――今は昔。 震旦の国に一人の男があったという。年若くして郷試に合格し、郷里の期待を一身に背負い勉学に励んだ。男の父母はすでになく、父の友が生活、勉学の一切の掛かりを助けた、という。だからこそ今年こそは、と省試に望むも、常に果敢なく敗れていた。 男の名を蔡広という。刻苦勉励の末、ついには苛烈にして清廉、有能にして仁慈を知る官吏となるが、これはいまだ蔡広が省試合格を果たす以前の話であった。 呆然としていた。今年も試験のため、国元から出てきたばかりの蔡広は、例年の宿がすでに埋まっていることを知ってなす術もなかった。 「これは、困った――」 のんびりと構えすぎただろうか。そのようなことはないはず、と己では思っている。今年も試験の日程より二月も前に都を訪れたのだ。 「いったいなにが」 あったというのだろうか。まったくわからないまま宿を求めてあちらこちらと周ってみるも、やはりどの宿もいっぱいだった。 ついには繁華な場所を外れ、閑静と言うよりはいささか寂しい通りへと出てしまう。これでは宿など求めるべくもない、と溜息をついたところ、ふと寺が目に入った。 「参るか」 試験に向けて勉学はおさおさ怠りない。が、その上で神に祈るのも悪くはない。庭園など周って気持ちを落ち着けるのもよいだろう。 そう蔡広が歩みを進めたときだった。するり、と人に追い越された。年のころは己と同じほど。それでいてちらりと振り返った顔に妙な愛嬌がある。 「失礼ですが」 首をかしげて男に問われてはじめて蔡広は彼をじっと見ていたことを知り、思わず頬を赤らめた。無礼をなじられるより、恥ずかしかった。 「大変、失礼をいたしました。意趣があるわけでは――」 「とんでもない。こちらこそ突然にお声をかけたりして、ご無礼をいたしました」 物腰柔らかく、良家の子弟と思われた。蔡広はすっと胸が軽くなるのを覚える。 「重ねて失礼なことを伺いますが、もしや試験の?」 「はい」 「でしたら宿など、もうお決まりでしょうか」 「それが……」 知らず困りきった顔をしていたのだろう、蔡広の表情に彼は心から同情したよう、うなずく。 「今年は妙に人が多いようです。どの宿もすでにいっぱいとか」 「それは……困りました」 己が足で知ったことだった。それでも男にそう言われてしまえば、蔡広は途方にくれるしかない。いっそすぐ目の前の寺の堂宇の隅でも借りようか、と思うほど追い詰められてしまった。 それが顔に出たのだろう、男は首をかしげ、それなのにそっと笑った。ふと、花が開いたように思えて蔡広は訝しく思う。それを突き詰める前、男が言った。 「もしよろしかったら、私のところにおいでになりませんか」 突然の申し出に蔡広は目を大きく開き言葉を失う。確かに、ありがたかった。だが、何より訝しい。悪い者には見えないが、かといっていま出会ったばかりの知人とも言えない男を信じる理由もない。 「実は――」 蔡広の内心の思いなど気にかけもせず男は言う。照れたような笑みにまた、心が騒いだ。 「私もあるお屋敷に寄寓しているのです」 「でしたら――」 「屋敷の主人は家族を連れて遠い任地にありますので。広いお屋敷なのですが、私一人ではとても寂しくて。どなたかがいてくださればどれほど心強いかと。実を言えば今日もそのお願いにきた次第でして」 そう言ってちらりと寺を振り返る。その目にあるのがあまりにも純な希望で蔡広は胸を打たれた。疑った己があまりにも汚れている、そんな気がした。 「お困りのところに付け込むわけではありませんが、いかがでしょう。もしよかったら、でよろしいのです。おいでくださりませんか」 そこまで言われて蔡広は気づけばうなずいていた。言われなくとも、心は決まっていた、そうも思った。男の無垢な笑みがまたも蔡広の心を打つ。 「私は蔡広、字を弘都と申します。ご厄介になります」 「ご厄介などとんでもない。どうぞ我が家と思って、と私が言うのもおかしなものですが。本当に心強い……」 ほっと胸に手を当てるところを見れば、どれほどの荒れ屋だろう、といまさらながら心細くなってくる蔡広だったが、自分よりよほど華奢なこの男がいままでつらいながらも耐えていたならば、と思いなおす。 「華馥、と申します。字は子香、と」 名乗るとき、華馥はどことなく照れた顔をした。まるで名乗ることそのものに慣れていないとでも言うような。 不思議に思いつつ蔡広は男のあとについていった。慣れた様子で歩みを進めるところを見れば都には長いのだろう。 「華さんも、試験を?」 違うだろう、と思いつつ蔡広は問う。どことなく華馥には世の富貴から外れたところがあった。そのようなものよりずっと高みを目指している、とでも言わんばかりの雰囲気だったが、かと言って世を斜めに見ているのでもない。独特の気品があった。 「いえ、私は。勉強は好きですが、それでもって世に出ようとは思っていません」 案の定の答えに蔡広はただうなずく。ゆっくりと、黙ったまま歩みを進めていくのはよい気分だった。 先ほどまで、宿はいかに、試験への心構えはいかにと、焦ってばかりだった自分を省みる。落ち着いているつもりではあったけれど、こうしてみれば浮き足立っていたのがよくわかる。それを知っただけでも華馥に出会ったのは僥倖、と思った。 「ここですよ」 そう言って華馥が足を止めたのは、蔡広が想像もしなかった屋敷だった。あまりの出来事に呆気に取られ、ただひたすらに屋敷を見上げるばかり。 「お気に召しませんでしょうか」 ふと華馥が顔を曇らせる。それに慌てて蔡広は手を振った。 「とんでもない。なんと……」 どう言っていいか、迷った。目の前にある屋敷のあまりの豪壮さに、言葉を失う。確か華馥は屋敷の主人は任地にある、と言っていた。 「ここは……」 「いずれ、おわかりになることかとも思いますが、屋敷の主は名を広めてほしくはないそうで」 それだけ言って困り顔をした。それにまた蔡広は、慌てた。己がなぜかとんでもない悪行をした気になってしまう。 「いえ、そんなことは」 言って、まだ慌てている、と内心で笑う。自分でも何を言っているか、よくわからなかった。それを華馥は首をかしげ微笑んだ。 「こちらから入りましょう」 主不在のため正門は閉ざしているから、と裏にまわる。それにもずいぶん時がかかった。周囲をめぐれば、どれほど広い屋敷なのかが窺われる。 これほど広い屋敷に一人きりではたとえ武勇を誇る男だったとしても寂しくてたまらないだろう、ましてこの華馥のように儚げな男では、と蔡広はちらりと彼の背を見やる。 「どうぞ」 その眼差しに気づいたよう、華馥が振り返っては微笑んだ。よく笑う男だ、と蔡広は思う。その笑みが、花が開くようよく似合う、とも。思った途端、目を伏せた。 「どうなさいました」 「いえ――」 目をそらしたはずなのに、華馥が戸を押さえるその細い指先に目を奪われた。思わず瞬いて息を吸う。 「少し、疲れたのでしょう」 「それはいけない。お早く。まずお休みにならなくては」 「あ、いえ……」 そっと袖をとられた。馴れ馴れしい仕種のはずなのに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。案じてくれる心が嬉しいばかり。 まるで手を引かれるようにして敷地に入った。入ってみれば、外から見たのではわからないほど、まだ広い。 「これは、すごい」 思わず溜息がもれる。この世には、これほどの富貴もあるのだ、と思う。故郷の家を思った。父の友が助けてくれているから、貧しくはない。が、豊かでもない。 「このようなところをお住まいにお望みですか」 ふと華馥が問うた。この声音にかすかな嫌悪が入り混じっている気がして、知らず彼の顔を窺った。 「私の父はすでになく、母も亡くなりました。父母に孝養を尽くせなかった慙愧に駆られています」 「ご母堂もご尊父も、ただ富貴を得ることだけが、お望みでしたのでしょうか」 「え――」 「我が子の幸福をこそ、人の父母は望むのではないでしょうか」 はたと足が止まった。父ない今、父の友に恩義を返すことだけを願っている。そのための試験合格、と気づけばいつからそのように思うようになっていたのだろう。 「私は」 「いまだよく知りもせず大きな口を叩く、とお思いでしょうが、蔡弘都殿はいずれもっとずっと大きくおなりのことと私は思います」 この世の富貴ではなく。この世の富貴を含み、それを超え。華馥の声なき声が聞こえたようで、蔡広は瞬く。 「華子香殿――」 不意に悟った。宿がいっぱいだったことに感謝した。ふらふらとあてもなく歩いた己の足に感謝した。そこで華馥に出会ったことに。 「私はいま初めて友に逢った、そう思います」 気づけば、華馥の手をとっていた。あたかも祈るよう、両手で包んでいた。華馥は密やかに微笑み、首をかしげる。 「友、ですか?」 わずかにからかうような声の色に蔡広は照れたよう笑い、そしてやっとのことで手を離す。ひんやりと、柔らかい手をしていた。女のものとは違い、芯のある手。それでいて女の手よりずっと肌に馴染んだ。 「あちらの棟に起居しています」 そう、華馥は言い屋敷の別棟を指差す。屋敷の主が、来客に供するために建てたのだろう棟ではあったが、それでも蔡広の目には大変に広く見えた。 「一人で、心細く思っていました」 また、華馥はそう言った。それに蔡広は一も二もなく同じ棟に起居することを告げていた。 |