ファロウが見つかったのは、王宮の奥まった一室だった。マルモルが無言で佇んでいる。三人もまた、声がなかった。
「ファロウ殿……」
 膝をつきそうになったアクィリフェルの腕を咄嗟に掴めば、振り払われる。
「僕の、せいです」
「違う!」
 今にも泣き出しそうな彼をアウデンティースは慰める術がなかった。
 ファロウは、いまは使われていないその部屋で、事切れていた。何者かと争ったのだろうか、調度の埃よけにかけられていた布が乱雑に床に引き落とされている。
「ファロウ」
 カーソンが、自らの騎士の体の横に膝を落とした。見開いたままだった瞼に触れ、優しく閉じてやる。その背中が小さくなった気がした。
「知っていたのに……ファロウ殿が、影響を受けやすい人だと知っていたのに!」
「だから――!」
「僕のせいです、僕がしっかりしていれば、ファロウ殿は――」
 はっとしてカーソンが振り返るほど、鋭い音がした。そこには頬を押さえて立つアクィリフェル。厳しい顔つきのまま、王は腕を振り抜いていた。
「全部がお前のせいなのか? 春の嵐も、夏の日照りも、大雨も大雪もお前のせいか。混沌はお前が呼んだのか。答えろ、アケル」
「だって!」
「言い訳はいらん! 答えろ、と言っている」
「……僕のせいじゃないです。でも」
「でもも何もあるものか! すべてを負わねばならないものがいるとしたら、これは俺の責任だ。俺は誰だ。言え、アケル」
「――アルハイド国王アウデンティース様でいらっしゃいます。でも」
「アケル!」
「聞いてください! ちゃんと、最後まで! 陛下はアウデンティース様でいらっしゃる。でも、それだけですか。違うでしょ! 陛下はアウデンティース様かもしれない。でも、あなたはラウルスでもある!」
 悄然と、と言うよりなお生気すら失ったかに見えていたアクィリフェルの眼差しが強くなる。きりきりと音がしそうなほど、唇を噛みしめた。
「だから、これは……僕のせいでも、あなたのせいでもない。でも、僕は……ファロウ殿を守りたかった。守れなかった……」
「――狩人」
「カーソン卿」
「その心で充分。ファロウも、報われるだろう。これは騎士。戦いこそ本分」
 しかしカーソンは倒れた騎士に顔を向けたままだった。常に傍らに置くほど信頼していたのだろう。常に伴うほど、慈しんでいたのだろう。
「ファロウ殿。申し訳ない。あなたの戦いは、僕が引き継ぎます」
 今度はアウデンティースも止めなかった。ファロウの傍らに膝をつき、アクィリフェルは冷たくなりはじめた彼の手を取る。不意に表情が変った。
「アクィリフェル。どうした?」
 マルモルの問いにアウデンティースが嫌な顔をした。問いの内容ではない。おそらくは彼を呼び捨てたことに対しての。そんな場合ではないだろう、とアクィリフェルは王を睨みつける。
「ファロウ殿が、何か、握っています」
「ぬ? なんだ、これは」
「カーソン卿、受け取ってさしあげてください」
「私がか?」
 意外そうな顔をしたカーソンに、アクィリフェルは無理に微笑んだ。
「たぶん、ファロウ殿はご主君に証拠の品をお届けするつもりだったのだと思いますから。ですから、受け取ってください」
 一瞬、カーソンが怯んだ。死者の手から物を受け取ることに対してではない。一度きつく拳を握り、硬く握ったファロウの手を開いてやる。それからしっかりと、冷たい手を握った。
「よくやったぞ、ファロウ。疲れただろう。いまは、休め」
 まるで奮戦した騎士を労わるように。まるで遊び疲れた我が子を眠らせるように。一同は無言でカーソンを待っていた。
「陛下」
 カーソンが、恭しく差し出したものに、アウデンティースは手を出しかねている。これはファロウが、その主人のために取ったもの。
「陛下。受け取ってください。あなたはカーソン卿の主君だ」
「手厳しいことを言ってくれる」
 苦い顔をして受け取ったアウデンティースの顔が、瞬時に変化した。息を飲み、信じがたいと言いだけに唇を噛む。
「まさか――」
 声が、こぼれた。
 それだけで、アクィリフェルには充分だった。すべてを理解する。まるでファロウが戦うその場に居合わせたかのように。
「ラウルス! 剣!」
 鋭い声にマルモルですら言葉がない。本来ならば、王をそのように呼ぶものを処罰せねばならないはずが。
 アウデンティースは返事もせずに駆け出した。舌打ちをする。なぜ、御使いの剣をこの身から離してしまったのか。戦いに使うのでなくとも、持っていなくてはならなかった。混沌の集結を恐れるあまり、更に重要な事実を失念していた。混沌に対する唯一の武器であることを。
「狩人……説明してくれるか」
 呆気にとられてはいる。しかし厳しい顔のカーソンだった。アクィリフェルは真摯にうなずき、マルモルもまたその傍らに立つ。アウデンティースがいない今は、自分が守護の任を負うとばかりに。
「ファロウ殿は、混沌の影響を受けやすい人でした」
「それは、聞いた」
「影響を受けやすい人が、なぜ先ほどの民に混じっていなかったんです? 民を制止するほうにまわったんです? おかしいでしょ」
「それは……」
「もう、操られていたのだと、思います」
「だが!」
 信じがたいのだろう。カーソンはその目で見ている。すぐに姿は紛れてしまったけれど、アウデンティースの傍らで民を止めているファロウを見ている。
「ファロウ殿は、あそこに陛下を引きずり出したかった。いえ、ファロウ殿ではなく、操っているほうが、ですね」
「混沌が、か?」
 マルモルの問いにアクィリフェルはわずかに言葉を探した。けれど見つからない。諦めて、そのまま告げるよりなかった。カーソンのために、どれほどそのとおりだと言えればいいことか。眼差しがファロウに注がれる。彼は声なき声で叫んでいた、真実を、と。
「民を操っていたのは、混沌かもしれない。でも、ファロウ殿を操っていたのは、混沌そのものではないはずです。それならば、たぶん、僕が気づいた」
 ファロウは寝室の向こうにいたのだ。部屋を隔てた廊下とはいえ、混沌と戦うことのできる自分がいるのだ。それほど深く影響されたものに、気づかないはずがない、アクィリフェルは思う。思いたいだけかもしれなかった。
「ならば、誰だ」
 鞭のようなカーソンの声。悲痛と憤怒。その何者かのせいで、ファロウが志半ばにして非命に倒れたのだとすれば。
「だが、待て。アクィリフェル。それだと辻褄があわない。ファロウ殿は、証拠の品を入手したのだろう?」
「……今わの際に、正気に返ったのだと思います。自分を操っていたものに、切りかかられたのでしょうね」
 言ってアクィリフェルはファロウの腹の傷を示した。手練の騎士であるファロウがいかに油断していたとしても受けるとは思えない傷だった。
「正気に返ったファロウ殿は、ことのからくりをカーソン卿にお知らせしなければ、と思った。だから、です」
「アクィリフェル、まだ聞いていない。先ほどのあれは、なんだ?」
 ファロウの手から取ったもの。カーソンは何かわからなかったようだ。それなのにアウデンティースは一瞥で顔色を失くした。
「スキエントの衣の切れ端だ」
 アクィリフェルが答える前に、走り戻ったアウデンティースが答えた。表情のみならず、声までも強張っていた。
「スキエント、ですと……!」
「そうだ。ファーサイト賢者団の長、スキエントだ」
「ならば!」
「……陛下。お尋ねします」
 息巻くカーソンの頭を飛び越えての問いだった。不遜で、無礼だ。だがいまにはじまったことでもない。カーソンはそう思ったし、マルモルもそうだった。思わなかったのは、一人。
「問うまでもない」
 苦い声のアウデンティースだけだった。声を聞くだけで、アクィリフェルにはわかってしまう。蝋細工のよう、血の気を失くした。
「だから、スキエントだ」
 混沌は、すでに人間に手を伸ばしていた。王宮深くに入り込める賢者の長と言う人間に。
「剣、ですか」
 ヘルムカヤールは言った。二人以外が御使いの剣を手にすれば混沌の焦点となり飲み込まれかねない、と。だがしかし。
「それしか考えられん」
 問題はもうそこにはない。混沌に取り込まれた人間が御使いの剣を求める。すなわちその意味。
「では……」
 互いの目を覗き込み、誰か嘘だと言ってくれとでも言うよう。しかしこれが事実。わなわなと、アクィリフェルの手が震えた。
「えぇい、狩人! 説明せんか、説明を!」
 焦れたカーソンが叫ぶ。アウデンティースはアクィリフェルを遮って自らがカーソンの前に立とうとする。
「陛下」
「これは、私の責任だ」
 その重い声に、カーソンの頭が冷える。何か、とんでもない何かが起きている。
「剣を、奪われた」
 しん、と静まった。まるでファロウのように静かになった。アウデンティースの言葉の意味が、理解できない、否、したくない。
「スキエントが、剣に興味を持っていたのは、知っていたが……」
「ですが、陛下。スキエントとは――」
 言ってカーソンが自らの舌を縫う。スキエントでないならば、ファロウが今わの際にちぎり取った衣はどうなるのだ。
「話している場合じゃないですね」
 一動作でアクィリフェルは体勢を整え走り出そうとする。その腕を寸でのところでアウデンティースが掴んだ。
「陛下!」
「探花荘にはいない! スキエントは王宮に部屋がある!」
「だったら!」
「待て、と言っている。アクィリフェル」
 王の威そのものの声にアクィリフェルも黙った。その権威に服したのではない。のぼせ上がった頭に、冷水をかけられたようだった。誰より怒り狂っている人が、目の前にいた。




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