両足が大地を踏む。途端に体が傾いだ。聞くまでもない。悲鳴のように聞こえ、それより鋭い世界の叫び。
「キノ、ピーノ! 戻って!」
 大地のはずだった。けれどここは王宮。残骸に塗れた廊下に立っているのに、アクィリフェルは世界を感じる。
「待ってられないのなの、ここ、とってもすごいの。床も壁もぐらぐらなの。立ってられないのなの」
「お客様、お客様。ちゃんと戻ってらしてね。うふふ。待ってるの。だから」
「あぁ、帰るよ。また君たちに会いに行く。だから、いまは下がって!」
 背に負ったリュートを外す。歌うだけでは足りない。声を、歌を増幅させるもの。リュート。アクィリフェルは声を限りに叫ぶ。
 それはすでに歌ではなかった。世界の悲鳴のままに声を上げただけ。ぴりぴりと空気が震えた。震えの中、見えるもの。
「あった!」
 一筋の光、否、道。駆け出す背中をまだサティーたちが見つめているのを感じた。すぐに消えてなくなる。
 きっと彼らは無事だ。その思いが胸に湧き上がり、声が変化する。
「ラウルス」
 光の道が広くなる。彼に繋がる道がはっきりとする。
 いまや王宮は、荒れ果てていた。まるで半日も経たないうちに数世紀が過ぎ去ったかのように。裂けて襤褸屑のようになった壁掛け。割れて走りにくい、滑らかだった廊下。
「声を、聞かせて」
 いまどこにいるのか。この道があなたの元に続いているのはわかっている。それでも。できることならば一瞬のうちに空を駆けてでも辿り着きたい。
「僕の気持ち、わかってるんですか、あなたは!」
 思わずもれた愚痴めいた言葉に道が鋭く輝くのにアクィリフェルは笑みをこぼす。ただひたすらに走った。
 倒れている人がいた。男も女も、高貴な者も召使も。知り人の姿がそこにありませんように、と祈る自分の傲慢さすらアクィリフェルは歌に変える。
 不意に、目の前が暗くなった。瞬きの間だけ、昏倒したかのよう。ついで王宮が激しい揺れに見舞われた。
「ラウルス――!」
 混沌が、すぐそこにある気配。侵略がはじまって、いったいどれほどになるのだろうか。ラウルスは、無事でいるのか。
 不安が足をもつれさせることはなかった。よりいっそう、足が速まる。広場ではなく、王宮に出現させてくれたサティーと女王に感謝する。
 天井が、落ちてきた。咄嗟によけるも、強かに肩を打つ。それでも痛みは感じなかった。焦燥が、それを超える。
 壁が、崩れてきた。リュートを抱えたまま、身をひるがえし駆け抜ける。床が抜けても、燭台が倒れてきても。
 アクィリフェルには聞こえていた。世界が彼を守ろうとしているのが聞こえていた。まるで耳許で囁かれているかのよう、寸前の危険だけは、感じられた。絶命の危機に身悶えしながら必死でアクィリフェルを守ろうとする世界の声が聞こえていた。
 廊下にできた裂け目を飛び越える。割れ目に、誰かの亡骸が滑り落ちて行った。弔うこともできない痛ましさにアクィリフェルの注意が一瞬それる。
 その瞬間だった。声が聞こえた。待ち望んだ彼の声が聞こえた。
「声が小さい!」
 文句は不安の裏返し。アクィリフェルは飛ぶように駆ける。まだ側にキノがいるかのように。たった一人で、キノがいたときのように。
「ラウルス!」
 光の道が導いた先。気付いてみれば当たり前のことだった。王宮の中心、玉座の間。
「くるな!」
 アウデンティースの背中が見えた。剣を構えてはいる。けれどあの剣ではない。それをアクィリフェルの耳は聞く。
「僕がいなくてどうするつもりですか」
 もう、走らなくともよかった。ゆっくりと、息を整えるふりをして歩み寄る。その必要はなかったというのに。アクィリフェルの呼吸は微塵も乱れていなかった。
「結局のところ、やっぱりあなただったわけですね。いつからですか」
 アウデンティースの前に佇む人影。言うまでもない、スキエント。これがあの賢者の長だろうか。かつても人好きがする顔立ちではなかったが、いまははっきりと他者を見下していた。
「貴様のような狩人風情になにがわかる?」
 声音に、ようやくスキエントの心が聞こえた。アクィリフェルはうなずきつつ、アウデンティースの隣に立つ。
「色々とわかりますよ。いままであなたの声が聞こえなかった理由も。今となっては遅いですけどね」
「そのとおり。貴様らはここで死ぬのだからな」
 顎を上げ、嘲弄する賢者の長。アウデンティースは剣を構えたまま彼を睨み据えていた。
「もう少し早くわかっていたら誰も死なせずにすみました」
「お前のせいじゃない」
「わかってますよ、それは。それでも。ラウルス、最低限の仕事はしましょう」
「了解」
 隣に立つ男の笑みが見えた気がした。スキエントが鼻で笑う。両手を広げ、高らかに声を張り上げる。
「なぜだ。なぜわからん。これは侵略などではないということが、なぜわからん。愚者め」
 両手の間にあるものは、なんだろうか。アウデンティースには見えなかった。アクィリフェルには聞こえた。
「混沌と貴様らが呼んでいるものは、力だ。純粋な力だ。これを得れば、そう――なんでもできるだろう」
「ほう、参考までに聞かせてもらいたいものだな」
 アウデンティースの声に、アクィリフェルは小さくうなずく。それは同意に見えただろう。確かに同意ではあった。が、言葉へのそれではない。
 アウデンティースの声は言っていた、御使いの剣を探せと。いまは見当たらないけれど、スキエントの周囲のどこかにあるのは間違いがない。
 彼が言うのならば、それが真実だった。世界の声をアクィリフェルが聞くように、剣と彼もまた繋がっているのかもしれない。
「参考? 馬鹿馬鹿しい。貴様はここで死ぬというのにか」
「死出の旅の徒然を慰める土産話と言うのも悪くはあるまい?」
 構えた剣に、焦りを感じる。握り締めた柄が汗で滑りそうな予感。それでもアウデンティースは構えを解けなかった。
「愚かな国王にしては面白いことを言う。よい、聞かせてやろう。我が手に力があれば、こんなことができる」
 スキエントは滔々と語った。アウデンティースにしてみれば馬鹿らしいのはこちらのほう。とはいえ喋ってくれるのはありがたかった。アクィリフェルが剣を探す一助になる。
「そう、国王も要らんな。わしがすべてを一手に握る」
「私も握ってはいるがな」
「そんなものとは違う! まったく違う! 愚かな、まったく愚かな。わしの手に力があれば。誰が戦いの最前線に赴くものか。民にやらせればいいのだ。わしは誰より貴重で、誰より尊いのだ」
「生憎、自らの手で民を守るのがアルハイド国王と言うものでな」
「それが愚かだと言っている」
「お前にそう思えようとも、これがアルハイド王国の事実だ」
「だったらわしはそれを変える! わし一人が尊い! わしのみが権力を取る! わしの言葉に従い、わしのためにのみ民は生きる!」
「ならば私はそれを止めるまで」
「できるのかな、愚かな国王よ」
 嘲笑に、違和感を覚えた。咄嗟にアクィリフェルはアウデンティースの体を肩先で押した。体勢を整えそこなった王がわずかに足をもつれさせる。つられるようにアクィリフェルも膝をつく。
 結果として、それが功を奏した。スキエントの叫びに王宮が、否、世界が震撼した。スキエントが大きく口を開けていた。その口の中は見えなかった。
「混沌――!」
 飲まれたのか飲んだのか、判然としない。しかしその精神は混沌に飲まれている。どろりとスキエントの口の中から混沌が流れ出す。
「気味の悪い!」
 アクィリフェルに押されなければ、アウデンティースは混沌を真正面から浴びていただろう。もしもあれが浴びると表現しうるような液状のものであるのならば、だが。
「そう言う問題じゃないでしょう!」
「わかっちゃいるがな、生理的に受け付けん」
「問題の重篤さ、わかってます?」
「一応な」
 アウデンティースの軽口にアクィリフェルは緊張を緩め、そして締めなおす。スキエントの声に、剣の気配が近いのがわかっている。あとはそれがどこかを知ればいいだけ。
「この期に及んで仲違いかね、それも好都合だが」
「ちょっとした意見の食い違いと言うやつですよ、ご心配なく」
「生意気な……。そもそも貴様のような下賤の輩が、混沌を退けるなど、あってはならんのだ。もしも退けるのならば、わしがするべきだ。いいや、わしでなければならん!」
「結局はそれですか。馬鹿馬鹿しい。誰がやったっていいですよ。できることを、できる人がやればいいんです。あなたはそれを怠ったんだ」
「すべては予言予言予言! わしの手に力は入らなかった! できる者がやればよいだと? やりたいのにわしの手には力が入らなかった!」
「なに馬鹿なことを言ってるんですか。やりたいとできるは違うってことを知らないんですか、賢者のくせに」
「貴様――。だが、わしの言いたいことはすべて言ったわ。貴様の返答なんぞ要らん。再び口を開いてみろ、そのときにはわかるだろうな? 微塵に砕いて殺してくれるわ!」
 スキエントの青白い顔が、どす黒く染まった。怒りの血ではない。混沌だった。
「力のあるものは、このような場所に出てくるものではないのだ。だから――こういうことになるのだよ、愚か者どもめが。右も左も愚者ばかり!」
 混沌を吐き出したスキエントがまたも嘲う。アウデンティースの表情が凍り付いていた。それでも彼より先に進み出たのは、アクィリフェル。
 スキエントはアクィリフェルには目もくれず、いっそう王への嘲笑を深めるのみ。スキエントの両腕の間に闇が凝る。それが晴れたとき彼の腕に抱えられていたもの、否、人。
「その手を離すがいい!」
 彼の声は一陣の薫風。スキエントの混沌すら、瞬きの間は退いた。
 茫然自失としたティリアが抱かれていた。虚ろな目をしたまま、どこでもないどこかを見ている。同時にスキエントの腕には黒き剣。アクィリフェルはリュートを下ろし、弓を手に取った。




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