翌朝、華馥は何事もなかったかのような顔をして朝食に誘った。蔡広はわずかの間、戸惑う。昨夜の蜜柑は、幻か、と。
 ちらり、窓辺を振り返る。蜜柑は変わらずそこにあった。
「いかがされました、弘都殿」
 振り返った蔡広に、華馥が首をかしげて問うている。まるであれは自分ではない、とでも言うようだった。その目許に蔡広はかすかな強張りを見て取る。
 責められている気がした。責めているのは己だ、とも思った。昨夜、動けなかった。あのまま華馥の室を訪れれば、いったいどうなっていただろう。結果は火を見るより明らか。
 無言のうち、食事を済ませた。華馥の態度は変わらない。変わらないことがいっそう、後悔を呼ぶ。彼を伴って室に戻り、勉強をしてみても、少しも身が入らない。
 このままでは、何も進まない。そう思って進めたいのか、と己に問う。是。すぐさま返ってきた心の声に蔡広は少し、笑った。
「どうか、しましたか」
 わずかばかり不安の滲む声。ふと華馥に目をやれば、いつになく精彩がなかった。そして気づく。今朝からまともに彼を見ていなかったことに。
「少し、疲れませんか」
「いえ、私は……」
「気分転換をしようと思います」
 にこり、蔡広は笑った。それに華馥の表情が明るくなっていく。見られることで花開き、喜ばれることで輝きを増す花のように。
「あなたもご一緒に、子香殿」
「どちらに」
「庭の散策でもしませんか。こちらに来てから、拝見したことがないのです。せっかく素晴らしい庭があるというのに」
 勉強に追われていた、とは思わない。本来ならば追われているべきだとは思う。試験の日は近づいている。
「先に行っていてください。すぐに追いつきますから」
 蔡広はそう言い置いて室をあとにする。不安そうな華馥の眼差しが追ってきたけれど、足は止めなかった。
 都に来た一番の目的より、自分は華馥とともにいることを選んでいた、と今更ながら蔡広は悟っていた。
 ならば、選択は一つ。迷うことなど、何もなかった。昨夜の逡巡が嘘のよう。庭に出れば美しい秋晴れの空。袖の中、隠したものが重たかった。重さは、気恥ずかしさだった。
「よい天気です」
 待ち侘びていた、そんな顔も見せず彼は笑う。言葉通りすぐに追いついてくれたとその目が語る。風が吹けば、華馥が香る。胸の奥がすっとした。不意に華馥が振り返った。
「あなたのお気に召すかどうか……」
「なんでしょう」
「花が、咲いています」
 それだけを言って、華馥は歩みを進めた。突如として、止めたい、蔡広は思う。手を伸ばせば、すり抜けられてしまう。なぜか、そう思った。
「子香」
 だから、呼んだ。馴れ馴れしくも呼び捨てた。はっとして彼が振り返る。その間を狙って蔡広が投げたもの、袖の中に隠したもの。
「……あなたは」
 華馥の手の中、小さな蜜柑が納まっていた。きゅっと唇を噛んで、今にも泣き出しそうな顔をして華馥がうなだれる。
「あなたがくれた蜜柑は、いまも私の室にあります」
 彼が完全に誤解をしてしまうより先、蔡広は言った。あなたが示してくれた恋情は受け取った、あなたに今度は私が投げ返した、と。
「弘都、殿」
 おずおずと呼ばれた。震えた声。首を垂れていた花が、天に向かって咲き誇る。己は、咲いてよいのか、と。
「それでは、私の立つ瀬がない」
 蔡広は笑った。天高く、どこまでも笑い声が届けばよいとばかり笑った。この恋を寿げとばかり、笑った。
「私だけを、礼儀知らずにするおつもりか」
 華馥に眼差しをあわせる。間近で見て、ようやく知った。半月もともに暮らしていたのに、知らなかった。彼のほうがほんのわずか、小柄だった。
 その彼の視線にあわせるよう、かがんで覗き込めば、仄かな恥じらい。あるいは人が花を凝視するとき、花はこんな顔をしているのかもしれない。
「弘都。あなたは――」
 ためらいつつ、戸惑いつつ、小さな声で彼が呼ぶ。蔡広は笑った。心から笑みを浮かべた。声なき笑いがあたり一帯を染めていく、そんな気さえするほどに。
「私が、何か」
 悪戯めいて尋ねれば、困り顔のまま華馥が微笑む。黙って首を振ったけれど、その顔には確かな笑みがあった。
「試験が」
「次があります」
「ご尊父の、お友達に――」
「黙っていればわかりません」
「誰が知らなくとも、私が知って――」
「子香」
 呼べば、ぴたりと止まった。泣き笑いの顔が、歪んだ。それさえ美しい、蔡広は見惚れる。
「今更、ためらうのですか、あなたが」
 ならば昨夜の蜜柑のわけを教えて欲しい、詰め寄るでもなく言った言葉に華馥が頭を垂れた。その手に、投げられた蜜柑をきゅっと握ったまま。
「知って、欲しかったのです。それだけで、よかったのです」
「よくはない」
「弘都――」
「あなたを迷わせてしまったのは、私ですね」
 首をかしげて問いかける。華馥はうなずかなかった。けれど、顔色が語る。昨夜一晩、悩みぬいてしまったのだと、体中が語っている。萎れた花のように。
「あなたを迷わせてしまったのは、私です」
「責任を取るとでも言うおつもりか」
 叩きつけるような声音に、けれど蔡広は微笑んだ。華馥が、笑みに怯むのが見て取れる。静かに、手を伸ばしても逃げられなかった。
 咲き初めの、柔らかい花弁に触れるよう、蔡広は彼の肩先を撫でた。恐れて逃げ出したい、華馥の体が語っていた。それでも彼は逃げなかった。
「あなたを、友とは呼べません」
 その言葉に、今度こそ華馥が逃げた。身をひるがえして走り出す。走り出そうとする。その袖を蔡広はすでに捉えていた。
「逃げないで」
 無理に抱き寄せることは、したくなかった。けれど抗う華馥をそのままにもしておけなくて、蔡広は彼を抱きすくめる。
 腕の中、華馥の匂いが強く香る。どこかで知っている花の香りだ、と気づいた。が、それがどの花なのかがわからない。あるいは華馥の印象に引かれた思いであるのかもしれない。
「友だけでは、足りない」
 後ろから抱きしめて、耳許に囁く。ひくり、彼の体が震えた。
「あなたも、同じだと思っていた」
 また、震えた。おずおずとして手が、伸びてくる。ゆっくりと、抱きすくめた腕に触れた。離してくれ、とでも言うように。
「子香……」
 不意に、体から力が抜けてしまった気がした。華馥がくれた恋心。蜜柑。そう思っていたのは、間違いか。彼の香りがしていたと思ったのも間違いか。
 蔡広の腕がほどけてしまうその寸前、華馥が体ごと振り返った。真正面で見るその目。知らず蔡広ははっとしていた。
「弘都」
 はっきりと、呼ばれた。呼ばれた、と知覚するより先に腕の中に温かいもの。華馥が、胸に顔を埋めていた。胸元から立ち上る、彼の匂いにくらくらとする。
「あなたは――」
 埋めたままのくぐもった声が、戸惑いを語る。何も言うなとばかり、蔡広は首を振った。
「私に」
 華馥は聞かず続ける。だから、蔡広もまた続けた。
「あなたがいい」
「得体の知れない私が。どこの誰とも知れない私が。あなたを取り殺そうとする幽鬼の類かもしれない私が」
「幽鬼にしてはずいぶんとはっきりとした姿をお持ちだ」
 喉の奥で笑った蔡広に、華馥は顔を上げて抗議をする。それも途切れた。髪に手。胸をあわせ。唇に、唇。離れたとき、溜息だけが漏れた。
「言いませんでしたか。あなたがいい」
「私が――」
「幽鬼でも、狐でも、妖怪の類でも」
 昔からよく聞く。幽鬼が人と子を生した話。美しく少し変わったところはあっても勉学ができる男が狐であった話。後妻が妖怪であった話。
 恐ろしいと思ったことはなかった。あるかもしれないと思っていた。出会うかもしれないことを期待してもいた。
 いまここで、出会ったのだとしても、だから後悔など微塵もない。それを華馥に巧く伝えられさえすれば、蔡広はそう思ったけれど、必要はなかった。
 すぐそこで、彼が微笑んでいた。
「あなたこそ、私が幽鬼でないとは思わなかったのですか。道端であった男を拾ったりなさって。危ないことだ」
「幽鬼にしては――」
「どうしました、続けて」
 不意に恥らってうつむいてしまった彼の顎先に指をかけて仰のかせる。ほんのりと恨みを含んだ目の艶。花に色香が加わった。
「幽鬼にしては、あなたの腕は、温かい」
 応えて抱きしめた。華馥の胸から吐息が絞りだされる。苦痛ではなく、歓喜。抱き合う体は、温かかった。
「なにを、見せてくれるのでしょう」
「なに、とは――」
「先ほど、花を見せてくれると仰ったでしょう」
 忘れたのか、と眼差しだけでからかえば、彼の目もまた拗ねて見せる。咲きほころんだ大輪の花を見る思いだった。
「あなたが止めたんでしょうに」
 するりと腕から逃げ出した。今度は止めなくては、とは思わなかった。先ほどなぜあれほど止めたかったのかも、蔡広にはわからない。
「こちらです」
 案内されたのは、別棟の裏手。住み暮らした場所の裏にこんな場所があるとは思いもしなかった蔡広は息を飲む。
「これは……」
 屋敷の主は遠くに他出。手入れはいったい誰がしているのか。浮かんだ疑問はすぐさま消えた。そのようなことはどうでもよかった。
 美しい花園の中心に、ひときわ華麗な一輪。零れんばかりに咲き誇るは白菊の花。




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