出陣に、こんなに時間がかかるとは思ってもみなかった。事実、以前メディナに急行したときには取るものとりあえず出陣したはずだ。なぜ今回に限って、それも決戦と決めたこの戦が遅れるのか。会議より五日が過ぎ、十日が過ぎていく。斥候を出すにしても、実際出してはいるのだが、それにしても遅い、とアクィリフェルは思う。 もしもメディナの民のことがないのならば、アクィリフェルとしては急行してしまいたいくらいなのだ。 御使いの剣が今ここにある、その安堵のせいか王宮の諸事が立ち遅れている気がして仕方ない。剣は使わねば意味がないというのに、だ。 「まぁ、そういうわけにもいかんさ」 アウデンティースが苦笑しながら体を起こした。それを見つめるともなく見つめつつ、アクィリフェルはまだ不思議でいる。 「確かにメディナの避難もありますけど」 横たわったまま首をかしげれば、解き流したままの赤い髪が肌を彩る。 王の寝室だった。淡い明かりは寝台の近くの蝋燭のもの。そもそもアクィリフェルにはこの物体が寝台だ、と言うことが信じがたい。大の大人が五人も横になってもまだなお手足が充分に伸ばせるだろうものを寝台とは言えない、と狩人のアクィリフェルは思う。 「それだけじゃない」 「他にも?」 「まぁな」 「具体的には?」 「いわゆる官僚のごたごただな」 半身を起こしたままのアウデンティースが肩をすくめた。真上から見つめられてアクィリフェルは思わず微笑む。 いまの二人のやり取りを見たら、さすがのティリアでも驚いたことだろう。それほど穏やかな言葉だった。 「あなたが?」 陛下、とも呼ばない。アウデンティースもそれをよしとしているように、にこりと笑う。人前でならばアクィリフェルの声に嘲弄めいたものがある。それもいまはきれいに消えていた。 「俺にだって抑え切れんものはあるし、抑えるべきものでもない。よけいな面倒が増えるばかりだからな」 「国王陛下であらせられるのにね。あなたの自由にならないことがあるなんて、不思議ですよ」 「それほど座り心地のいいものでもないぞ」 顔を顰めるアウデンティースの首に手をかけ、引き寄せる。音を立ててくちづけるのは半ばアクィリフェルの嫌がらせだった。実は人に見せているより遥かに純な彼が厭うと知って。 「アケル」 よせ、とは言わなかった。けれど軽く身を引く。それを捕らえてくちづけた。 「――ありがたくもあるんですけどね」 「なにがだ」 「時間がかかって」 「あぁ……」 不意にアウデンティースがにやりと笑う。ほの明かりの中ですら、それは精悍だった。くちづけを恥ずかしがる少年の顔と、猛々しい男の顔が入れ替わり、立ち戻る。どちらもアクィリフェルの愛しい男だった。 「こうして、いられるからな」 片手で自分の体を支えたまま、アウデンティースはアクィリフェルの頬を反対の手でなぞる。不自由な体勢を微塵も感じさせない強さだった。 「そうじゃありません!」 今度赤くなるのはアクィリフェルの番だった。いささか手厳しく言って、彼の手を跳ね上げる。けれどそのまま掴まれてしまった。まだ熱を残したままの男の体温にアクィリフェルが視線をそらす。 「……少し、休んで、その。体力を回復させる時間もあるし、鋭気を満たすこともできるし。そういうつもりで言ったんです、僕は!」 「そのわりには体力を使うことばかりしている気がするがな」 「僕じゃない、あなたがです!」 「馬鹿なことを言うな。一人ではできん」 一刀両断して、アウデンティースは絶句するアクィリフェルにくちづけては笑った。 「僕は――」 「いやか、アケル」 「そんなこと言ってません」 即答したアクィリフェルににやりとすれば、また羞恥に頬を染めた。一々言葉を失うようなアクィリフェルの素直さだった。 「本当は」 アウデンティースが再び横たわる。その腕の中にアクィリフェルを抱きしめた。まだ何も身につけていない肌と肌が触れ合って熱を発する。 「こうしているだけでも、充分に幸せなんだがな」 ぽつりとした呟きにアクィリフェルは言葉を返せない。声の響き、その音色。いやでも聞こえてしまう。聞きたくなくても聞こえる音。いまは、何より聞きたい彼の声。 「――です」 「アケル?」 「聞こえませんでしたか! 僕もそうだって言ったんです、耳が遠いんじゃないんですか。そういえば僕よりずっとずっと年上でしたよね!」 「年寄り扱いしてくれるな」 「立派に成人した三人のお子様がいらっしゃるのに? 最低限に見積もっても僕の父親と同じか上でしょうに」 ふ、とアクィリフェルが言葉をとめ、何事かを考える。アウデンティースは黙って次を待っていた。 荒々しく罵られても、少しも嫌な気にならないのはなぜだろうと、そう思った自分がおかしかった。当たり前すぎて、答えがわかっていることを問うた自分が。 「カーソン卿って、お幾つなんです?」 不思議そうな、それでいて何気ないアクィリフェルの声にアウデンティースは騙されない。おそらく世界を歌う予言された導き手の声に惑わされないたった一人の者がアウデンティースだった。 「さてなぁ。七十をいくつか超えてはいると思うが」 「なるほど」 「なにがだ?」 「ではあなたは僕のお祖父様くらいの年と言うことですね」 腕の中にいて、見えはしなかった。けれどにっこりとアクィリフェルが笑ったのが感じられる。いくらなんでも祖父と言うにはいささか若いと思いつつも、気づけばくつくつとアウデンティースも体を揺らしていた。 「おかしいですか?」 「祖父様のなんのと言いながらお前、全然動じてないだろう?」 「それくらいで動じる――」 「ような男だったと思うがなぁ」 からかいの声音にアクィリフェルは言葉もない。実際、彼の正体が国王だと知り、正気を失うほどに怒り狂ったのはアクィリフェルなのだ。 「……いつまで根に持ってるんですか」 「全然。俺は持ってないぞ。うん?」 「どこが!」 言った途端、アウデンティースの唇から軽い悲鳴が漏れる。アクィリフェルの爪が滑らかな胸に爪を立ててた。 「おい、よせ。痛いって」 「意地悪を言うからです」 「……からな」 「なんですって?」 本気で聞き逃したのだと信じるほどアウデンティースが彼を知らないはずがない。口許だけで仕方ないな、と笑みを刻み耳許に唇を寄せる。 「そういうお前が可愛いからな。つい意地悪をしたくなる」 吹き込まれた囁きが、アクィリフェルの体を揺さぶり突き抜けた。引き締まった体を強張らせ、息を吐くのさえこらえた。 「アケル」 けれどアウデンティースは許さなかった。何度も囁き、アクィリフェルが抗うより先に肌に指を滑らせる。 「ラウルス、だめ」 「なにがだ?」 「とぼけ――」 とぼけるな、とは最後まで言えなかった。こらえ切れない吐息が熱く唇を濡らす。舌先でなぞられて、知らず彼にしがみついた。 「たまには酔え」 こんな機会、そうあるものではない。二人きりで過ごす機会ならば、まだあるだろう。いずれ死ねない身だと宣告されてはいる。 けれどそのとき何が起こるのか。二人きりで共に長い時をすごすことができるのか。黒き御使いはそこまでは教えてくれなかった。 「ラウルス」 「うん?」 「思い悩んでも――仕方ないこと、でしょう?」 熱に潤んだ目をしながら、アクィリフェルが見上げてきた。言葉にしなくとも彼は聞いてしまう。懸念も愛も。 「だからいまは」 今このときだけは、二人で過ごす貴重な時間。二度と訪れないかもしれない。これが最後、と思っていたほうがいいのかもしれない。 「ラウルス」 くちづけをねだる声。応えつつ、アウデンティースは一度離れて彼を見つめる。ほの暗い燭台の明かりの中でも、冴え冴えとした青い目に吸い寄せられた。 「先のことは、先のこと。そうでしょう? いまあなたは僕の側にいてくれる。僕はそれで、充分です」 「俺は違うな」 「ラウルス!」 「恋人がよけいな悩みまで聞いてくれる耳を持ってるおかげで、すっかり正気になっちまってるじゃないか。せっかくその気にさせたのになぁ」 やれやれとばかりに肩をすくめるアウデンティースにアクィリフェルは怒らなかった。馬鹿なことを言うなと叩きもしなかった。代りに。 「まだその気だって言ったら、どうします?」 悪戯っぽく、まるでアウデンティースのように彼は言う。その目に煌きに惹きつけられて、離せなかった。 「そりゃ、黙るしかないよな」 「では黙って続きをどうぞ」 「言われるまでもない」 小さな含み笑いが二つ。大きすぎる寝台から外にもれることはなかった。互いだけが知っている声。それがこんなにも側近くにある幸福。 ゆるりと指が這えば、お返しに耳を噛む。溜息も吐息も、声すらもがどちらのものだったのか。 以前の人生では決して知ることもなかった絹の敷布より滑らかで、夏の太陽より熱い男の体に包まれる。 過去には覚えのない言いたい放題の口を塞げば、燃えるような赤毛が視界いっぱいに広がる。 どちらがどちらかわからなくなる。どちらがどちらでもかまわなかった。 「愛してる」 囁きすらも無駄なこと。アクィリフェルはすべてを聞く。虚偽も真実も、この世のすべてを。 「もう一度、言って」 それでも彼は言葉を求めた。聞こえるからかもしれない。他愛ない、嘘も混じり得るよけいな言葉を求めるのは。アウデンティースはその夜、何度でもその求めに応えた。 |