幸福、とはこのようなことを言うのだと蔡広は知った。昼夜を問わず傍らには華馥がいる。日のあるうちはともに勉学をし、夜ともなれば戯れあう。
 楚々として清らかな華馥が、臥牀の中では時として奔放さを見せた。それがまた蔡広を惹きつけた。白い肌が灯火に艶かしく揺らめく。凝脂のよう、手指に肌は滑らかに吸い付いた。
 痴態、とも言いうる姿を見せるくせ、華馥は清らかさを決して失わなかった。彼の詩文からも気品は匂い立つ。出逢ったときと変わらずに。
「実にもったいない」
 彼の詩作を目にするたび、蔡広はそう言った。思うのだ。彼とともに試験を受け、ともに合格を果たし、官界で彼とともに栄達をする。生涯、華馥が己の傍らに、最も近い場所にいてくれたならば、と。そんな蔡広を華馥は仄かに微笑うばかり。
「言いましたでしょう。私は人ならざるもの。いつまでもお側にはおれません、と」
 言いつつ、何度でも出逢うのだ、そう言っているようにも聞こえた。時が流れ季節が巡り、そして別れても再び出逢うと言っているように聞こえた。
 だから蔡広は強くは言えない。華馥はおそらく栄達を求める気はない、そう婉曲に言っているに過ぎない、そう思うことにしていた。
 それでも惜しい、と蔡広は思っていた。これほどの才を野に埋もれたままにしておいてよいのかとすら思う。
 もっとも、華馥が望まないのならば、無理強いするつもりは毛頭なく、己は一生の間ずっと惜しいと思い続けることだろう、そう思えばどことなく嬉しさも覚えた。
 その心のまま、室の窓から空を見上げた。夕暮れにはまだ早く、それでも空は翳りつつある。甘い秋の空だった。
「庭に」
 蔡広が言えば、華馥は微笑む。行き先はわかっている、とでも言うように。先に立った彼は蔡広を案内するよう導いた。それは彼が望んでいた場所だった。
「菊を、ご覧になりたかったのでは」
「子香は私の考えていることがわかるのですね」
「私のあなただから」
 ほんのりと頬を染めて華馥は別棟の裏の花園にすっくと咲く菊に目を移す。その目がなんとも言いがたい色合いをしていて、不意に蔡広は胸の奥が痛んだ。
「そのような目をなさらないで」
 指先で彼の顎を捉えた。ほっそりとした顎は摘んだだけで折れてしまいそうだった。華馥の全身がそうだった。どこもかしこも細く柔らかく風にも堪えぬげにこそ見える。が、華馥はどのような激しい愛撫にも充分に応えることを、蔡広は知っている。風をいなす草花のように。
「おかしい、弘都」
 くすりと華馥が笑った。顎先に添えられた指先に、震えが感じられる。ほんのりと匂い立つ眼差しがなかったならば、嘲笑された、と蔡広は思ったかもしれない。
「なにがです」
「妬いてらっしゃる」
「私が」
「あなたが。相手はあの菊ですか」
 言葉の向こう側、華馥がそのようなことは意味がない、そう言っているように感じられ、蔡広は苦く笑った。
 確かに意味がない。相手は草花。嫉妬の意味などどこにもない。それでもなぜとなく蔡広の心に華馥の声なき声がいつまでも残った。
「あなたは――」
 風に頬をなぶらせて、華馥は眼差しを外す。遠くを見ているようで、蔡広を見ているようでもある。そんな彼の背中をじっと蔡広は見ていた。
「あの菊を……いえ、あの花々を手折りたいとは、思わないのですか」
「花を」
「えぇ」
 華馥の問いの意味がわからなかった。だから蔡広は思うところを述べるのみ。一人きりのような背中を見せる彼を抱きしめ耳許で語った。
「思いません」
「なぜ」
「他愛ない花でも、その花を生み、咲かせるときに大地は産みの苦しみを味わう。ならば最後まで咲かせるのがこの世のありようと言うものでしょう。途中で手折り、いかにするのですか。室に飾る。あるいはあなたを飾る。それも一つの在り様でしょうが、私は咲いたままにしておきたい」
 訥々と、決して滑らかな言葉ではなかった。それが華馥にどう聞こえたのかも、わからない。腕の中、華馥はほっと息をつく。
「そのようなことを仰るあなただから、私はあなたが好きなのです」
 純な言葉に、蔡広は真実言葉を失った。抱きしめる腕だけが、力を増す。細い体は息苦しさを訴えはせず、芯のある強さで蔡広を抱き返す。
「もしも手折る、と言ったならば、あなたはどうしたのでしょうね」
「お諌めしたでしょう」
「そのようなことを仰せになるから、離せない」
 言葉を変えて、立場を変えて、互いに相手を愛しいと語る。それがこんなにも喜びをもたらすとは。蔡広は甘いようなくすぐったいような心持ちのまま、秋空を見上げた。
「暮れていきますね」
「秋の夕暮れは、陽の落ちるのも早いものです」
「あっという間に」
「夜が、きますね」
 ふっと華馥が微笑んだ。その眼差しに色が浮かび、肢体は含羞に艶かしい。気高さから、瞬きの間に見せるその色香に蔡広は囚われる。進んで、囚われる。
「お風邪を召すといけません。大事な体なのですから」
 試験を控え体には気をつけなければ。そう優しい気遣いをしてくれる彼にいっそうの愛しさを覚えつつ、蔡広は彼の背に従った。
 その夜のことだった。夜半、とは言えない。すでに夜明けも間近な暁闇のころ。万物が暗い闇に沈んであやめも定かではないというのに、蔡広は飛び起きた。
「子香」
 傍らで、華馥が震えていた。肌にはびっしりと汗が浮き、紛うことなき恐怖に震えている。抱きしめてもしばしの間は口もきけない有様だった。
「子香、いかに――」
 突如として蔡広は腕に痛みを覚えた。はっとしてみれば華馥がこれでもかとばかりにきつく掴んでいる。
「逃げて」
「なにを――」
「いいから、逃げて」
 言葉の強さに、蔡広は渋々と従った。逃げようとする姿勢を見せなければ、とても彼が落ち着くまい、と。
「子香、あなたも早く」
 裸の体に服を着せ掛けても、彼は動かない。訝しさに覗き込み、動けないのだと知った。彼の身づくろいを手伝おう、と伸ばした手を、またも掴まれた。
「私は、いいのです。あなたは――」
「あなたを残して私にどうせよと。私一人では逃げない」
 いったい彼が何に怯えているのか、そもそもそれが蔡広にはわからなかった。それでも華馥を見ているうちに、なにか悪寒のようなものが背筋を這い上がってくる心地になる。
「あなたとともにでなければ、どこにも行きません」
 語勢を強めて蔡広は言う。決意の程を知ったのだろう、華馥が震える手でのろのろと服を着た。覚束ない指先に、蔡広が手を貸す。ようやく身支度が整ったころもまだ外は真の闇だった。すれば、さほど時がかかったわけではないのだ、と蔡広は苦笑する。
「弘都。私は――」
 そっと室から外に出た。何を案じているのかわからないものの、蔡広は表よりは裏手のほうが安全だろうと別棟の裏へと周る。花園も、闇に沈んでいた。
「どうしました」
 ひっそりと声を潜め、彼の耳許で囁くようにしたはずが、それでも闇の中、つんざくように響いた気がした。
「いえ……。なんでも、ないのです」
 手を引き、静かに歩く。もしも光があったのならば、華馥の顔がいかに青ざめているか蔡広にも見ることができただろう。正に死地だ、と。
 華馥の、柔らかな手だけを心の頼りにして蔡広は一歩ずつ足を進めていた。まるで次の一歩が永遠にこないような、そんな気すらした。
 足を下ろせば、踏みにじられた花の匂いと土の匂い。このようなときだというのに、慙愧に駆られた。一つ首を振って思いに堪えれば、前からも後ろからも華馥の香りがした。気のせいだと舌打ちをしかけ、危ういところで思いとどまる。
 そのときだった。がさりと音がしたのは。己でもなく、まして華馥ではない。怯えきった彼からは、息の音すら聞こえなかった。
「何者か」
 闇の声がした。蔡広には、そう聞こえた。それなのに蔡広は笑った。あるいは、恐怖も極まれば、そのようなものかもしれない。
「そちらこそ――」
 はっとしたときには遅かった。言葉を発した正にその瞬間、声で位置を悟られたのだろう、鋭い音が飛んでくる。
 小さく声を上げて、蔡広は飛び逃げた。華馥が引きずられるよう、続く。ふ、と東の空に一条の光。ついに夜明けが。
 闇に慣れた目は、かすかな光でも存分に辺りを見ることができた。眼前に立つ、偉丈夫。否。体こそ大きなものの、荒んだ様は、盗賊の類か。屋敷の主が不在と知って、盗みに入った輩か。
「屋敷のものか」
 男が言う。その傍らでぎらりと剣が光っていた。蔡広の鼻に生臭い風が届いた。血の臭いだ、と悟るなり青ざめる。
「どうなんだ、え」
 男の体からも剣からも、血は臭っていた。もう少し明るくなれば、体中が血にまみれているところが見えるだろう。ほんのわずか、暗くてよかったと蔡広は思う。
「いまならば、見逃してやろう。すぐさまここを出るがいい」
 言いつつ蔡広は背後に華馥を庇った。言葉もなく、彼は震え続けている。脳裏になぜ賊の侵入が彼にわかった、と浮かんではすぐに消えた。
「見られたからな」
 にやりと男が笑った。逃げられない、咄嗟に蔡広は悟る。せめて華馥を逃がそうとした。彼が逃げろと言ってくれたように。
「逃がすものか……」
 悠然と男が迫る。華馥は立ちすくんだよう、動けなかった。その前に立ち、蔡広は男を見据えた。矜持だけは失うまいと。
 男が脅しとばかり剣を払う。夜明けの光の中、花々が切っ先に千切れて飛んだ。可憐な小花も、大輪の花も。あの菊すら。
「あ――」
 不意に息の抜ける声。恐怖を忘れ、蔡広は振り返る。華馥が喉を押さえていた。このようなときだというのに、仄かな微笑を浮かべ、詫びるよう蔡広を見ていた。
 ひっと、小さく声が聞こえた。男のものだとは、蔡広にはわからない。わかっても、気にも留めなかった。ばたばたと足音が聞こえ、男が去っていく気配。恐怖は、今度はそちらにあった。
「子香」
 伸ばした手は、幻に触れた。夜明けの光に押されるよう、華馥の姿が薄らいでいく。微笑んだまま、すでに言葉を発することのない影が、消えていく。
 耳に、かすかな声が聞こえた気がした。呆然と立ち尽くす蔡広の心に届いたは過去の声。
「人、ならざるもの――」
 口にして、蔡広は辺りを見回した。あの美しかった花園は、男に踏み荒らされて見る影もない。無残に命を絶たれた花が、そこかしこに散らばっていた。
 何を思うまでもなく蔡広は花を拾い上げていた。その鼻に馥郁たる香りが届く。知らず、花を握り締めていた。手の中で花が震える。いままであったはずの、華馥の指のように。
「この、匂いだ――」
 目を落とせば一輪の花。あの白菊が風に揺れて震えていた。あるいはそれは蔡広の震えであったのかもしれない。
「子香……」
 花を抱きしめて泣く蔡広の体を、白菊の亡骸の香りが包み込む。立ち尽くす蔡広に、明るい朝陽が降り注ぎはじめた。



 その年の省試合格者の中に蔡広の名が見える。どのような気持ちで受験したのかは、余人の知るところではない。
 官途に就いた蔡広は、後にあの屋敷の持ち主を知った。権門の当主に近づきたくはなかったが、密やかに面会を求め、あの花園の菊の根をいただきたい、と願ったという。
「とっくに掘り返して、捨ててしまったよ――」
 なぜ蔡広が園内を知っているのかと訝しみつつ、当主は言った。
 ――そう、語り伝えられている、という。




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