まだ夜も明けやらぬ朝まだき。こんな時間には不寝番の衛士ですらもが、うとうとと居眠りをする。本当ならば。いつもどおりであるならば。 「陛下、陛下! どうぞお目覚めを――!」 寝室の扉の向こうから悲鳴じみた侍従の声が聞こえた。それより一瞬先にアウデンティースは飛び起きている。 「何事だ!」 突然に体を起こしたアウデンティースの動きに、アクィリフェルも驚いて目覚める。瞬時に異変を悟って聞き耳を立てた。 「乱心でございます、乱心者が――!」 「誰がだ!」 「それが――」 「よい、すぐに行く」 寝台から一動作で飛び降りる。その裾をわずかにアクィリフェルが捉えた。 「ラウルス、僕も」 明かりの絶えた室内にあっても、アクィリフェルの青い目は鮮やかだった。先ほどまで甘い声を上げていた体とは思えない、精悍な表情。だがアウデンティースはにやりと笑う。 「まず服を着ろ」 言い捨てて、そっと手を離させる。やっと自分の有様に思い至ったのだろう、アクィリフェルがはっしとばかりにアウデンティースを睨んだ。 「不覚!」 手早く王を追い払い、アクィリフェルは衣服を身にまとう。彼は身づくろいをしてから眠ったというのに、なんという体たらく。禁断の山の狩人としてはありえない失態だった。 その間アウデンティースは何事もなかった顔をして寝室から向こうの室内に移っていた。そこにはまだ青ざめた侍従がうろうろとしている。 「はっきり言え、誰が、何をした?」 侍従の肩を押さえつければ、よけいに侍従は青くなる。内心で舌打ちをし、アウデンティースは手を離す。 「それが……何者とも知れず……いえ、下働きの類とは、わかっておりますが、その……集団に――虚ろで――」 アウデンティースの表情こそ、侍従よりなお青ざめた。この王宮で、アルハイド王国の中枢で。 「案内せよ!」 「ですが、陛下!」 「そのために呼びにきたのだろうが!」 国王の怒号に侍従はひっと声を上げてへたり込みそうになる。それをさせなかったのもまた王だった。 「ラウルス!」 まだ寝室にいるアクィリフェルの声だった。国王を即位名でなく、それも呼び捨てるなどなんということか、と侍従が職務に立ち返るより先、再び声が飛ぶ。 「混沌!」 「わかっている!」 「すぐに行きます。持ちこたえて!」 「早くこないとお前のぶんは残しておいてやらんからな」 「言いましたね! それと、剣!」 「それもわかっている!」 時折声がくぐもるのは、まだ服を着ている最中だからだろう。仄かにアウデンティースは笑みを閃かせ、すぐさま厳しい顔つきに戻った。 「案内!」 唖然としている侍従を急き立てて、室内から追い出すように案内させた。その手に御使いの剣はない。 アクィリフェルの短い言葉の意味がそれだった。混沌に操られていると見て間違いのない人間相手に黒き御使いの剣を使えばどうなるか。 アクィリフェルにもわからない。そしてアウデンティースにもわかりえない。そもそもただ操られているだけの人間を、彼の民を切って捨てる気など毛頭ない。まして御使いの剣と導き手が揃っては、操られたものを呼び水に混沌の集結がはじまりかねない。この、王宮で。それだけは避けなければならない。 「陛下!」 廊下にはさすがに国王の寝室に踏み込む無礼を遠慮したのか、カーソン配下のファロウがやきもきとしながら待っていた。 「ファロウ、遅くなった」 「とんでもないことにございます、御宸襟を――」 「この際、礼儀は無用だ。どこだ」 侍従が物の役に立たないと知ってアウデンティースはファロウに案内させることに決めた。元々戦うようにはできていない侍従だ、この仕事は酷というもの。 「場所はわかるな。お前は避難を」 侍従に振り返って他の者の避難誘導をせよと言いつければ、ほっとうなずく。それでも引き締まった顔をしたところを見れば、自分のできる役目に安堵と誇りを感じているらしい。 「こちらに!」 さすがに宮中のことだった。カーソン配下の騎士でしかないファロウは完全武装とは行かない。ついて行った先ですでに戦っている近衛騎士も武装と言うには軽装だった。 「殺すな!」 「ご覧あそばしてから仰せなさいませ!」 咄嗟に言い返したのが誰か、確かめるまでもない。マルモルだった。振り返って国王相手に不敵にもにやりと笑ったところを見れば、さすがに混沌との対応に彼は慣れてきているらしい。一度は混沌に囚われた民を間近に見たマルモル隊だ、他に比べれば恐怖の度合いがまだ少ない。 一つうなずいて、アウデンティースもまた乱戦の中に飛び込んでいく。侍従の言うとおり、宮中の下働きの者たちだった。 台所で使われている男、洗濯をする女、庭師の下で働いていると思しき姿のものもいれば、さすがのアウデンティースにも何をしているものか咄嗟に判別がつかないものもいる。 「確かにな」 アクィリフェルの言うとおりだった。間違いなく混沌に操られている。彼らの目には一様に光がない。メディナで見たものたちと同じ目をしていた。混沌が民を操る可能性を指摘したのはアクィリフェルだった。それが実現してしまったいま、アウデンティースは想像以上に衝撃と怒りを覚えている。 アルハイドの民が感情もなくひたひたと、けれど紛れもなく暴れている。騎士たちの剣が一閃し、その腹を打つ。切るのではない。おそらくはそのほうが楽だっただろう。だがアウデンティースの騎士たちは、その主君の意を何よりよく知っていた。 一人がくたりと倒れる。だが、意識を失わなかったものたちは仲間のことなど気づきもせずに向かってきた。 「厄介な!」 アウデンティースは彼らに剣を向けるたび、切ってはいなくとも我が身が切られる気がした。たとえいまは心を失っていたとしても、彼らはアウデンティースの民だった。我が子同然、否、我が身同然、否々、それよりなお重んずるものがアルハイドの民。それを当然と思うものだけが、アルハイドの王座につく。 「陛下、ご助勢に参りましたぞ!」 以前の会議で剣も持てない老人ではなかろう、とからかわれていたのを覚えていたのか。カーソンだった。 「助かるぞ」 「頼りないことを仰せなさいますな!」 「とはいえ、手数が足らん」 互いに剣を振るいながらだった。実際のところ、騎士の戦いというものはこういう場所には向いていない。もっと開けた場所で馬に乗って戦うのが騎士の本分だ。王宮の廊下などと言う狭い場所は最も不得意とするところ。 だがカーソンも、そしてアウデンティースも苦にしたそぶりも見せずに戦った。表情こそ苦く痛ましいものの、剣が鈍ることはない。 「陛下!」 「なんだ!」 「狩人はいかがしました!」 「――服を着てから駆けつける」 わずかに言いよどんだ隙に操られた民が向かってきた。それを打ち倒し、アウデンティースは困ったように首をかしげる。 「……なんと、言葉もないものですな」 「そう言うな」 「狩人がではありませんぞ。この危急の際に御遊興に励みなさるとはさすが我が君、アルハイド王国の稀代の名君――」 「わかったから、よせ!」 戯言を言いつつもカーソンの剣は止まらない。さすがと言うならば彼こそだった。 「遅れました!」 そこにアクィリフェルが駆けつけた。なんとも微妙な表情のカーソンにわずかに目を留め、ちらりとアウデンティースを見やる。 「なにかよけいなことを仰いましたね、陛下?」 「いや、何も」 「へぇ、そうですか」 「いいから狩人! なんとかせい!」 「カーソン卿の仰せのままに」 にっと笑ってアクィリフェルは担いできたリュートを構える。一目で操られているものたちを見て取る。そもそも、ここに駆けつける間に聞こえていた。 「騎士殿!」 マルモルがいるのに気づき、これ幸いとばかり声を放つ。それだけでマルモルに理解できたのは僥倖だった。 「退け!」 配下に怒鳴り、マルモル自身もアクィリフェルの背後へと下がってくる。その背に正気のものすべてを庇い、アクィリフェルは廊下に座り込む。 「頼む」 軽く肩に置かれたアウデンティースの手に首をかしげて頬寄せた。わかっている、との了承だととってくれたのだろう。邪魔になるより先、手が引かれた。 「すぐ、楽にしてあげますから」 民への詫び、あるいは混沌への宣戦布告。誰かが息を吸った。その瞬間、リュートの弦が弾かれた。 「が――!」 操られた民の膝がいっせいに砕ける。それでも混沌の意思のほうが強いのか、這ってでも近づいてこようとする。 そこにさらに響くリュートの音色。引き伸ばされた腕にかまうことなく、アクィリフェルの声が乗る。それは、歌だった。 当たり前の子守唄。もしかしたら恋歌かもしれない。後から思い出し、語り合った騎士たちの間で一人として同じ歌を聞いたものはいなかった。 「これは……」 カーソンが感嘆の声を漏らす。それすらも歌に取り込みアクィリフェルは歌う。音色など疾うにない。声などとっくに消えている。それでも歌がそこにある。 「薔薇園――」 「カーソン?」 「幼きころ、母の薔薇園に迷い込んだ、あの香りが……」 「私にはシャルマークの森の囁きに聞こえる」 二人の声が呼び出したかのよう、薔薇の馥郁たる香りがし、森を吹き抜ける風のさやぎが聞こえた。 「これが」 掠れた、しかし恐れてはいないカーソンの声。アクィリフェルはまたそれも取り込む。その音を信頼と言う。 「世界の歌い手の声だ」 アウデンティースの誇らしげな声。信頼では足りない。愛でもまだ足りない。その声を名づけるならば、我が身の半身と言う。 アクィリフェルが長い息をついたとき、操られた民は一人残らず安らかな寝息を立てて横たわっていた。 |