ゆっくりと息を吸う。それだけで胸が軋むように痛んだ。さほど声を張り上げていたわけではない。それほど長い時間歌い続けていたわけでもない。
「アケル」
 まだ人目もあるというのに、アウデンティースは彼をそう呼び手を差し伸べた。拒絶するには疲れすぎている。無言で王の手をとった。
「狩人、そなたどうした。顔色が悪いぞ。血の気がないではないか」
 慌てて覗き込んでくるカーソンの視線を避けようもなかった。正直に言えば、息をするのもつらいのだ。
「カーソン」
「は――。申し訳ありません、陛下」
「私はかまわんがな」
 多少苦笑めいたアウデンティースの声。アクィリフェルは繋いだ手に力をこめる。それだけでたぶん、わかってもらえるだろうと。
「アクィリフェルはな――」
 それで話題はいいか、とばかりちらりと覗き込まれた。うなずきもしないアクィリフェルの態度を了承と取り、アウデンティースは続ける。
 ただ、喋っていてもらえればそれでよかった。この世の響きを我が身のうちに取り込んで、自分がここに確固としてあると確かめる必要がアクィリフェルにはあった。
 いまはまだ、足元がふらふらと頼りない。否、自分が自らの足で立っている、息をしている、物を見ている。そんな気がまるでしない。
「戦っていたのさ」
 愛しい人の声に、明かりが見えるような気がした。生身の目にではない。けれど確かに光としか言いようのないもの。
「何と、でございますか?」
「言うまでもない。混沌と」
「なんと!」
 今にもここに混沌が現れると聞かされるのではないか、カーソンの声に不安を聞き取る。けれどアウデンティースは笑ってそれを退けた。
 その間にも騎士たちが倒れた民を丁重に運んでいる。彼らは目覚めたとき、何も覚えてはいないだろう。そうしたのもまた、アクィリフェルだった。
「予言された導き手。世界の歌い手。このアクィリフェルだけが、その声で混沌と戦うことができる。苦労をかけるな」
「馬鹿な――」
「狩人! 大丈夫なのか、息が荒い。大事にするがいい」
 いつもならば滔々とまくし立てるはずの言葉がいまだ出てこないアクィリフェルにカーソンがおろおろと手を伸ばす。だがその手は丁寧に王に拒絶された。
「これは……失礼を」
 思わず泳いだ手を見つめ、カーソンは動揺を隠しきれない。それにアウデンティースがにやりとしていた。
「アケル。アクィリフェル。もう少しか、それとも」
「もう、大丈夫ですよ」
「そうは見えんが」
「見えなくとも、自分の体ですから。それと」
 まだ巧くできない呼吸をアウデンティースから隠そうとする。たぶん、無駄だ。それでも彼は何も見なかった顔をして見逃してくれるだろう。
「陛下に苦労させられているつもりはありません。これは僕の役目でもある、そう何度言ったらおわかりいただけるのですか。それに――」
 一度言葉を切れば、途端にアウデンティースの気配が変わる。アクィリフェルは無言で彼を見つめた。大丈夫だと、平気だと言っても信じるはずがない。事実、少しも平気ではない。けれどどうしても。
「――これは、僕の不覚ですから」
「いや、それは。まぁ、なんだ。疲れてもいたようだしな」
「ちょっと待ってください! なんの話をしてらっしゃるんですか、陛下!」
 不自由な体も呼吸も一瞬で消えた。以前のアクィリフェルならば怒りによって。いまの彼は驚きと羞恥による。かすかに染まった耳許に目を留めたアウデンティースがにやりと笑う。
「ん? それは、その話だが。違ったか?」
「違うに決まっているでしょう! なんて緊張感のない! カーソン卿、よくぞいままで卿はこの方を主君と仰いでいらっしゃいましたね! なにを考えてらっしゃるんですか!?」
「待て、狩人。それはとばっちりと言うものではないのか?」
「違います! 八つ当たりです!」
「……どこが違う?」
「アクィリフェル、いいから待て。私が悪かったから、とにかく何がどう不覚だ。話を続けろ」
 不意にアウデンティースが声を変える。おそらくアクィリフェルにだけ聞き取ることができるほど些細で、誰にでも理解できるほど顕著な。それは国王の声だった。
「以前、お話ししましたことを覚えてらっしゃいますか?」
 どう話したものか、と考え込む様子のアクィリフェルの態度に、アウデンティースは彼が本復から遠いことを悟る。繋いだ手を離し、さりげなく腕をとっては体を支えた。
「僕が、姫様にお願いして――王妃様の肖像を拝見させていただいたこと、ありましたよね」
 言いよどんだのは単に疲労のせいだ。だがカーソンはそうは解釈しなかったのだろう。一瞬痛ましそうに顔色を変えた。
「あの時の僕のことを、覚えてらっしゃいますか?」
「お前らしくもなくひどく思い惑って、逃げようとしていたな。何事からも。殊に、私から」
「まぁ、相応しくはないですからね」
「そんなことはないぞ、狩人!」
 話の筋がまったくわからないものの、カーソンは思わず声を荒らげていた。突然、アクィリフェルが深く息を吸う。
「ありがとうございます、カーソン卿。卿のお声で、僕はこちらに戻ってこられました」
「なんだ?」
 どういうことだと惑った視線が王に向けられる。国王はなぜか非常に厳しい目つきでカーソンを見ないようにしつつ、見ていた。
「妬いてらっしゃるだけです。陛下のお声で戻ってくるのが遅くなったから」
「そんなことは思っておらん!」
「そうですか? ならいいんです。僕の勘違いですから」
 にっこりと国王に言いながら笑ってカーソンを見やれば、呆気にとられた顔をしていた。意味などわかってはいないだろう。ただそれでもカーソンの顔がほころぶ。
「話を戻します。あのとき、僕が言ったこと、覚えてらっしゃいますか?」
「……色々言っていたし、おそらくすべて覚えていると思うが」
「大事なことだけを、どうぞ」
「そう怖い顔をするな」
 苦笑いをしつつアクィリフェルを見つめる。だいぶ顔色はよくなったように見えた。
「混沌か」
「はい。影響を受けやすくなっている、そう言いましたよね」
「お前一人ではなく、この場が、だったな?」
「つまり、これは僕の失態です」
 きゅっと唇を噛んだアクィリフェルを慰めることはできなかった。確かに、混沌を退けることができるのは現時点で彼一人。ならば彼の失態と言うのもあながち間違いではない。
「陛下……ご説明いただけると……」
「あぁ、そうだな。何をどう言ったものか。噛み砕けば、この辺り一帯は、混沌の影響を受けやすくなっているらしい。敏感なものほど、混沌に飲まれやすくなる」
「だから、純な民ほど影響が出るんです。僕は、その対応を怠っていました」
「アクィリフェル。お前の失態は失態だ。が、嘘はつくな。怠ってはいなかった。それは私が知っている。あちらに力負けした、それだけだ」
「負けは負けです。僕の備えが甘かった」
 きつく唇を噛むアクィリフェルに、カーソンはすでにこの戦いに彼が身を投じていたのだと知った。何不自由なく王宮で待機しているだけだとばかり、思っていたものを。
「なるべく早く、メディナの撤退を済ませよう」
 それがアクィリフェルの負担を軽くするだろう。いつまでもずるずると長引いては、消耗するばかりだ。それににこりとうなずきかけ、アクィリフェルの顔が固まった。
「アクィリフェル。どうした」
「……カーソン卿、伺ってもいいですか」
「おう、どうした?」
「ファロウ殿、どうなさいました? いつも、伴っておいでですよね。戦いの場にいないというのも、考えにくい」
 辺りを見回しても、傷ついたファロウがいるわけでもなく、騎士たちに立ち混じって働いているわけでもない。
「おや、そういえば……」
 改めて気づいたのか、カーソンが常にファロウの居場所である自分の背後を振り返る。
「なに――」
 けれど顔色を変えたのは、アウデンティースだった。掴まれていた手を振りほどき、アクィリフェルは真正面から王を見据える。
「陛下!」
「私を呼びにきたのはファロウだった。正しくは侍従だったが、呼びにきたのはファロウで間違いがない、と思う。ここまで案内したのも、ファロウだ」
「いつまでいましたか!」
「覚えがない!」
「探して!」
 今すぐに、絶叫しかねない勢いで言うアクィリフェルに働いていた騎士たちまで振り返る。
「マルモル殿!」
「なにか手伝えることがあるか!」
「カーソン卿の騎士、ファロウ殿を探してください! 今すぐに、なるべく早く! 見つけたら、僕に知らせて!」
 返事もしないでマルモルが騎士に指示しながら飛び出していった。ぱっと散っていく騎士の姿に、アウデンティースはひとつうなずき、それからアクィリフェルを見る。
「話せ」
 厳しい声をしていた。不覚に、不覚を重ねた。考えるだけで手が震えそうになる。
「……ファロウ殿、最初は僕に冷たいあしらいをなさいましたよね。あれは僕の影響だと申し上げたことを、ご記憶ですか」
「覚えている」
「ファロウ殿の芯は、心優しく純粋です。僕が保証します。だから――」
「影響を受けやすい、か」
「真っ白な布のようなものです。何物にも染まりやすい」
「混沌にも」
「……はい」
 ただ操られているだけであってくれ。祈るような願うような思いを抱えたまま、三人もまた駆け出していく。
「カーソン卿」
「なんだ!」
「これは、僕のせいです。どうか――」
「そなたのせいではない、混沌のせいだ!」
 吼えるように叫びつつ走るカーソンに、アウデンティースもまたうなずいていた。けれどしかし、そんなものでアクィリフェルの心は晴れなかった。




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