灯火の元、柔らかな香りがしていた。今夜、華馥は己の室には帰らなかった。
 燦々と陽の降り注ぐ花園で、蔡広は彼を抱きすくめた。指先が襟元を探れば、するりと逃げられた。思わず追った。が、華馥は笑うのみ。
「こんなに陽の高いうちに、何をなさろうと言うのです。まだ学問をなさらなくては」
「子香――」
「試験の日が、迫っているのではないのですか」
「それは……」
 もう今年の試験は諦めている、とはなぜか言いがたかった。男の誇りと言うものかもしれない。いっそ華馥に溺れてしまいたい、と心のどこかは願っているものの、華馥がそれをさせない不思議。
「邪魔をしたくはないのです」
 蔡広から眼差しを外し、華馥は花園を振り返る。風に菊花が揺れていた。ふと、その揺れる花が彼の心のようだ、と蔡広は思う。
「あなたは――」
 振り向いた華馥は、穏やかな笑みを浮かべるばかり。言葉を失いそうになりつつ、蔡広は言う。
「あの、花のようだ」
 言った途端、己の言葉に含羞んだ。華奢な人ではあったけれど、華馥は紛れもなく男。その彼を花にたとえるなど、彼が不快に思うかもしれない。
 思いはすぐに晴れた。鮮やかな華馥の笑い声。ふ、と手を伸ばし抱き寄せる。胸元に彼の匂い。知っている匂いだ、とまたも思った。答えはすぐそこにあるようで、手が届かなかった。
 二人揃って勉学をした。昨日までとなんら変わらない時が流れていく。変わったのは、眼差しを交わせば彼が微笑むこと。
 それにほっと息をつき、蔡広は勉強に励んだ。今ならば、試験に好成績で合格できる、そんな気がする。
「増長してはなりません」
 蔡広の気分を悟ったよう、華馥はそう言って彼をたしなめた。だからこそ、勉強が進む。それを嬉しく思いつつ、いつになく腰を据えて机に向かった。
 そんな蔡広も、日が落ちるに従って気がそぞろになっていく。ちらり、ちらりと隣を見やれば、何食わぬ顔をして彼は書物に向かっていた。
 わずかに溜息をつき、勉強に励む。が、すぐさま華馥を見てしまう。何度となくついた溜息を、彼は知らぬ顔。
「子香――」
 我ながら、なんと情けない声かと思う。声は哀願を帯びていて、しまらないこと甚だしい。それなのに華馥は莞爾とした。
「そろそろ、終わりにしましょうか」
 すっと立ち上がった彼の手元から一枚の紙片が落ちる。何気なく拾ったそれを、華馥は慌てて奪い取った。
「子香」
 強く呼んで手を伸ばせば、照れた顔をして胸元に紙を引き寄せる。さらに手を伸ばせば、背を向けた。だから、追った。
 背後から抱きしめて、胸に抱いた紙片を奪えは、華馥の溜息。
「いったい、何をお隠しになったのだか」
 笑いを含んだ声は、すでにその答えを読み取ったからこそ。
「お笑いになるから、嫌だったのに」
 身をよじる彼を離さず、蔡広は再び紙片に目を落とす。詩が、綴られていた。詩は教養人のたしなみとは言え、華馥のそれは素晴らしかった。以前目にしたものより、さらに。
「誰が笑うものですか」
「いま、お笑いになった」
「誰がです」
 真面目な声をつくろって蔡広は言う。恋の詩を読まれて恥らう彼が今この腕の中にいる喜びに堪えかねた。
「あなたが」
 首だけ振り向けた華馥の唇を、捉える。抗いもせず、啄ばんできた。彼の唇からは、甘く気高い香りがした。
 そのまま臥牀に引き寄せれば、くたりと崩れる。雨に濡れた花のごとく、艶かしい。充分に目を楽しませる蔡広を、華馥は灯火の元から微笑んで見ていた。
「あなたを得られるならば、進士の位など何するものか」
 倒れこむよう臥牀に手をついて、くちづけを交わしつつ蔡広は言った。心からの思いが、熱となって華馥に降る。
「そのようなこと、言うものではありません」
「私の――」
「お心は嬉しく。ですが、私など取るに足らない者に過ぎない」
 言葉が蔡広を傷つけたのではないかと案じるよう、華馥は彼の唇を吸う。
「子香、私は」
「私は、人ならざるもの。そう言ったらあなたはお信じになるのでしょうか」
「人ではない――」
「はい」
 あまりにも虚心な言葉に蔡広は思わず彼をじっと見ていた。この目に映るものは嘘だというのか。潤んだ目も、体を包み込む香りも、乱れた襟元から覗く肌の白さも。
「だからずっとあなたの側には、いられない」
「離すものか」
「弘都」
「離さない。あなたが案じるならば、試験には全力で望もう。あなたの憂いをなくすため、是非とも受かって見せよう。だが」
「弘都」
「あなただけは、離さない」
 言葉とともに、蔡広は彼の首にくちづける。くちづける、と言うにはあまりにも激しかった。まるで食いちぎられたかのよう、華馥は小さな悲鳴を上げた。
 詫びるよう、同じところを舐めればたちまち悲鳴は吐息に変ずる。香りが、強まった。蔡広は体中が彼の匂いに包まれている気がしてならない。深く寝息を吸った。
「弘都――」
「あなたの匂いに、腹の中まで染まればいい」
 言えば、恥じらい顔をそむける華馥の耳に吐息を注ぐ。堪えかねて、彼の体が身じろいだ。吐息が、甘さを帯びる。
 指が、衣服をはいでいった。思ったとおりの白い肌。透き通るそれは、確かに人ならざるもののごとく。
 唇を寄せ、強く吸えば赤い跡。ひどく、無惨なことをした気がした。絢爛と咲く、今が盛りの花を踏みにじれば、こんな気がするかもしれない。
 だから、また吸った。幾つも幾つも跡をつけていく。そのたびに、華馥の吐息が熱を増し、ついには嬌声となる。
「あぁ……」
 仰け反った白い喉にも噛みついた。悲鳴の代わりは甘い吐息。ちらりと視線を移せば、充分に立ち上がったもの。
「子香」
 呼び声に、気がそれた隙にそれを握った。途端に仰け反る彼の唇を求めれば、彼もまた。交わすくちづけが水気を含んだ音を立て、互いをさらにと煽っていく。
 ゆっくりとこすり上げ、先端に指を滑らせれば、立ち上る香り。
「あなたはここまで――」
 きゅっと力を入れた。悲鳴じみた声を上げたけれど、蔡広は疑わなかった。彼が悦んでいないとは、決して。
「――いい香りがする」
 華馥が、答える隙もなかった。何を思う間もなく蔡広はそこに唇を寄せていた。咄嗟に跳ね上がって逃れようとする彼を両手で押さえつければ、身をよじる。
「そんなことを、なさっては……。いけない。弘都――」
 やめろと言うくせ、目は潤んでいた。彼の目を見たまま、蔡広は唇をつける。触れただけ。それなのに華馥は堪えがたいと言うよう、首を振る。
 舌先で、いらった。先を舐め、触れるか触れないかの強さで舐め下ろし、見せつけるよう、舐め上げる。
 そのたびに、息も絶え絶えの嬌声が上がった。耳に心地良いその声に、蔡広は煽られていく。声を聞いている、それだけで昂ぶった。
「弘都」
 思いのほかに強い手が、蔡広を引き寄せる。貪るよう、唇を吸われた。口中に入り込む舌が、蔡広のすべてを彼の香りに染めていく。
「香りに、酔いそうだ」
 濡れた眼差しを目前で見据えて言う蔡広は、己が熱情に浮かされた顔をしていることを漠然と感じていた。醜い、情欲に囚われた顔だ、とも。
 しかし華馥は快楽を抑え、抑えかねて苦しげな顔をしつつ、それでも微笑んだ。白い腕が首を巻く。耳許に彼の吐息が聞こえた。
「酔われませ――」
 醜さも、それを気にする卑小な己も、その言葉に吹き飛んだ。ここに己がいて、華馥がいる。それがすべてで、それでよかった。
 唇を重ね、片手を抱擁から解き、蔡広は彼の足に手を這わす。滑らかな肌が吸い付くようで、いつまでも触れていたくなる。それに抗い蔡広はさらに下へと手を伸ばした。
「これを」
 意図を察した華馥が、どこからともなく容器を差し出す。蔡広が、何かと問うよう首をかしげれば、恥らって顔をそむけた。
 それで、わかった。詫びるよう、くちづけて片手で蓋を開ければ、やはりそれも彼の匂いがした。彼の匂いの油を指にとり、足の付け根に這わせれば、切なげな声。
「は――」
 声に励まされるよう、蔡広の指は彼の後ろへと伸びていく。くすぐるよう、愛撫した。嬌声は絶え間ない。香りはいっそう強まって、真実酔いそうだった。肌はいつの間にか白さをなくし、全身にくちづけの跡でもついたかのよう。
 指を、潜らせた。華馥の背が弓なりになる。つらそうだ、そう思ったのは一瞬のこと。潜り込ませた指が、熱さに蕩けそうだった。これを、もっと強く感じたい。己の体で、もっと強く。
 乱暴にせぬよう心がけつつ、指を増やした。気持ちが焦り、指は震える。それがまた快楽を呼ぶのか、華馥の喉は途切れがちに悲鳴を上げる。
「もう、平気ですから」
「子香」
「あなたが」
 手を掴まれた。華馥の手に引きずられて、指が抜ける。小さく、あ、と声を上げた華馥は濡れた目で蔡広を見上げた。
「欲しくて、どうしようもないのです」
 首を振り、恥らう華馥に蔡広はすまない、と思う。そのようなことを、この端正な人に言わせてしまった己が情けない。
「いま、すぐに」
 足の間に体を進め、抱きすくめた。ほぐされて、蕩けきったそこが蔡広を迎え入れるよう、蠢く。その瞬間、熱さと歓喜に蔡広はわずかに呻いた。仰け反った華馥の目尻から、ついに涙があふれた。花の露が、零れるように。




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