まるで稲妻のようだった。アクィリフェルの弓が高らかに鳴り響き、矢が放たれる。
「貴様――!」
 スキエントが醜い声を上げた。アクィリフェルは耳を閉ざすこともできずその衝撃を乗り切った。スキエントの声はアクィリフェルに、殴られたよりなお酷い傷を与えている。けれどそれを気づかせる気は毛頭なかった。
「ラウルス!」
 声をかけるまでもない。放った矢がスキエントに到達するより先、アウデンティースは剣を捨て走り出していた。
「ちっ」
 本当ならば、ティリアを助け出したい。けれどいまは。
 スキエントが手に刺さった矢によろめいた隙に緩んだ剣をアウデンティースはもぎ取る。あたかも剣のほうから飛び込んできたかのよう、しっくりと手に収まった。
「返せ! 返せ、返せ、返せ! それはわしの剣だ。わしだけが世界を救う! 美しい、慕わしい、わしの愛しい暁の剣!」
「寝言は寝て言え、愚か者」
「愚か者! どちらがだ!」
 スキエントの口から、またも混沌があふれ出す。再び弓が鳴る。鳥のように悦ばしげに、嵐のよう恐ろしく。
 どちらが決断したのでもなかった。どちらもが、その瞬間に悟っていた。スキエントを救うことはできないと。救い得るとするならば、その魂。混沌から解放することのみ。その生命をもって。
「が、は――!」
 終わるはずだった。スキエントの喉に矢が立ったからには、終わるはずだった。
 しかし、見るがいい。スキエントはいまなお立っている。立つのみならず、生きている。生きるのみならず、爛々と眼を輝かせている。混沌の化身と成り果てて。
「だめですね」
「だろうとは思ったがな」
「案の定と知っても気分はよくないです」
「同感だ」
 互いに軽口を叩きあう。声が震えないよう心しつつ。けれどアウデンティースは感じるだろう。アクィリフェルは聞かなくとも聞こえるだろう。
 わかっていても、今はそうしかできなかった。そうできることが心からありがたいと思えた。
 そこに互いがいるからではない。自分たちは真に選ばれた、そう思っているのでもない。
 できることをできる自分たちがしているだけだ。その思いが言葉ではなく染みとおる。事実として、皮肉に。
 やりたいと言うのならば、スキエントに本当に正しい心があるのならば、いっそ任せてしまえればどれほど楽だろう。
 もしもアルハイド王に成り代われるような存在であるならば、アウデンティースは喜んでその座を譲る。民のために。だが。
 スキエントの手に剣を与えることはできない。それが、きっと彼にはわからない。だからこそ、その命を奪わねばならない。その痛みもスキエントにはもうわからない。
「ラウルス」
 剣を持ち、そして使い得る、かつ、使われない使い手。それがアウデンティースだとアクィリフェルは知っている。
「あぁ、問題ない」
 唇を歪めたのが見えた気がした。それだけで、考えていることがわかる気がした。
 自分たちは、死なない。少なくとも、死なないと聞かされてはいる。だがそれより悪い運命がないとも思えない。
 今ここで、スキエントを倒すことができなければ、アルハイドの大地は混沌に塗れるのだから。
「愚かな……愚かな王よ……!」
 スキエントが喉の奥で笑い出す。まるで狂気のようだった。あるいはすでに狂気に犯されているのかもしれない。混沌にその意思を譲り渡したそのときに。
「貴様は今、ティリア姫を助けることができたはずだ。剣などではなく。己の娘を、血をわけた娘を助けることができたはずだ」
「言われるまでもない」
 きっちりと、剣を構えた。先ほどまで使っていた剣などよりよほど手に馴染んだ。吸い付くように、アクィリフェルの肌のように。途端に剣が震えた気がした、歓喜に。
「だが、どうだ? 実際は、何をした? たかが剣を取った、貴様は。命より、剣を! 武器を取った! 力を取った! 馬鹿め! 所詮、貴様とてその程度。だからこそ、暁の剣はわしにこそ相応しいわ! わしの剣だ!」
 スキエントの、狂ったかの哄笑。重ささえ帯びていた。アウデンティースは答えない。答えては、自ら同列に語ることになる。そのたまらない不快さ。その代わり、アクィリフェルが膝をつく。
「アケル!?」
 なんでもない、と首を振ることができなかった。アクィリフェルには見えるように聞こえていた。スキエントの声が、否、混沌がこの瞬間何をしたのかが。
 王都ハイドリンが灰燼に帰している。正に木っ端微塵に、一木一草に至るまで。かろうじて、この宮殿のみが倒壊を免れる。
 巨大な手が、天空から振り下ろされ、街を、宮殿を、離宮を潰していく。あたかも飽きた玩具を壊す子供のように。
「アケル、しっかりしろ!」
 アクィリフェルには聞こえるように見えていた。
 逃げ惑う人々の姿が。海からあふれ出す混沌。襲い掛かられ、漆黒の虚空にもがく人々。ぽつりぽつりと光。すぐさま消えた。そしてそれきり姿を見せない静寂。
 ぽっかりと穴の開いたような村が、混沌に侵されていく。じわじわと、じわじわと。それは世界に開いた虫食いの穴。
「貴様らなど、所詮その程度!」
 アクィリフェルには見えるように聞こえていた。
 ファーサイトの山が崩れていく。混沌に侵された気配もなく、けれど中はしっかりと食い尽くされて。賢者たちが、他愛もなく逃げ惑う。
 逃げ切れるものなど、だがしかしいなかった。一人ひとりを追い詰めて、混沌は嬉々として飲んでいく。
 また他も見た。見るように聞いた。
 あれはミルテシアの海。混沌が雪崩のように襲い掛かる。人々を追い回すこともせず、光もまた、ただ飲んだ。あとには村も残らない。混沌が、いまだそこに暗黒として漂う。
 そしてラクルーサの街。警告を送りきれなかった人々が、死んでいく。あちらでも、こちらでも、光も。命のなくなった物体として転がり、そして混沌が彼らの遺骸を犯す。
 アクィリフェルの目としての耳は聞いた。禁断の山。アクィリフェルの故郷の山もまた、逃れられなかった。
「父さん――母さん――」
 声は声にならず、スキエントの吐いた混沌に吸い込まれる。
 禁断の山がこの世ならざるものに飲み込まれて行った。そしてはじめて知る。光は友であったと。仲間の狩人であったと。王の手から漏れた人々の救い手。民とともに果てた。轟音を立てて、山が、聖地が崩れていく。
 それはアルハイド王国の崩れ去る音にも聞こえ。
「させ、るか――」
 アクィリフェルは立ち上がる。じりじりと互いの間合いを計っている王とスキエント。スキエントだけが、面白そうな顔を作って彼を見た。
「させるか――!」
 アクィリフェルの手が弓を離す。遠くに放り投げ、二度と再び顧みない。それは狩人、禁断の山の狩人たる自分への決別だった。
 いまもまだ見えている、聞こえている。山がなくなっていく。混沌に侵略されている。両親の命の音はもう聞こえない。仲間の鼓動も少なくなった。
 だからこそ、ここに立つ。救いきれなかったすべての命を背負ってアクィリフェルはここに立つ。
「貴様などに何ができるものか。おぉ、そうかそうか、父が死んだか、母が死んだか。それはそれは残念なことだったな、狩人。愚かで無様でどうでもいい命とはいえ、貴様にとっては大事なものだったのだろう?」
 嘲笑に、アクィリフェルは答えない。代ってアウデンティースが剣を閃かせた。スキエントが飛び退る。
「届くものか。わしは人ではない。人ではないのだよ!」
 黒き御使いの剣ですら、スキエントには掠り傷すら与えられなかった。確かに深く切り裂いたというのに。
「アケル」
「わかってますよ」
 短く言い合い、アクィリフェルはリュートを構える。するりと足を組み、まるで吟遊詩人のように、それも王の御前に召されたかのよう優雅に座る。
 そして弦を弾いた。
「なにをするつも――」
 スキエントは最後まで言うことができなかった。突如として血を吐く。否、混沌を吐く。それは最前までの意図的なものではなく、吐き出させられてはのた打ち回る。
「聞くがいい」
 アクィリフェルは言わない。しかし弦は語る。世界は苦痛をアクィリフェルの声を借り語り尽くす。侵される痛みを。失われた命を。そして求める。
「なにを?」
 アクィリフェルの甘やかとすら言い得る声。まるで猛毒の蜂蜜。
「命の声を聞くがいい」
「そして我が身で感じるがいい」
「一つ一つの命の、消されていく様を。汚された大地の痛みを」
 ひとつの命ですら、人間には重い。その殺される苦痛を我が身で感じるなど、狂気の沙汰。否、狂気そのもの。
 だがスキエントは聞こえない怒号を上げ、混沌を口から吐き、目から鼻から耳から、体中の穴と言う穴から混沌を吐き出し垂れ流し。それでもまだ生きていた。抱えたティリアすら混沌に塗れていくその様にアウデンティースの舌打ち。それを嘲笑うのか喉に刺さったままの矢が不吉な飾りのよう震えていた。
「貴様貴様貴様――! よくも、よくも――。わしが何者か、知りもせず知ろうともせず! 高貴にして唯一、英雄にしてこの世の全ての支配者! そのわしに、よくも――!」
「お前が何者かなど知ったことか。私が知っているのは、お前は何者でもないということだ」
 アウデンティースは無駄を知りつつスキエントに切りつける。せめて娘を拘束する腕なりとも緩まないかと。今度は、痛みを与えられたのだろうか。傷はつき、そして瞬時に消えていく。
 舌打ちをし、目をすがめスキエントを見据える。アクィリフェルの歌はまだ続いている。アウデンティースにはわかっていた。混沌の化身となったスキエントから御使いの剣で討つべき混沌の核を作ろうと、涼しい顔のまま苦闘しているのが、わかっていた。
 アクィリフェルの苦痛などと表すことのできない痛みをいま、アウデンティースもまた感じていた。心の糸が、アクィリフェルによって奏でられているかのように。
「重大な、あるいはささやかな者。いずれにせよ、誰かにとってかけがえのない何者かに、お前はなれたはずだ。なれないのは予言のせいではない」
 アウデンティースの剣はスキエントの胴を狙った。ティリアがいる。けれど自分の腕ならば、決して娘に掠らせることなく。
「なれないのは、お前が道を見失ったせいだ! 己の分を知るがいい!」
 舌打ちをしつつ、剣の軌道を変える。スキエントは笑ってティリアを前に突き出した。剣の切っ先に。娘の唇がかすかに動く、お父様、と。




モドル   ススム   トップへ