瞬く間に広場は混乱した。当然だ。城下に住む、何百何千と言う人々が集まるのだ。一部はすでに街の門から外へと誘導されているだろう。それでも凄まじい騒ぎだった。 それだけではない。彼らにも、もう感じ取ることができるだろう。アクィリフェルは空を見上げる。そこに「ある」混沌を見る。 何も見えない。何も臭わない。アクィリフェルにだけ、聞こえる。混沌のそれではなく、世界の悲鳴が。 はじめの絶叫。あれは眼前に剣を突きつけられた恐怖のそれに似ている。いまの悲鳴は遠い。まるで、断末魔。 「まずいな」 呟きが、ケルウスの耳に届く。父の恋人らしい狩人と二人きりで話すのはこれがはじめてだった。 「アクィリフェル、なにがだ?」 なにをどう言っていいものか、戸惑いはある。父の正式な恋人であるのならば、ある程度は敬意を持って接するべきなのだが、こちらは王子で、あちらは一介の狩人。世慣れない王子にはいささか荷が重い問題だった。 「混沌です。感じられませんか?」 不思議と国王に対してより柔和な声だった。だからよけいにケルウスが戸惑っているのだが、アクィリフェルは頓着しない。それどころではない、と言ったほうが正しい。 「なにか、おかしな感じは、するが……」 「兄上!」 戻ってきたルプスが息を荒らげている。それをねぎらい、アクィリフェルは同じ問いをした。 「感じます」 ケルウスの弟は兄よりはっきりそう言った。自らの体を両腕で抱きしめ、首をすくめる。 「背筋が、ぞわぞわしますよ。なんだか、怖いというのとは違う、気持ちがいいような、恐ろしいような。巧く言えない」 アクィリフェルは、それこそが正しい感想だと思っていた。恐ろしいから、逃げる。恐ろしいから惹きつけられる。それが、混沌に対する人間の思いではないだろうか。 「ルプス王子、役人はなんと言っていましたか」 できるだけ早急に、避難を終えてしまいたい。もう振り返ることのない王宮に、アウデンティースがいる。いまも一人で戦っている。 「できるだけ、努めるとは言っていましたが――」 ルプスが声を途切れさせるのと、アクィリフェルが空を仰いだのが同時だった。愕然とケルウスは声を失くす。 見る見る間に曇っていく、否、光を失くし暗くなっていく空。翳るのではない。闇がそこにある。 「あれは……! アクィリフェル!」 ルプスの声に、アクィリフェルは答えない。ぎゅっと拳を握り締めた。息を整える。二人の王子に視線が戻ったとき、そこには決然とした色があった。 「非常事態です。任せてもらえますか」 硬い声。ケルウスは震えかねない唇を見た。黙ってうなずく。ルプスは民をなだめに走っていた。いい子供を持ったアウデンティースに思いを馳せる。それからアクィリフェルは声を紡いだ。 「ティルナノーグの番人、シルヴァヌス。聞こえていたら取り次いでおくれ」 まるで歌だった。否、間違いなく歌だった。この場にそぐわない、明るい音。気づけばあっという間に広場の民は静まっている。 ケルウスは驚く。聞き入っているのかと思った民は、みなが茫洋とした目を見開いたまま、どこでもない場所を見つめている。 「アクィリフェル、民が……!」 「やっているのは僕です。気にしないでください。混乱を起こされたら、収めきれない」 爪がリュートの弦を弾いていた。それなのに、歌に聞こえた。アクィリフェルはいま喋っているのだから、歌っているはずはない。それなのに、歌が聞こえる。 「ティルナノーグの女王。僕の声が届きますか。麗しの女王、東雲色の衣装をまとったお方」 戯れのような、からかいのような、とても本心とは思えない賛辞。ケルウスは無言でアクィリフェルを見やっていた。いつの間に戻ったのか、ルプスが気味悪そうに側につく。 「聞こえているの、聞こえているのなの。ね、赤毛の狩人のお客様?」 二人の王子は期せずして同時に飛び上がっていた。突如として聞こえた声。愛らしい幼子のようで、似ても似つかぬ。 「キノ! よかった……聞こえたんだ」 「聞こえたの、うふふ。ちゃんと聞こえたの!」 「ピーノ!」 また王子たちが飛び上がる。今度は反対から声がした。思わず兄弟手を取り合ってお互いの存在を確かめ合う。 「アクィリフェル……」 「彼らはサティー族のキノとピーノ」 言われてはじめて足元にまとわりついているものが目に入った。幼い子供の愛らしさと、獣の下半身を持った生き物。 「妖精族か……!」 声を上げたケルウスに、サティーは少しだけ唇を尖らせた。大きな声は嫌いなのかもしれない。 「二人とも。是非、女王様に――」 「聞いてるのなの。お言いつけを賜ってきたのなの」 「うふふ。ちゃんとするの。できるもん。お客様、通りたいの?」 「あぁ、通りたい。頼む」 莞爾としたアクィリフェルに王子たちは言葉もない。なにが起こっているのか見当もつかない。震えないでいるのが精一杯だった。 「これから――」 アクィリフェルが彼らの頭を撫でながら言う。小さなサティーたちはきゃっきゃと喜んでいた。 「妖精郷を通らせてもらいます」 「なに!」 「早いですから。一刻も早く避難しなければ、危ないのはわかっていますよね」 「わかっているが……」 「殿下方」 突然、低くなったアクィリフェルの声。二人とも、いまのいままで気づかなかった。アクィリフェルが激情を必死の努力で抑え込んでいることに。 「僕は、少しでも早く、陛下の元に戻りたいんです。民が無事ならば、自分が倒れてもそれでいい。そう言いかねない方です」 「そんな! いや、父上ならば言うが、だが!」 「だから! 怖がらないで受け入れてください! 僕を彼の元に帰らせてください!」 ケルウスに向かって声を荒らげたのは、はじめてだった。飲まれたよう、王子たちがうなずく。それからもう一度、今度ははっきりと理解した上でうなずいてくれた。 「なにをすればいい?」 ありがたくて涙が出そうだった。けれど、いまはその暇がない。アクィリフェルはサティーを見つめる。 「妖精の輪を、描けるよね?」 「できるのなの、できるの!」 「ピーノも! ちゃんとできるの!」 「ありがとう。どっちが大きな輪を描けるかな? できればいっぺんにこの人たちを連れて行っちゃいたいんだけど。女王様はお許しくださる?」 「うん、平気なの。ちゃんと言われてきたのなの。だからね、キノはピーノと一緒にするの」 「うふふ。ちょっと待っててほしいの。ちょっとだけね。キノ、行っちゃうから」 「ずるいのなの、ピーノ!」 二人とも、あっという間に駆けていってしまった。さすがのアクィリフェルも呆気に取られる。二人と言葉を交わしたことで少しだけ気が楽になった。黙って待っていてくれる王子たちもありがたい。 その間に、アクィリフェルは別の歌を奏で歌う。がらりと変わった脅迫的な音。ルプスが体をすくませた。 壁にもたれて、アクィリフェルは歌う。混沌に向けて、自分はここにいるぞと。今ここに、無事に立っている。混沌を倒すことのできる自分はここにいる。剣を持つものが、ここにいないとなぜ言える。 アクィリフェルの歌を言葉に直せばそのような内容でもあっただろうか。けれど彼の歌に歌詞はない。淡々と、音だけが続いていく。 「できたのなの、お客様!」 サティーが駆け戻り、アクィリフェルは目を開ける。そしてはじめて事実を知った。 サティーは、広場を、否、民が集まっているその外周すべてを妖精の輪としていた。事実上、ここはすでに妖精郷。 「二人とも、すごいね。ありがとう……」 こんなことができるとは思ってもみなかった。できたとしても協力してもらえるとは思わなかった。アクィリフェルの声にサティーは嬉しそうに笑うのみ。答えは別のところからきた。 「わたくしには言ってもらえないのですか」 どこか面白がるような声をしていた。振り返るまでもない。振り返れば、きっとそこにはいないで真正面にいるに決まっている。だからアクィリフェルは待つ。案の定、王子たちに悲鳴を上げさせてから、人影はにこりと笑った。 「感謝申し上げます、ティルナノーグの女王」 恭しくアクィリフェルが頭を下げた相手こそ、妖精の女王。はじめて目にしたのだろうか、王子たちは驚きに目を丸くしていた。 「礼は要りませんよ」 先ほどとはまるで逆のことを言って王子たちを戸惑わせる。アクィリフェルはかまわず先を続けた。 「できればこのまま通していただきたい」 「そのつもりですよ、世界の歌い手。ですから入れました」 「ありがたく存じます、それから――」 「人間の民をどこに送ればいいのかしら。送った後、あなたは連れ戻せばよろしいのね?」 「……はい」 「わたくしに隠し事をしても無駄ですよ」 にこりと笑う。いつの間にか辺りは妖精でいっぱいだった。まるで祭りのようだ。わいわいと騒ぐ妖精に囲まれて、正常な意識を失った人間たちは立ち尽くす。 「ルプス王子。彼らを先導してください。このままここに立ちっぱなしになっていても仕方ないです」 「それは、かまわないけれど、どこに?」 「……女王」 「どこがいいかしら?」 ふ、と女王は視線を空に投げかける。気づけばそこはいつの間にかハイドリン城下の広場ではなくなっていたことに、はじめて王子たちは気づいた。そして空の色も。見慣れた空ではない。それなのに、当たり前に青い。 「もう、混沌の侵略がはじまっていますね。ハイドリンが落ちるのも、時間の問題でしょう。――あなたが戻らなければ」 ぞくりとした王子たちとは打って変わってアクィリフェルは静かだった。 「だからこそ、僕は戻るんです。少しでも早く。一歩でも近くに」 アクィリフェルの声にだろうか、心にだろうか。反応して景色がぐらりと揺らいで戻った。 |