今は昔――。 夜は濃く、都大路に百鬼の夜行も甚だしい闇のありし頃。恐れもせず、かといって太刀を取るなど考えられもせぬ公達がおられた、と言う。ひときわ輝かしいご身分ではなかったが、後には長寿を保ち位人身を極められた、とも。御名を藤原往周様と申し上げた。 とろりと、溶け出しそうな闇夜だった。川縁にただひたひたと水音だけが聞こえている。川面をよぎる風の音、涼やかさが増した。 と。聞こえてきた。あれは笛の、音。月影さえない闇夜に、誰が笛など。あるいは異形か鬼か。聞くものがあればそう身を震わせて陀羅尼のひとつでも覚えていたなら唱え唱えに去ったことだろう。 烏が鳴いた。まだ夜は深い。暁闇とも呼べぬ。やはり、この世ならざる者か。 「えぇい、忌々しい」 笛の音が途絶え、そして知る。音の正体はこの男であったかと。決して巧みな笛ではなかった。ただ嫋々と胸に迫るものはある。 罵り声など、上げようはずとも思えぬ男の姿だった。しっとりと夜露を含んだ直衣の形も清々しい。秋も深い頃のこと、裏に黄をつけた紫の直衣、移菊の襲が夜に溶けいる。唇から外した笛を持つ手は、細く優雅だった。 男はなにやら袖を振るい、汚らわしい物でも落とすような仕種。落ちぬと知って、諦めてはまた笛を唇に当てた。 「ぬし、呪われたな」 声が、どこからともなく聞こえてきた。男がはたと振り返る。 「何者か」 眼前に、いた。この闇夜、気配ひとつ感じなかったとは驚くこと、そう男の目が見開かれる。 ふっと笑った眼前の男の口許がほころんだ。何度か目を瞬く。見間違いであった。が、確かに鬼のような牙が見えたものを。 「そなた……」 ゆっくりと見据えた。夏と言うわけでもないの白い狩衣を軽く着た男の袖がはためいた。 見れば単は蘇芳色。面の白とあわせて蘇芳菊、と言うところか。灯火の元で見ればさぞ美しかろうに、闇夜とあっては鈍い白が目立つばかり。 男の姿は整えているにもかかわらず、どこか崩れた匂いがした。顔色も狩衣も白い。その中で一点、袖括りの紐だけが鈍く赤い。 「陰陽寮の加茂瑞治」 にたり、言い当てられる前に男が言った。笑んだ際に見えた歯は、やはり牙などではなかった。ただ、ほんのわずか人にしては尖った歯。 「鬼の末裔殿か」 「したり」 喉の奥で瑞治が笑う。嫌な笑い方ではなかった。みずち、という人の名にして人の名ではないものを持つ男は、ゆるりと袖を払う。 「瑞治とは不可思議な。長虫の遠縁か」 不意にからかってみたくなった。その往周の言葉に瑞治は苛立つ様子もなく答える。 「なんの。せめて大蛇が眷属と言うて欲しいもの」 「眷属か」 「むしろ己が主」 闇夜の加茂川、顔を見合わせ男が二人、川面に夜風ならぬ笑いが透る。 「私は……」 「蔵人の少将、藤原往周様」 「煩わしいものよ」 瑞治に当てられ、往周はふっと顔をそむけた。 同じ藤原でも決して中宮を出すなどと言う家ではなかった。それが何の間違いか、先々帝の姫宮が降嫁なさった。往周にしてみればそれこそが運の尽き。彼の母君であったにもかかわらず。 思い出すだけで溜息が出る。姫宮の御降嫁など、厄介なだけで煩わしいばかり。 「夜歩きがお好きか」 問われた言葉に目をみはる。陰陽寮の者ならば身分は高かろうはずもない。そして官位をいただく者なら、そして低くあればなおさら、貴族の家の内情など噂話に花を咲かせていないわけがない。 往周が漏らしてしまった一言で、瑞治がそれと悟らないと思うほど呆けてはいなかった。それを示すよう、かすかに唇を噛んだのだから。 が、瑞治は知ってなお同じよう、話した。あるいははじめから知っていて、話した。往周の唇がほころんだ。 「なんの、取り立てて好きと言うわけでもない。下手な笛を聞かせて暮れるなと母上のたっての願い」 「だからこのような目に会う。母君大事も大概になさるがいい」 「何の話か」 小首を傾げて問う往周に、瑞治は一歩近づいた。彼は、引かなかった。鬼の末裔と呼ばれることを知りながら。今度ほころんだのは瑞治のそれ。 ふわり、袖で往周のそれを払う。ぽとり、何かが落ちた。 「烏の物よ」 それは最前、烏が落とした糞であった。眉を顰めて往周がそれを見る。落とそうとしても落ちなかったものを易々と、と。 「さて、少将様」 軽く往周が手を振った。いぶかしむ瑞治に目を据える。 「ならば、往周様」 「それは、やめぬか」 「では往周殿」 ほころんだ唇が、大きく笑う。それさえ手を振って往周は嫌がった。 「陰陽師殿、どうせ日向の付き合いではない。気安く参ろう」 問いかけるような声音に瑞治はうなずく。 「ならば、往周よ。どこぞ御身が裁量する屋敷はないか」 「ある」 「ではそこに参ろう」 「何故に」 「言うたであろう、呪われた、とな」 はっと視線を落とした。烏の糞は闇に紛れ、どこにあるかも定かではない。 「歩いて参る。かまわぬか」 「おう、それでこそ」 「それでこそ、なんだ」 「……わからぬ」 まるで我知らず口をついてしまったかの言葉。瑞治自身なぜそのようなことを口にしたか、見当もつかなかった。 「参ろうぞ」 往周はふっと笑って振り返る。瑞治がついてくるのが当然だ、否、きてくれると信じている、そんな思いが湧きあがるのを驚きつつ。 「あぁ、雲が切れた」 差し込んできた一条の月明かり。 「良い月だ」 振り仰いだ瑞治の頬になぜか赤みが差す。 「おかしな男よ」 「俺がか」 「他に誰がおる」 「なにが、おかしい」 心底不思議でたまらないと言いたげな瑞治の顔に往周はひとしきり、笑った。 「月明りに赤くなった」 言われた瑞治は頬に手をやる。首をかしげ、浮かんだは苦笑。 「日向の付き合いではない。そう言うたはそなただ」 「もっともだ」 歩き出した二人を追うよう、月が辺りを照らした。闇は去らず、濃くなるのみ。 「恐ろしくはないか」 瑞治の声に、何かが被る。隣を歩く、自分よりいささか背の高い男の目を覗けば思いのほかに真摯な色。 「往周」 「不思議なものだ。いつか誰かに問われたような、そんな気がした」 ぽつり、言った言葉のその哀しさ。瑞治は軽く己が拳を握り込む。 「いつ」 「覚えておらぬ。あるいは、前つ世のことかも知れぬな」 「前つ世。信じておるか」 「さてなぁ。あるやもしれぬ、ないやもしれぬ」 「信じているような口ぶりだ」 軽い非難の声音に往周がにやりと笑う。 「いずれ、話す機会もあろうはず」 「あるか」 「あるよ」 「いつだ」 「いつか」 「往周」 「なんだ、瑞治」 「……なんでもないわ」 「そう拗ねるな」 「誰がだ」 「そなたがだ」 「もう良い」 「それは良かった。ほら、着いた」 そこは公達が裁量するとは、とても思えぬ荒れ方をしていた。瑞治すら、顔を顰めている。 「気に入らぬか」 「いくらなんでも荒れすぎだ」 「替えようか」 「もう良いわ」 呆れて瑞治は門を押し開け入り込む。中はさらに荒れていた。あたり一面に蓬葎が生え乱れ蔦はおどろに地を這った。 月明かりが庭を照らせば、これこそが正に鬼の住処かとも。瑞治の後姿に往周はにたりと笑う。 「なんとも凄まじいものよ」 ここまでくれば立派としか言いようもない荒れた館に上がれば足を置いた拍子に床が抜けた。 「往周」 なんとも情けない瑞治の顔に、彼はからりと笑って見せる。決して往周も好きではない屋敷だった。だからこそ、荒れるがままに放ってある。 「もう泣き言か」 それでも瑞治にはなぜとも知らず、そんな口を聞く。かすかにかしげた首に瑞治は苦笑した。 「そなたはここで一晩、過ごせるか」 そして顔を改めきっぱりと問う。無論、とばかりうなずいた。 「一人では嫌だが、そなたが一緒であろ」 素直に笑まれた。返す言葉がなかった。瑞治は黙って肩をすくめ、それでも何か座れるものをと探し出す。 「よい物があった」 かろうじて、形を留めていた円座があった。瑞治はそれを叩こうとして、だが崩れかねぬと手を止める。そっと振れば埃が舞い上がっては顔を顰めた。諦め彼は放り出す。 笑う往周を片目で睨みゆっくりと月光の中、腰を下ろした。 「来い、往周」 |