するり、腕を引かれた。強い力と言うわけでもなかったのに、往周は気づけば瑞治の腕の中。 驚く、と言うよりはむしろ和む己に往周は目を瞬く。それではいけないとばかり、取ってつけたよう問いを発した。 「なにを」 訝しげに見上げた目が語る。 「身固めを」 「呪法か」 「そうだ」 片手で往周を抱きすくめ、瑞治は口中静かに九字の真言を唱え始めた。 廃屋に、ただ瑞治の声だけが聞こえる。そう思っていた往周の耳に虫の声が聞こえ始めた。今のいままで虫の声さえ耳に届いてはいなかった。 「面白いと思うていたに」 呟くよう、彼は言う。幾分なりとも緊張していたものと思えばそれもまた面白い。 「なにがだ」 往周の呟きを耳に留めた瑞治が真言を止めては視線を落とす。柔らかい色を宿した目が見つめていた。 「そなたと会うたが」 「面白いか」 「あぁ、面白い。それより」 「まだ何かあるのか」 「そなた、話していてよいのか」 「よくはない」 苦りきった声が往周の笑いを誘った。 「ならば答えなければよいものを」 くつくつと喉の奥で彼は笑う。それからもう話すまい、と瑞治の胸に頭を預けた。薄い狩衣をまとっただけの男の体は温かかった。 「眠ってもよいか」 「よく寝れる」 呆れ声。悪くはない、そう思う。 「なにか、懐かしい匂いがする」 呟きは瑞治に聞かせるためのものではなかったのだろう。かしげた首が瑞治の胸に重さを増した。ぬくもりに、眠りを誘われるのだなど決して言う気はなかった。言うより先に、眠っていた。 闇夜に見えない顔をほころばせ、瑞治は薄く笑う。それから身固めに彼は戻った。まるで馴染んだ体のよう、往周がここにいる。見つけた、そう思う。 研ぎ澄まさねばならない心が乱れぬよう、瑞治は往周の体を心から追いやって真言を唱えだす。 「起きろ」 如何程の時間が経ったことだろうか。うっすらと目を開ければ早、淡い夜明け。荒れた庭に薄く日が射していた。 「朝か」 「それはそうだが……来た」 「なにが……」 問いは途中で消えた。瑞治の示す指の先、一羽の烏が哀れに弱って飛んでくる。よろぼい乱れ、今にも落ちそうな鳥だった。 「あれは」 さては昨夜の烏か、思い当たり目で問えば、そうだと答えが返ってくる。 「式よ」 「ほう、陰陽師が使う式神とやらか」 物珍しい物でも見るよう、往周が身を乗り出すのを抱いた片手に力をこめて瑞治は止めた。童のようになんにでも興味を持つ。そう思えば取り澄ました顔がおかしい。 「まだ、危ない」 口許に浮かんだ笑み。と見るまでもなく烏が末期の力を振り絞り、矢のよう往周に飛び掛る。今にも落ちると見えた烏と同じものとはとても思えなかった。 はっと身をすくめた。鋭い嘴に裂かれる、と。しかし烏は届かなかった。 ふっと瑞治が軽く息を吹き出したのを、往周が目にすることはなかった。その呼気に押し戻されたかのよう、烏はふらふらと庭に落ち、そしてそのまま動かない。 「ぬしが少将の陰陽師か」 驚く往周の前、烏が喋る。何者かが、隠れているのかと辺りに目をさまよわせはしたのだ。だがその烏が口を聞いたとしか思えない。そして瑞治の目がそれを諾う。 「さようとも」 面白げな瑞治の声はかすかな驚きさえなかった。当たり前のこととすら思っているよう。これが陰陽師のすることなのかと一人往周はうなずいた。 「ぬしに負けた。呪詛返しとは、我も落ちたものよ。都外れの廃屋におる。我は死ぬ」 身元が知りたければ、会いに来いと言うことか、瑞治はうなずき往周に視線を落とした。 「いらぬ」 一言の元に彼は断じた。烏はもう動きも止め、仮初の命さえも飛び去って一片の紙と消えた。朝の風にひらり、飛び行く。 今度こそは目をみはり、思わず瑞治を見てしまう。ただ、これさえも彼には当然の事のよう顔色ひとつ変えはしない。 「誰ぞ、心当たりが」 瑞治には、そちらのほうが気がかりか。そう往周は首をかしげる。この世の不思議よりはよほど面白くもないものを。 「ある」 思い出したくもない。このような真似をするのは先だって恋文を突返したあの女か、男か。いずれにしても瑞治に知られるのは具合が悪い。否、知られたくないと往周は思う。 「そうか」 「うん」 不快げに顰められた眉。瑞治はそれ以上を問わなかった。ほっとして往周は息をつく。 「かの陰陽師の始末は」 「廃屋と言うていたな」 しばし考えるよう、また往周は瑞治の胸に頭を預ける。まるで疾うからこうしていたよう。彼の体を瑞治はそっと抱きなおす。 「放っておけばよい。いずれ誰ぞが見つける。そなたが関わると面倒だ」 「もっともだな」 「悪名が、立つぞ」 にやり、見上げて笑った。 「なに、もう立っている」 嘯いた。往周が立てる笑い声、淡い息が喉元、かかる。 「夜が明ける。いささか外聞が悪い」 今のいままで笑っていた往周が瞬く間に腕を抜け出し、立ち上がる。乱れた装束を直しては瑞治に笑んだ。 「まるで逢瀬だな」 咄嗟に返す言葉のなかった瑞治に再び笑みを向け、軽い動作で庭に降り立つ。朝の光で見る庭は夜よりいっそう荒れ果てた。 「ここはどこか……場所は、わかるか」 「わかる」 「では」 言ったと思ったらもう往周は歩み去っていた。一度も振り返りもせず。瑞治はしばし、その場に留まる。腕の中にあったぬくもりを確かめるよう、何事かを思い出すよう。 わずらわしい宮中から退出したのは、あれから数日経ってのことだった。往周が言うよう、瑞治は都外れの廃屋とやらには近づきもしなかった。 「かの陰陽師、誰も来ないと泣いておるやも知れぬな」 一人密かにほくそ笑む。それを見た誰かが何かを喉に詰まらせたような小さな悲鳴を上げた。そこかしこで聞こえる。 「鬼の末裔」 と。瑞治は意にも介さない。もう、言われ慣れていた。人よりわずかに尖った牙のような歯。並みの陰陽師より遥かに優れた技。誰かが言う、闇夜に光る目を見たと。あるいは言う。蓬髪で、鳥辺野を歩いていたと。 いずれも嘘だ。否定してまわることもない。瑞治本人が知っていればよいことだった。ただ、わずかにある気がかり。 「瑞治か」 冷たい声がした。気づかなかったとは不覚、とばかり顔を上げる。見たものへの驚きを表さないよう、顔を伏せた。 「少将様」 宮中より退出する所だろう、正装に身形を整えた往周がいた。 「過日は手間をかけた。礼を言う」 「至りませぬかと」 「当代随一と名も高いそなたのこと。あれより何もない。案ずることはなかろう」 それだけ言って往周は歩を進めた。周りには奇異の視線を振りまく若い殿上人がぞろぞろと。瑞治は頭を下げたまま、動かなかった。 ようやく目を上げたとき、往周の背中はもう牛車の中に見えなかった。 何か苦いものでも噛んだよう、瑞治は屋敷の簀子に座して酒を飲む。ほろほろと、手酌だった。 往周のあれほどではないが、荒れた屋敷だった。もっとも、瑞治は荒れているとは思っていない。時折、新しい酒を式に命じた。 ひとつ、またひとつ。半蔀が下りる。夜も更けた。式が命じられもせず夜の支度を始めていた。 「なにを、考えたものかな」 ぽつり、呟く。白い狩衣が夜目にも鮮やかだった。秋も深いと言うのに、好んで着た。単の蘇芳が鈍く透けては燈台にちらりと投げる紅梅の色香。菊の色香といったほうがむしろ正しい。けれどこの男がまとうと菊の高雅より梅の艶が似つかわしい。 往周のことを、考えていた。あれよりずっと考えていたといってよい。気にかかる。呪法が成功したのどうのではなかった。成功して当たり前。己の技を疑ったことは一度としてない。ただ、彼のことが気にかかってたまらなかった。 「名残か」 庭に目を移せば逝き遅れの秋草が。もう幾許もなく、枯れるだろう。思えば憐れ。だがそれさえも自然。 重い音がして、式が屋敷の門を閉じているのだと知れた。はたと耳を澄ます。 「よせ」 誰に言うともなく呟いた言葉に門の軋みが止まった。聞こえるは軽い足音。 「駈けている、か」 不思議には慣れきっていてた。陰陽師とあれば不思議でもない。何か面白いものでも来ないかと、瑞治はさらに耳を澄ませた。 稀に、屋敷の前に異形が足を止めることがある。手を貸してやることもあれば、放っておくこともある。いずれにせよ、気まぐれだった。 「だから悪名が立つ、か」 往周の言葉が蘇る。彼の耳にも届いているか、己の悪名が。それを思えば情けない。 決して知られたくないなど泣き言紛いを言う気はない。だが、往周の耳に届く噂のどれほどが真実で、どこからが悪意ある噂話か。 良い耳をしていると瑞治は思う。往周ならば、きっと噂のひとつずつを選り分けて聞いていること、と思う。 けれどその思いさえ根拠などどこにもない。ほんの一晩、身固めに過ごしたのみ。彼を知りもせず、彼は己を知らない。 門の隙間から、影が姿を現した。狩衣を被いた童が一人、出たばかりの月に唇がにやり、微笑った。 |