はっとして知らず、座を立った。童一人見たほどで取り乱すなど、あまりにも己らしくない、苦りきった瑞治は思う。
 童はするりと門の内側滑り込み、荒れ野と変わらぬ庭に足を進めた。
「瑞治」
 童が、呼ぶ。呆気に取られるなど、いったいどれほどぶりのことだろう。苦い唇が笑いを刻む。
「なんと言う格好を」
 笑みは深くなり、庭に立つ童を両手で抱き上げ簀子に上げた。
 その拍子にふわり、夜風になびいて被きが取れる。現れたのは童とは似てもつかない男の顔。
「似合うか」
 半端に取れた被きを剥いで往周が笑う。
「恐ろしいほどに」
「どういう意味か、それは」
 男の顔をしているくせ、拗ねて見せれば愛らしい童に見えないこともない。思って瑞治は密かに笑う。
「童に見えた、と言うている」
「そうか」
 満足そうに彼は言い、その場にぺたりと腰を下ろした。
「瑞治、酒が欲しい」
 見上げてねだる目に瑞治は笑みを残し、こればかりは式にやらせる気にはならないとばかり、自ら立って瓶子を取った。
 冷たい秋風に悪気でも入ってはいけないと、酒を熱くして持ってきた。口を焼きそうなまでに熱くしたそれを往周が顔を顰めて唇に運ぶ。
「肴は」
「我が儘を言う」
「悪いか」
「それでいい」
 言って二人、他愛なく笑った。手酌で飲んでいた酒を、往周に注げば黙って彼も注ぎ返す。
 嘘のような話がよくぞあったものと瑞治は思う。殿上人が、ここにいる。身分の差などないとばかり目の前で屈託なく飲んでいる。
「旨い」
 ほころぶよう、往周が笑った。
 あまりに素直なその笑みにも胸の内が見透かされそうで目をそらす。そらした先に狩衣があった。
 異形も鬼も、物の怪も、恐ろしいとは思わぬ瑞治であったが、人の優しさだけは、恐ろしい。心を語らぬよう、問うた。
「それはそれとして、何の遊びだ」
「うん、これか」
 脇に取り除けてあった狩衣に触れた。薄い、上等な狩衣だった。改めて見れば往周は良い染めの直衣姿。これではどう見ても童には見えない。
 瑞治の目の惑いを見て取ったか、往周が唇を歪める。それから気にした風もなく手酌で酒を注いだ。
「一見、童風であろ」
「どこがだ」
「なに、童直衣に見えないこともない」
「惑うたわ」
「それでよい。一目誤魔化せれば、あとは勝手に異形と紛う」
「なるほど」
 思わず素直にうなずいてしまった。それを往周が笑う。
 こんな夜更けに童が一人、狩衣被いて道を行けば、出会った者はみな度肝を抜かれて走り出すことだろう。腰さえ立つなら。
 それを思えば瑞治は突然、おかしくなった。知らず腹を抱えて笑い出す。明日になれば、都大路に童姿の鬼が出た、と噂されることだろう。
「瑞治まで騙されるとは思わなんだ」
「騙されたな、本当に」
「異形と思うたか」
 往周の目が、燈台の遠い明りにわずかに光った。何を問うつもりなのかわからない。だからまっすぐ瑞治は答える。
「思うた」
「そなたがか」
「俺が」
 疑問に思う。ほんのわずか、声が高くなったかもしれない。
 彼がそれを問うとは思わなかった。やはり耳に届いているか悪名が。それを信じているのか、彼は。よもやと思っていたものを。
 問いかけるような瑞治の視線に往周は答えず、そろりと視線を庭へと外した。ためらうような横顔に、瑞治は目をあて。
「鬼の末裔とは言うても、驚くよ」
 はっとして振り返る。その往周の目には後悔があった。なにも言わず瑞治は空いてしまった杯に酒を注げは往周も黙って飲み干した。
「なぜ、そなたは鬼の末裔と」
「なにたいしたことではない。俺は孤児よ」
「加茂家に拾われたか」
「そうだ。師に陰陽道を仕込まれた。人より覚えが早かったのが、良くなかったか。それはそれとして、いつか鬼の末裔と呼ばれるようになったよ」
「ふうん」
 何が起こったか、わからなかった。興味深そうにしていた往周の手が伸びたと思ったら唇に触れていた。
「牙なぞないに」
 言って微笑う。
「ないよ」
「ないな」
 それで、その話はそこまでになった。往周が、いまここにいる不思議を瑞治は思う。顔によぎりでもしたか、往周が口許を緩めて瑞治を見た。
「こないだは、すまなんだな」
「なにがだ」
「うん、人がいた。うっかり声をかけてしまってから、気づいたよ」
「その割には冷たい声をしていた」
「宮中は、嫌いだから」
「嫌いか」
「うん、嫌いだ。面倒だ」
 そうか、それだけのことだったか思う。わだかまっていたものがほどけて行った。
 宮中とあれば、往周は身分に相応しい態度を取らねばなるまい。それくらい、瑞治も重々承知している。
 それよりもなお、つい声をかけてしまったというのが良かった。つい、話したくなったか、この己と。そう思うだけでどこかが温かくなる。
「だから黙って抜け出してきた」
 不意に話が元に戻った。驚いた往周を見れば、よくよく驚く陰陽師殿だ、そう笑う。
「そなたに会いたかったから、抜け出してきた」
 また、瑞治は言葉を失った。不可思議そうな顔をして首をかしげる往周が、なにをしたいのかがわからなかった。
「なぜだろうなぁ。そなたは懐かしい。そなたを見ているとなぜか泣きなくなるほど悲しい」
「それは……」
「悲しいとは、違うな。切ない、か」
 切ないのは、己だと言いかけた。喉を押さえて口をつぐむ。往周の、若い貴族らしい新手の遊びでないと言えようか。そして知った、すでに囚われている、と。
「なぁ、瑞治。こないだ言いかけこと、覚えておるか」
「前つ世の、と言うあれか」
「そう、あれだ」
 覚えていたのが嬉しい、とばかり唇がほころび、瓶子を取っては瑞治の杯を満たす。注がれたそれをあおった。酒でも飲まねば、正気が保てそうになかった。
「どこかで、私を呼ぶ声が聞こえる。幼いころからだ。ずっと聞こえていたのやも知れぬ」
「どんな」
「さて。その声は私を呼んではいる。が、それは……」
 手酌で注ごうとするのを制し、瑞治は彼の杯を満たした。まるで先程の瑞治のよう、往周はあおる。
 言葉を止めた往周を黙って見ていた。先の、見当がつくような気がしていた。それはどこか恐ろしい。
「それは……私の名ではないのだよ、瑞治」
 困ったような恐れているような、不思議な顔をして庭に目をやっていた往周が振り返る。
 ぼんやりと灯っていた燈台が、ふと消えた。辺りは一瞬、闇に閉ざされる。程なく式が着けるだろう、そう思っていた瑞治の胸に温かいもの。
「やはり、懐かしい匂いがする」
 瑞治が何を言うより先、再び灯った燈台の明かりを避けるよう往周は離れた。
「どんな名だ」
 問わねば話さない、不意にそんな気がして瑞治は尋ねる。ほっとしたかに往周が肩の力を抜いた。
「名、でもないのか……あれは」
 そして首をかしげて遠くを見る。
「そなた、それで俺が入用か」
 わずかに、苦さが混じったしまったかもしれない。驚いて振り返った往周の顔にはまるでそのようなこと考えもしなかった、そうありありと書いてあった。
「すまぬ」
「よい。そういう者も多かろ」
「まったくだ」
「腕の良い陰陽師は少ないからな」
 言って笑みを作った往周は、話をそらそうとしているようだった。
 瑞治は惑う。このまま話させたほうがよいのか、それともなかったことにするべきか。逡巡はわずかで腹は決まる。
「それで、名ではないとは」
「うん……」
「そなたの名ではない、と」
「そうではない。あれは……人の名でもないのだろうな」
 また、庭先に目をやった。瑞治はごくり、喉を鳴らして思いのほか大きく響いた音に身をすくめる。そして往周が気づいてもいないことを知る。
「秋も、終わりだな……」
 冷えてしまった酒を往周はあおった。酒の肴には月がある、そう洒落るほどの心持でもいられない。黙って注がれた酒をまた飲み干した。
「瑞治」
 瓶子を掲げる。杯が出てきた。注げばまた、杯。知らず笑った。それで心が決まる。話そう、とした矢先に気持ちはくじかれた。
「往周」
「なんだ」
 少しばかり不機嫌そうな声に瑞治は笑う。それから意を決して言った。
「それは、竜胆と言うのでは、ないか」
 はっとして往周が立ち上がる。月明かりにも鮮やかに青ざめて往周は、物も言わず杯を瑞治に投げつけ。
「卑怯な。私を呼ぶはそなたであったか」
 庭に降りた、と思ったら走り出していた。後ろも見ず、瑞治の言葉も聞かず。
「誰ぞある」
「御前に」
「往周を追え、後ろからそっとな。屋敷に帰るを見届けたら戻ってよい」
 姿のない式に彼を追わせ無事を確保し、はじめて瑞治は彼が被いてきた狩衣がそこに所在なげにわだかまっているのに、気づいた。




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