絶望的なその瞬間を、アクィリフェルは見ていた。が、気にも留めなかった。アウデンティースがティリアに傷を負わせるはずがない。あるいは未来を聞いていたのかもしれない。アクィリフェルは奏でる。
 ただひたすらに奏で続ける。世界の崩れ行く音。それを止めるために割いてきた時間。犠牲になった命。
 すべてを意識の外に置き、そして心の中に留める。アクィリフェルのリュートと声が形作る音楽は、音ではなかった。そしてまた、音でしかなく、音楽ではなかった。
 スキエントの耳に届くのだろうか。もしもまだ彼に人間としての心が残っているのならば届いただろう。
「おぉ、可哀想に! あなたのお父上はあなたごとわしを殺そうとなさっておいでだ!」
 ティリアに向けたアウデンティースへの言葉。王は嘲弄に耳を傾けず、剣を構えなおす。
 正直に言えば、焦ってはいた。スキエントがティリアを手にしている限り、積極的な攻撃ができない。それを確信しているスキエントの笑みだった。
「それともどうかな? お優しい国王陛下! 貴様は他愛もない屑の命が大事だとほざく。だったらわしを殺してみるがいい。その剣で刺してみるがいい。この娘とともにな!」
 スキエントが、ティリアを自分の前に差し出した。背後から王女を抱きすくめる。それだけで、アクィリフェルの胸は滾るようだった。
「離せ、下郎」
 音の合間の声だった。歌は続いている。それなのに、アクィリフェルは語っていた。いまやもう、リュートの音もアクィリフェルの声も判然としない。
「下郎!? 誰に向かって言っている! 下郎はどちらだ! わしから、わしのすべきことを奪った屑め!」
 くう、とティリアが呻いた。スキエントの腕が彼女の喉を圧迫している。いまだはっきりと知覚してはいないのだろう、王女の目はぼんやりとくすんでいた。
「屑はどちらです? 武器も持たない女性を人質にすることしかできないんですか」
 アクィリフェルの声にならない声が、アウデンティースに時間を稼げと告げていた。
 まったく予定外のことだった。混沌がスキエントに宿ってしまうとは。それでも変わらない、そう思っていた。
 だが実際には、これほどまでに核が作りにくい。混沌が、ただ漂っているだけのそれならば、呆気ないほど簡単にまとめられる。現にそうしてたゆたう混沌の塊がそこらにある。
 人間に宿ってしまった混沌は、なぜかはわからない。固まりにくく、そもそもスキエントから引き出しにくい。
 舌打ちもできず、アクィリフェルは歌い続ける。世界の変貌を嫌でも聞きながら。アウデンティースの剣が、スキエントを襲うのも聞こえている。そのたびに振り回されるティリアのくぐもった悲鳴も聞こえている。何もできない、唇を噛みたくなる。
 ――できないと思うから、できないのだ。
 誰かが言った気がした。世界の声だったのかもしれない。けれどなぜか父の声に聞こえた。
「父さん――」
 いまはもう死んでいる。予想ではない。確信でもない。アクィリフェルは知っていただけだ。亡き父が、背後に立っている気がした。母が励ましてくれている気がした。
「あのときはちゃんと紹介できませんでしたけど、これが僕の選んだ人です」
 アクィリフェルの視線がアウデンティースを捉える。目に見えない父母が、微笑んでくれた気がした。リュートに声に音が乗る。
 苛々とスキエントがアクィリフェルを見やる。剣をかわし、また彼を見る。アクィリフェルは更に声を重ねた。
 必死になって剣を振るアウデンティースの額からこぼれた汗。混沌に傷つけられたか至るところから流れ出す彼の血潮。ティリアのかすかな息の音。それから自分の鼓動。すべてが歌になる。
「ほれ、どうだ。切ってみろ。切ってみるがいい!」
 狂ったスキエントの苛立ちの声。肩をゆすぶられたティリアの首ががくがくと揺れた。
「貴様――」
「乗せられないでくださいよ、ラウルス」
「――感謝」
 一瞬は猛ったアウデンティース。唇に獰猛な笑みを乗せたまま、冷静さを取り戻す。握った剣の柄が汗で滑った。固く握りなおしてスキエントを見据える。
「ならば、これならどうだ?」
 スキエントの笑みが深くなる、横目で予言の歌い手を見つつ。羽交い絞めにしたティリアの耳許に何かを囁き、そして。
「……お父様?」
 ティリアがはっきりと自分を取り戻した。ぎょっとしたよう辺りを見回そうとして、果たせない。かろうじて傾けた首で、自分を拘束しているのがスキエントだと知る。
「なぜ、あなたが。……え?」
 徐々に戻っていく記憶を、その表情が語っていた。真っ青に血の気を失くした顔。視線の強さが心を語る。
「待っていろ、ティリア」
 これほど必死な顔をした父も、汗まみれの王も見たことがなかった。酷い疲労だろうか、それとも深手を負っているのだろうか。ティリアにはわからない。ただ父の手が震えているのだけが、彼女にはわかっていた。
「いいえ、お父様」
 ティリアの決意を、アクィリフェルは聞く。耳を閉ざせるものならば。いったい何度そう思ったことだろう、願ったことだろう。
「この者を倒せば、救われるのですね」
 自分がではない、アルハイドの人々が。ティリアに流れる王家の血が、彼女にそれを言わせる。誇りとして、喜びとして。
「待て、ティリア」
「いいえ。それで救われるのならばお父様。どうぞわたくしごと。わたくし一人を助けようとなさるなど、陛下のなさることではありません」
 きっぱりと、ただ一人の娘ではなく、王女として、アルハイド国王の臣としてティリアは言い放つ。目には限りない歓喜を浮かべ。
「お父様!」
 アウデンティースは動けない。娘を犠牲にする覚悟がないのではない。もしもティリアを殺してアルハイドの民のすべてが助かるというのならば、彼は娘を切っただろう。その絶望を、アクィリフェルただ一人のみが知りつつ。
 だが、スキエントがいる。ティリアごと切ったとて、スキエントが倒せるのか。スキエントを殺して、混沌の核はできるのか。核を破壊しなければ、なんの意味もない。それがアウデンティースをためらわせた。
「お優しいことだ、なんとお優しい姫さまだ。おぉ、素晴らしい。涙がこぼれそうだ」
 スキエントが高らかに笑う。そしてまるでティリアが自分のものででもあるかのよう、彼女を抱きすくめた。
「可哀想に、姫様。実に感動的でしたよ」
 スキエントの片手が、ティリアの頬を撫でさする。反対の手が、胴をまさぐる。愛するメレザンドにすら許してこなかった無作法に、ティリアの顔が嫌悪に歪んだ。
「貴様――」
 アウデンティースは、手の中の剣が躍動したかのように感じた。あるいは、炎を握っているかのように。
「なにもできない屑ならば黙って――」
 言葉がかき消される。スキエントがアクィリフェルの歌に気を取られた瞬間、それは同時に起こった。宮殿の壁が崩れはじめた。アウデンティースの怒号が響いた。
「俺の娘に触るんじゃねェ――!」
「ラウルス!」
 重なるよう響くアクィリフェルの声。止めたのではない。示していた。アウデンティースにはわかる。自分の手の中に剣があるかのよう、アクィリフェルはわかっている。
「なに――!?」
 ティリアの目が見開かれた。まっすぐに向かってくる黒き御使いの剣。これで終わる。目を閉じる。覚悟は決めていた。それでも、心は悲鳴を上げる。唇からはもれず。目の前が闇に閉ざされる。
「ティリアを、離せ――!」
 アウデンティースの剣が、吸い込まれるようティリアに向かう。彼女の頬を掠め、スキエントの喉にと。
「か、は……」
 スキエントは、けれどしかし笑った。こんなもので自分を殺すことはできないのだとばかりに。口が裂けるかと思わんばかりに、笑った。刺さったままだった矢がぽろりと落ちる。
「殺せるさ」
 アウデンティースの言葉より先、スキエントの顔が凍りつく。そこにこれでもかと貫き通される剣。
「混沌の、核だ」
 切っ先に点のような黒い染み。それがアウデンティースの貫いたものの正体だった。
「お前なんざ、どうでもいい。大事なのは、核だ」
「きさ、ま……」
「お前が生きようが死のうが世界は変わらん。我々の目的は、お前ではない。混沌の核だ」
 これ以上ないと言えばない侮辱だった。スキエントの唇がわななき、閉じられる。再び開いたとき、それは混沌の悲鳴に聞こえた。
「ラウルス!」
 咄嗟に伏せたアクィリフェル。アウデンティースは娘を腕に抱えて飛んでいた。
「ティリア」
 意識のない王女は、答えない。けれど確かに生きていた。浅い呼吸にほっと息をつくのも束の間、スキエントの絶叫が辺りを圧する。またも悲鳴。けれど今度は。
「アケル! おい、アケル! しっかりしろ!」
 声が届いていなかった。身を伏せたまま、アクィリフェルは頭を抱えていた。
 彼は聞いていた。世界と混沌のせめぎあいを体中で聞いていた。
 混沌が、アルハイドの大地から退いていく。悪夢の波のように海へと、逆戻しの土砂崩れのよう地の底へと還っていく。そして消えていく。けれどしかし、それだけでは済まなかった。
 最後の波を押し戻すかのように、あるいは障壁となるかのようにシャルマークの北で大地が鳴動する。突き上がる。そして現れる山並み。海風すら通さないといわんばかりに。
 鳴動はそれだけではなかった。シャルマークの東から、西から、ハイドリンに向かって延びていく線。否、山々。
 あたかも勝利に突き上げる拳。あるいは断末魔の悶絶。大陸を三分する山脈が、大地を揺るがし生き残りの命すら飲み込みつつ生まれていく。
「アケル!」
 声を限りに、否、声が嗄れようとも、アクィリフェルは叫んでいた。土に埋まった人を救い出す。裂け目に落ちた人を助け上げる。放り出された者、潰されかけた者。アクィリフェルはすべてに声を届かせる。
 世界も闘っていた。混沌の残滓を拭おうと戦っていた。世界がアクィリフェルの声に気づいたとき、人間は生きているのを知った。




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