都に知り人はいない。だから蔡広を訪ねてくる人があろうはずもなかったのだけれど、彼は門を閉ざし昼夜を問わず勉学に励んだ。
 あれからすでに半月程がすぎている。試験に対する焦りは不思議なほど蔡広の心から消えていた。華馥がいるからだ、と思えば胸の奥が熱くなる。友と呼ぶに値する男と知り合えた喜びが、蔡広をいつになく落ち着かせていた。
 その中でもふと疑問に思うことがなかったわけではない。華馥を訪ねてくる人は、いないのだろうか、と。いまだかつて彼を訪ねてきた者は一人としていなかった。
 なぜとなく問うこともできず勉強をする蔡広の傍ら、華馥がいた。彼は言った、学ぶことが好きだ、と。
 その言葉通り、試験のための勉強の邪魔をしないよう、蔡広とともに彼は古今の例を学び、詩を作った。
「本当に、素晴らしい」
 じっと座り続けた体をほぐすよう、蔡広は伸びをして華馥に眼差しを移す。その目は彼が書いた詩に注がれていた。
「これならば、どんな試験官もあなたを落とすことなどないでしょうに」
「栄達に興味がないのです」
「なんともったいない」
 蔡広は笑う。同じよう、華馥も笑った。何度となく繰り返された会話。蔡広は決して華馥の才を羨みはしなかった。
 彼の才を見るにつけ、己の至らなさを覚えはする。それでもいっそうの努力をしよう、と新たな気力が湧きあがりこそすれ、妬むなど思いもよらない。
「あなたに喜んでいただける。それが、嬉しい」
 ひっそりと微笑う華馥に、蔡広はわけもなく頬を赤らめた。まるで妓女の手管だ、とほんのわずかの間、思った。
 すぐさま後悔に変わる。彼の態度は手管などではない。純に、自然のもの。彼は心から思ったことを、そのまま述べているに過ぎない。それがなぜとなく、わかった。
「そろそろ夕食にしませんか」
 何も言わなくなってしまった蔡広を窺うよう、華馥は言う。覗き込む目が、かすかな不安を映して揺れていた。
「それはいい。そうしましょう」
 にこりと蔡広が微笑めば華馥の表情もまた晴れていく。それを見るのがまた、蔡広には喜びだった。
 この、他者を頼りきるとも思えない男が時折見せる心細げな顔。己が友を支えるに相応しい男になった気がする。そう思わせてくれる華馥が、嬉しかった。
 従者も、下働きもいない彼らの住まいだった。誰のものとも知らない広大な屋敷に、真実二人きりで住んでいる。
 月もない闇夜など、不意に恐ろしくなったりもする。いまここに、己のほかには華馥しかいない。そして蔡広は目を閉じる。華馥がいる、と。
 だから、日々の生活には、少しだけ困るかもしれない、蔡広はそう思っていた。どこか浮世離れして見える華馥のことだ、己がすべきだろう、とも。意外にもそれは裏切られた。
「長くここに住んでいますから。あなたはどうぞお気遣いなく」
 そう言って華馥は食事のことから衣服のことまで、すべて一人でしてしまった。無論、彼がしているのではない。彼が誰かに頼んでいるらしいのだが、蔡広はそれが誰かを知らない。
 特に気になりもしなかった。華馥が任せろ、と言ったのだ。そしてすべて順調に進んでいるのだ。気にかけることは何もなかった。
「これはいい」
 すでに用意されていた食事に箸を付け、蔡広は微笑む。菜を炒めたもの、肉の煮込み、それから故郷では口にしたこともない上等な湯。
「お気に召して何よりです」
「あなたはこれを――」
 どこで頼んでいるのか。そしてどれほど金がかかっているのか。問いそうになって蔡広は口をつぐんだ。華馥の笑みを見ては、言えなくなった。彼の笑みには、それだけのものがあった。
「とても、おいしい」
 代わりに言えば、ほっと彼が息をつく。そのほうがずっといい、疑問を脇に置き、蔡広は今を心行くまで楽しんだ。
「少しくらいならば、いいでしょう」
 そう言って華馥が差し出したのは酒だった。勉学の障りになるのでは、といままで遠慮していたらしい。その心遣いもまた、嬉しかった。
「あなたも」
 互いに杯を口に運ぶ。目と目が合った。どちらからともなく微笑を交わす。
 華馥が酒を口にするのを見て、どこかほっとしている己を蔡広は感じていた。華馥は、食が進まない。これで普通なのだ、と言って彼はまるで貴い女のよう、ほんの一口二口箸をつけるだけ。
「どうか、しましたか」
「あなたが、酒を飲むのを見てほっとしました」
「なぜ?」
 首をかしげる仕種に心が騒いだ。あどけないようでいて、匂い立つ色香。自然に醸し出されるそれに、蔡広は息を飲む。慌てて瞬いた。
「あまり、箸が進まれないようですから」
「生まれつきそうなのです。お気に障りましたか」
「とんでもない。お体は――」
「これで健康なのですよ。申しましたでしょう、生まれつきなのです」
 突き放す言葉とは裏腹に、華馥は笑う。真実、花がほころぶようだった。
「あなたがお体を害していないと言うなら、それでいいのです」
「もし――」
「本当に。それだけが、気がかりでした」
 真実は、あっけなく覆された。今度の笑みこそが、花だった。咲き初めの花が、一息のうちに満開になったかのごとく。
 何も言わず微笑んだまま華馥は眼差しを落とした。もし花が、人の眼差しに堪えかねて恥らうならば、いまの彼のようになるだろう。
「いかが、なさいました」
 突如として激しく首を振った蔡広に華馥は唇をほころばせて問う。それもまた、花のよう。蔡広は礼に外れていると知りつつ酒を飲み干す。
「少し、酔ったようです」
 言って、杯を置いた。ゆっくりと立ち上がれば、眼差しが追ってくる。そんな気がした。背中に華馥の目を感じつつ、庭に出る。
「風に、当たってきます」
 ゆらりと彼が立ち上がる気配。花が、風に揺れたかと思った。
「もう遅い、あなたはおやすみになってください」
 前を見たまま蔡広は言った。くたり、花が萎れた。気のせいだ、と蔡広は唇を噛みつつ庭を歩いた。
 人気のない屋敷をひっそりと歩みを進めていく己こそが人ならざるもののようだ。蔡広は口許に美しくはない笑みを刻んで歩き続ける。
 遠くにはいかなかった。門から出ることもない。いつの間にか、住まいにしている別棟のあたり。
「戻ってきてしまったか」
 わざとのよう言えば、苦笑が浮かぶ。一つの室に、まだ明かりがついていた。ずいぶん長く歩いていたはずなのに、と。
「子香殿」
 呟きが、思いのほか大きく聞こえた。風にのって彼の元に届いてしまいはせぬかと、そればかりが気にかかる。
 室から覗く、蝋燭の明かりが揺らいだ気がして、蔡広は足を速めた。もしも届いてしまっていたならば。それを思えばいたたまれなかった。
 足早に己の室に戻れば、いつの間に用意を整えてくれていたのだろう、勉学の道具など散らかしたままであったはずが、すっかり整頓されていた上、短くなった蝋燭は取り替えられ、水差しにはたっぷりの水。臥牀は寝心地よさそうに、整えられていた。
「子香殿。あなたがなさったのか――」
 そっと臥牀に手をつく。彼が、と不思議に思うものの、こんな夜となっては彼しかいない。蔡広はそっと息を吸う。
 間違いがなかった。華馥は、ここにきていた。彼と身近に接するようになって気づいたことがある。華馥からは、よい香りがした。
「お気に召しませんか」
 気づいて問うたとき、彼はそう困り顔をした。胸のあたりを押さえたのは、そこに香袋でも忍ばせているせいだろうか。
「いいえ。よい、香りです」
 心からそう思っていた。悩ましいきつい匂いではなく、まして脂粉の匂いでもない。誇り高く気品を感じさせる澄んだ香りだった。
「それは、よかった」
 仄かに笑った華馥の顔が、いまも瞼の裏に浮かぶようだった。彼が傍らにある時、立ち居をするとき、時には窓の外を通ってすら、その香りが蔡広に届く。
 いまもまた、己の室でそれを感じた。不快には思わなかった。戸惑いばかりを感じる。これほどのことをしてくれるには及ばない、思う反面ありがたいとも思う。
 臥牀に手を滑らせれば、滑らかな手触り。ふと、華馥の肌に触れている気がして蔡広は人しれず頬を赤らめた。
「まさか」
 呟いて、なにがまさかだと言うのか、自分でもわからなくなる。彼に触れたと思ったことか。それとも、触れたいと望んだことか。
「いや――」
 思っているのか、己は。勉強が、試験が。郷里が、亡くなった父母が。いまも合格を心から望んでくれている父の友が。
 意味などない夢想ばかりが駆け巡り、蔡広は考えたくないのだと気づく。心を落ち着けようと深く息を吸えばまた、華馥の匂い。
「心が」
 惑う。惑っては、試験が危うい。わずかの間、蔡広はここを出ようかと思う。次いで苦笑した。微塵も、そのようなことを考えていない自分を知っていた。
「惑うなら、惑え」
 それもまた、一興。今年の試験もだめだろう、と心の中の真面目なところが言う。蔡広はそのとおり、とうなずいていた。
 ふと、音がした。ことりと、小さな音。よもやいまの独り言を華馥に聞かれたか、と青くなって窓辺を振り返る。
 音は確かにそこから聞こえていた。が、人影はない。窓から首を出し、辺りを見回しても誰もいなかった。
「……子香殿」
 それでも蔡広は今まで彼がここにいたことを感じている。目には映らなかった。ただ、香りは残る。風が吹き散らさなかった、彼の匂い。
「あなたは」
 なぜいまここに。闇に向かって問いかけそうになった蔡広の目に映った明るいもの。思わず目を大きく開く。
 窓枠には、愛らしい蜜柑が二つ、ひっそりと乗せられていた。華馥の意図は、明らか。蔡広はじっとその場に佇んだ。




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