唇を噛む。 「瑞治」 会いたければ己が来ればよい。往周は嘯く。来られるはずもない。身分卑しい陰陽師。それを厭うてではなく、往周の身を案じて彼は屋敷を訪いはしないだろう。優しさに、涙が出ると往周は嗤う。 ゆっくりと帳を掲げ、往周は帳台を出た。女房の華やぎが身に迫る。 何も言わず、何も問わせず。往周は火鉢にくべて、瑞治の文を焼き尽くす。ちりちりと、たった一言が焼けていくのをただ見ていた。 それから一晩。寝もやらずいた。二晩目は、少し眠った。浅い眠りに聞こえる呼び声。三晩目は、まどろんだ。呼び声が、瑞治のそれに聞こえる。 幾晩、経ったか。加持の祈祷のと騒がしい屋敷内に、これならばあるいは瑞治がくるかも知れぬ、淡い期待を抱いては破られ。 「式さえ来ない」 誰もいなくなったのを確かめ往周は呟く。あれ以来、瑞治の式も訪れてはいない。 「もう少し、しつこくすれば良いものを」 苦く笑った。追いかけてくればよい。たまには、振り返ってやらぬでもない。 そんなことを考えつつ、追うているのは己、とわかってもいる。 「誰の声でもかまわぬわ」 ふらり、起き上がった。 「誰ぞある」 「あい」 「何ぞ持て。腹が減った」 「あい、ただいま」 女房の嬉しげな声。これもどこかで聞いた気がする。往周は惑った。 女房の声などいくらでも聞いている。聞いた、と心に覚えることすらない。あって当たり前の家具同然。 それなのに、己の病を気にかけて一喜一憂する女がいたことを覚えている。乳母であったか。ふと思う。 「いいや」 違う。乳母はすでに死んだ。あるいはこれも。 「前つ世のこと……」 そう思えば納得も出来る。あるいはそうとしか考えられない出来事ばかり。 差し出されたものを少しずつ口に入れれば力がつくような気がする。ゆっくりと、一口ずつ。案外に衰えていたものだ、そう知った。 それから往周は朝廷に出ることはなかったものの、毎日起き上がっては食物を取るくらいはするようになった。 「ずいぶんと、やつれてしまった」 鏡に映せばみすぼらしくなってしまった頬がある。そっと手で触れてみれば弾力を失っていた。 「困った」 あまりにも酷い。溜息ひとつ、また体を休めた。こうしていれば、瑞治が。思う心をあえて止める。 瑞治は来ない。会いたいと言って寄越したくせ、彼は来ない。 「呼んでみようか」 思いを弄び、往周は戸惑う。会いたいのはかの者であって己ではない。そう顔をそむければ鏡に映る己が顔。 「酷い顔だ」 落ち窪んだ目。悩みやつれた頬。溜息ばかりつく唇は、かさかさと乾いた。 「――わずらいでいらっしゃるから」 女房の声が聞こえた。はしたない、思いながらも耳を澄ます。どきりと胸が弾む。 「少将さまが」 「そうよ、恋わずらいでいらっしゃるのよ」 「あら、どうしてご存知なの」 「ご覧になった、あなた。見ればわかるわ」 「まぁ、羨ましい。お美しい少将さまのお心を悩ませるなんてどこの姫君――」 後は、聞いていなかった。騒ぐ女の声がつるりと耳を滑っていく。 恋わずらい。耳にして笑った。そのようなことなど。けれど意に反して顔は青ざめ。 「瑞治」 呼んだ声にぎょっとする。会いたいのはかの者であって。思いかけ、やめた。会いたいのは、己。往周は認める。 「あの、愚かもの」 小声で罵る声に甘い何かがかすかに混じった。 |