だがアウデンティースは自らの怒りを表に出すような人間ではなかった。彼は王だった。いまここで、いもしないスキエントに怒りを見せてなんとする。意味がない。ゆっくりと、鷹揚な笑みすら浮かべてカーソンを見る。
 カーソンには、それで充分だった。長く仕えたこの王が、これほど怒りをこらえているところを見たためしなどない。
「カーソン。予想だが、メディナには行けなくなる」
 そのカーソンにして、アウデンティースの言葉は意外だったと見える。驚いて声を高めた。
「陛下、何を仰せになりますか」
「戦場が移った、と言うことさ」
 皮肉に言ってアウデンティースは唇を歪めた。アクィリフェルは彼の声から事情を悟る。自分の心のよう、手に取るようよくわかった。
「姫様をお呼びになりましたね。もう?」
「あぁ、三人とももう来るだろう」
「陛下!」
 焦れたのはカーソンか、マルモルか。どちらもが焦った顔をしていた。アクィリフェルはそれを横目にまだきれいな埃よけの布を手に取る。軽く瞑目し、ファロウの遺体にかけた。
「すまんな」
 それがティリアのためだとアウデンティースは気づく。それほどか弱い娘ではないが、そうしてくれた心遣いに礼を言えば、カーソンにも頭を下げられた。
 丁度そのときだった。ティリアを先頭に三人の子供たちが入ってきたのは。何事もない顔を取り繕ってはいたけれど、さすがに表情が硬い。
「スキエントだ。スキエントが、混沌に、取り込まれた」
 そちらにうなずき、アウデンティースは端的に語る。アクィリフェルもまたそれを疑っていなかった。ぎょっとした一同が、互いに顔を見合わせる。
「だからな、カーソン。おそらくメディナに混沌を引き寄せている時間はなくなった」
「……避けたかったんですけどね」
「決戦は、ここだな」
「えぇ、このハイドリンで」
 アウデンティースとアクィリフェル。二人ともがこの王宮のある地こそが、アルハイド王国の首都こそが、混沌に襲われ、呼び寄せ、戦いの場になると言う。聞くものみな慄然とし、言葉がなかった。
「ティリア。お前には王宮内の避難誘導を命ずる」
 一言で言うようなことではない。数少ない王族、それよりずっと多い、王城に部屋や屋敷を賜った貴族。遥かに遥かに数の多い女官、侍従、召使から下働きまで。いったいどれほどの人数がいるものか。
「承りました」
 驚くマルモルをよそに、ティリアはにこりと笑う。ごく当たり前のことを命ぜられたのだと言わんばかりに。
「メレザンドを手足にしてもよろしいかしら」
「いや、メレザンドには官僚の避難を手伝わせる」
「えぇ、そうですわね……わたくしでは、そちらはわからない」
 口許に軽く手を当て、ティリアは思案顔だった。それでもできるとの確信が彼女にはあるのだろう。不安はなかった。
「ケルウス、ルプス」
「は――!」
「城下の民の避難誘導をせよ」
「ご命令どおりに。ですが、父上……?」
「とりあえずは」
 言葉を切り、アウデンティースはちらりとアクィリフェルを見やった。それから決心したのだろう、一人でうなずく。
「アクィリフェル」
「なんですか」
「すまんが息子たちを手伝ってくれ」
「はい!? なに言ってるんですか! 僕なしで、どうするつもりなんですか! 寝言は寝ながら言ってください!」
「まぁ、アクィリフェル。できればもう少し言葉を慎んでいただきたいわ」
「申し訳ありません、姫様。ですが、こんな馬鹿なことを聞いたのは久しぶりで」
 でもないか、と内心で呟いたのがアウデンティースには感じ取れたのだろう。どこでもない場所を見つめている。
「それで。どういうご存念かお聞かせ願えるんでしょうね」
「――説明する前に食って掛かる癖はなんとかしろ。手間がかかって仕方ない」
「だったら先に説明してから命じてください!」
「それで素直に言うことを聞くとも思えんがな」
 皮肉に言った王に、アクィリフェルは返す言葉がなかった。思わず小さく仰け反ったアクィリフェルに、アウデンティースは優しい顔を見せる。
「アクィリフェル」
「はい」
「私は国王だ、知っているな?」
「えぇ、存じています」
「なにが一番大切か、わかっているな? 私が守りたいものが何か、お前は知っているな?」
「……遺憾ながら」
「だから、お前が守ってくれ。感じているだろう?」
 そのとき見せたアクィリフェルの表情は、正に言われたくないことを聞いたときのものだった。舌打ちだけはこらえたが、唾でも吐きかねない。
「確かに、混沌が近い。それは感じます」
「早急に避難させないと、民が危険だ。わかってくれ」
 アクィリフェルは答えられなかった。アクィリフェルは、いまこのときに離れてはいけないと思う。世界を歌う予言された導き手は、黒き御使いの剣の使い手と離れるべきではないと思う。だが、アケルは。
「……わかりました」
 アウデンティースがほっと息をついた。それからごく当たり前の日常ででもあるかのよう、にこりと笑った。
「王子方、参りましょう」
 くるりと振り返り、アクィリフェルは部屋を出て行こうとする。決別にも見え、マルモルが背筋を冷やす。が、その懸念の視線すらアクィリフェルには向けさせないといわんばかり王の声が叩きつけられた。
「マルモル、お前は騎士団を率いて民の誘導を手伝え」
「は――!」
「カーソン」
 卿には卿にと、細々したことを命ずるアウデンティースの声を背中に聞く。アクィリフェルは振り返らずに声を上げた。
「僕には、あなたの声が聞こえます。呼んでください。駆けつけます」
「あぁ、頼りにしている。頼んだ」
 それを背に、アクィリフェルは部屋から出て行った。出た途端、走り出す。慌てて二人の王子がついてくる。
「アクィリフェル!」
「なんですか!」
「急ぐのは、わかっているが……だが」
 王子を二人も従えて走るというのは中々に贅沢なことだ、まるで彼らの上に立ったかのようだと皮肉に思いたくなる。その思いがどこから来ているのか、アクィリフェルにはわかっていた。
「……混沌が、近いんです」
「なに!?」
「どうぞお声を低めて」
 隣に走り出してきたルプスに言えば、ケルウスがもっともだ、と走りながら弟にうなずいて見せる。いままで親しく付き合う機会はないも同然だったがティリア共々いい兄弟だ、と不意に温かい気持ちになった。
「陛下も、それを危惧していらした。混沌が、なんと言ったらいいんでしょうね、この世で力を振るうための体を欲していたのかもしれません」
「それが、スキエント?」
 小さな声でルプスが聞く。その声の微笑ましさに、アウデンティースを思う。
「たぶん。そうなんだと思います」
「それで?」
「ルプス王子。殿下がもし動けなかったとします。ある日突然に動けるようになったとしたら、どうしますか?」
 混沌を具現化して考えるのは、危険だとアクィリフェルは感じてはいる。けれど間違ってもいないとも思う。
「きっと、外に走り出して、たくさん――」
 はっとルプスが口をつぐんだ。ケルウスが険しい顔をしていた。アクィリフェルは二人にうなずいてみせる。
「これから、間違いなく混沌の侵略が加速します」
「だからなんだな」
「え?」
「父上が、民の避難を第一に考えられたのは」
「えぇ。ここは――」
 三人は、広大な王宮を駆け抜けていく。本来ならばアクィリフェルが目にすることはおろか耳にすることもなかったはずの王族専用の通路も通った。それどころか、どう見ても緊急用の脱出路と思しきところも通った。
 城下すら走り抜け、目指すは広場。アクィリフェルは一度だけ振り返る。この世にこんな大きな宮殿があるとは思ってもみなかった場所。アウデンティースと出会い、諍いをし、また戻ってきた場所。
「戦場になりますから」
 その声に、王子たちがわずかに目を見開く。彼の声はまるで故郷の喪失を嘆くかのよう。アクィリフェルはここで生まれたのではない、遠い遠い禁断の山。それなのに。なぜ。
「……僕にとっては、ここはもう守りたい大事な場所なんですよ」
 王子たちが息を飲む音すら、アクィリフェルには音楽だった。いまだからかもしれない。混沌が近いからかもしれない。彼らの思いが手に取るよう感じられた。
「だから――」
 アクィリフェルの言葉は続けられなかった。ちょうど、広場についた所だった。はっとして立ち止まるアクィリフェルを王子たちは怪訝そうな顔で見ている。
「来た……!」
 空を見上げていた。大地を見ても同じだった。風を聞こうが、水を飲もうが同じだった。アクィリフェルの耳に、届いた世界の悲鳴。
「速すぎる!」
 驚愕の声に王子たちこそがうろたえた。それに正気づき、アクィリフェルはてきぱきと指示をする。できれば王子たちにこそ、して欲しい仕事であったが。
 ルプスが城下町の役人を呼びに走るより先に、当の役人が姿を見せていた。そちらに話を持っていく彼に仕事は任せてしまいたい。
 ルプスがいるではないか。ケルウスだっているではないか。
 アクィリフェルの心に囁きが忍び込む。だからこそ、耐えられた。いまはまだ王宮にいるアウデンティース。
 彼は探している。混沌が宿ったスキエントを探している。聞こえなくても、感じられた。スキエントを焦点とし集りつつある混沌を。彼一人ではスキエントの命ごと絶たざるを得ないというのに。そしてなお、混沌を滅ぼせるとは限らないというのに。
 それなのに、自分がそこにいない。核を作るべき自分はいまここで、アウデンティースの望みとなっている。彼の民の命を守る盾として。




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