妖精の女王の表情が険しくなった。女王としても混沌の侵略はありがたいことではないのだ。その混沌が、この妖精の輪の中にあっても影響を及ぼしている。 「アクィリフェル」 わずかに緊迫感の増した声。アクィリフェルは女王の声の中にそれを聞き取る。それが彼の焦燥を煽った。 「人間の民は、わたくしにお任せなさい」 「女王……?」 「あなたはわたくしを信用しなくてはなりません。できますか」 不意に、そこにいるのがただの美しい女ではないと気づいた。はじめから、人間ではない、妖精だと知ってはいる。が、いまこのときやっと実感した。 「……で、きます」 女王を信用できないからではない。ただ、その人間ではない、異種族への恐れにも似たものがアクィリフェルの声を歪ませる。彼は首を振り、咳払いをした。 「できます」 今度は、澄んだ声。自らの思いを恥じたゆえのそれだと、女王にはわかっただろうか。理解されている気がした。 「では、アクィリフェル。お行きなさい。この世界に安全な場所などと言うものがあるのかはわかりませんけれど、民はわたくしが保護いたしましょう。まずはシャルマークの郊外にでもまいりましょうか」 「それは、ありがたいですが、でも、女王……」 「あなたはこのままお戻りなさい。いまならば、まだ間に合います。きっと」 女王の視線が遠くに流れる。アクィリフェルは悟る。聞こえたのかもしれない。女王の眼差しの先に、王宮があると。 「アクィリフェル」 ケルウス王子だった。強い声にアウデンティースを思う。よく似ていて違う声。まるで彼に呼ばれたようで、アクィリフェルは膝が砕けそうになる。それは恐れだった。 「民は、私と弟が守る。お前は――」 「父上を、お守りしてくれ」 「ルプス!」 「兄上だって同じことを言おうと思ってたんじゃないか」 「それはそうだが!」 少しばかり格好をつけたことに王子たちは照れたのだろうか。そのような場合ではないことくらい、わかっているはずだ。あの男の息子なのだから。 だが、だからこそ。このようなときだからこそ、余裕のあるふりをする。それもまた、あの男の息子らしかった。 「……わかりました。お願いします、と僕が言うのもおかしなものですが」 「まったくだ。彼らは父の民。いずれは我が民。守る務めは我らにある」 にっと笑ったケルウスのその笑みにもまた、アウデンティースの面影を見た。胸が騒いで仕方ない。足はすでに走り出そうとしている。それでもまだ、ためらう。 「アクィリフェル。怖気づきましたか」 女王の囁きが、まるで黒き御使いの声。アクィリフェルははっとして女王を見やる。腹が立つより先に、正気に返った。 「お礼を申し上げておきますよ、ティルナノーグの女王」 「いいえ、礼はあなたがたが無事に帰ってから受け取りましょう」 「それはそれで怖いですけどね。どっちですか」 「あちらに。黙って走っていけばよろしい。歩いていってもかまいませんよ、わたくしは」 「僕がかまいます!」 混沌の侵略が完了したとき。それはアルハイドの大地が滅びるとき。ティルナノーグの女王のその声は、とてもこのようなときに出し得るそれではなかった。 「頼んだ!」 王子たちの声に送られて、アクィリフェルは後ろも見ずに走り出す。ここがすでにハイドリンの城下町の広場でないことくらいはわかっている。が、どこかと言われても困る。 女王は走って行けと言った。ならば走るまで。アクィリフェルは全力で駆け出す。アウデンティースと合流した後のことは、考えなかった。 いまここで、力を使い切ってしまってはあとで戦えない。そんなことはわかっていても、遅れることがただひたすらに怖かった。 「お客様、お客様! こっちなの、こっち。早く、早く!」 「キノ!」 ピーノはどこだろう。いまは彼だけがアクィリフェルの先導を任されたのだろう。飛ぶように駆けていた。 「遅れちゃう、遅れちゃうのなの。あっちでピーノが頑張ってるの。お客様、もっと、もっとなの!」 走れ。サティーが言う。愛らしい子供の肌が、汗に濡れて真っ赤になっていた。アクィリフェルは苦笑したくなる。妖精と言っても、変わらないではないかと。少しばかり、人間と違う、ただそれだけだと。 「あぁ、頑張るよ」 ぐっと体に力を入れた。息が上がるのもかまわない。ただ辿り着ければそれでいい。 そう思った。真実そう思った。それなのに、不意に気づく。息が、上がらない。体に疲労がたまらない。 「……なぜ?」 キノは聞こえていないのか、聞こえていても無視をするつもりか、答えない。もしかしたらこれが黒き御使いの呪いの一つのなのかも知れないとアクィリフェルは気づく。 御使いは言った。アウデンティースとアクィリフェルの二人がなすべきことをなすまで、死ぬことはないと。 「だからと言って、全然安心なんかできないですけどね!」 いまもしも、混沌の侵略が完了してしまったならば。アルハイドの大地がなくなったならば。それでも自分たち二人は生きているのだろうか。 考えても仕方のないことを考えない。アクィリフェルはいまのことだけを考える。まずは、アウデンティースに合流すること。 「アクィリフェル!」 遠くからの呼び声。それなのに、声は近くで聞こえた。はっとして足を止めれば、キノが苛立ったように振り返る。それを手で制し、声の主を探す。すぐそこにいた。 「なんと! いま遠くにいたと思ったものが……。いや、そんなことはどうでもいい」 「マルモル殿!」 「シンケルス殿が、怪我を」 出現したとしか思えないマルモルは、その背にシンケルスを負っていた。ぐったりと背負われてはいるものの、命はあるようだ。 「シンケルス様、わかりますか」 「あぁ、わかる。すまない、不覚を取った。スキエント殿だ……スキエント殿が……陛下に、なんとしても……」 「わかっています。大丈夫です、僕が、僕と陛下が、必ずなんとかしますから。マルモル殿、あとは頼みます」 「任せろ。王宮を出たのは、たぶん我々が最後だ。探花荘までの道が歪んでいてな」 マルモルが思い出したくないよう、唇を引きつらせる。その声だけで、アクィリフェルにはだいたいのところがわかった。 「混沌ですね」 「たぶんな。私には、何かがあった、そしてなかったとしか言いようがない」 「ありがとう。あなたの見たものが僕にはもう感じられます。マルモル殿」 「あぁ、早く行け。――アクィリフェル」 「なんですか」 「陛下を、頼む」 「任せてください。ちゃんと無事に戻りますから」 うなずきあって、あとはもう見なかった。キノに振り返れば、こちらは苛々と足を踏み変えている。 「ごめん。行こう」 「遅いの、遅いのなの。もう、ピーノが大変、大変なの。わかってる、お客様?」 「ごめん、全然わからない」 「もう、いいの! 行くのなの!」 ぷい、と機嫌を損ねてキノは走り出す。すぐさまアクィリフェルもその後に従った。 よくよく注意をしてみれば、薄い影が見える。あれがおそらくは、妖精の輪の中に入った人間の民だろう。妖精たちは遥かにはっきりと見えていた。 城下町で出会った人が見えた気がした。騎士の一人が、走っているのに目が留まった気がした。ケインかもしれない。振り返り振り返り走っている影。あれはカーソンかもしれない。あれはもしかしたら、メレザンドかもしれないと思うこともあった。 その誰一人として、アクィリフェルが見えてはいないらしい。あるいは、キノの仕業かもしれなかった。もう彼が足を止めたりしないように。 「それはそれで嬉しいような嬉しくないような。気にかかるけど、仕方ないしね、いまは」 「なにか言ったのなの?」 「気のせいだよ、キノ」 「本当なの? もっと走るの? 急ぐの?」 「急ぐけど、もっと速くは――」 「できるのなの! 急ぐのなのね、お客様?」 振り返り様にキノが笑った。アクィリフェルはつられて意味がわからないままに笑みを浮かべ、そして息が止まる。 「キノ!」 足の下で大地が動いていた。と、しか思えない。飛ぶように駆ける、と言うが正にその言葉はこの動きのためにこそある。 「速いの、速いの! でも疲れるからもっと頑張ってなの、お客様」 「頑張るって、どうやって!」 「走ってなの。言ってるの、さっきから。走って、走って、もっと走って!」 きゃいきゃいと、可愛らしい声を上げながら、はじめてアクィリフェルは彼の響きに切迫感を聞く。馬鹿らしいと思うより先に、その場で走っていた。 「な――!」 まるで空気を蹴るようだった。それなのに、更に速さが増した。なにが起こっているのか、わからない。 「ありがたい!」 いま思いはひとつ。これでアウデンティースの元に駆けつけられる。今にもスキエントと、混沌に飲まれた男と対峙しているかもしれない彼の元に。 「キノ、遅いー。疲れちゃう、早く早く。でも、うふふ。頑張ったの」 遠くにあって、近く。一瞬の間のうちにそこにピーノがいた。いったいどれだけの距離を稼いだのか。そもそも距離に意味があるのか。 「お客様、あっちは大変よ? ほんとに行くの?」 ピーノがくるりと回る。その足元に仄かに輝く妖精の輪。ここは妖精郷の内なのか、それともまだ妖精の輪の中なのか。いずれにしてもありえない現象を見ているのかもしれないとアクィリフェルは思う。女王の厚意に心の内で頭を下げた。 「行くよ。そのために、僕は生まれたんだから」 輪の向こうを覗き込んで身震いをしたピーノ。一緒になって覗いて震え上がったキノ。両手でそれぞれの頭を撫で、アクィリフェルは輪の向こうへと、人間世界へと足を踏み出した。 |