静寂だった。 世界のすべてが、否、世界そのものが死に絶えたかの、静寂だった。風すら止まり、太陽までもが動きを止める。 「アケル――」 声がした。アクィリフェルは帰ってくる。この世界に薄く延ばされた自分の存在をかき集め、呼んでくれた声の元に還ってくる。 「アケル」 まず息遣いが聞こえた。それから匂い。抱きかかえてくる温もり。 「アケル」 響きにアクィリフェルは取り戻す、自分を。息を吸えば、激しく胸が痛んで呼吸を止めていたことを知った。 「聞こえてます――」 「おい!」 「だから、聞こえてます!」 体を起こせばぐらりと傾ぐ。何が起こったか、いまはもうわかっていた。ただ、アウデンティースにであれ、いまはまだ話したくない。 一人ひとりの命を見ていた。助けられた者、助けきれなかった者。事切れるまでの苦痛の一つずつ、救われた安堵の一つずつをアクィリフェルは覚えていた。 自分のしたことだとは、思っていない。同時に、自分がしたことだった。これが世界を歌うということか、と今更ながら身にしみる。 「ラウルス」 「どうした!」 「……声、大きい。響きます。聞こえてますから」 顔を顰めてみて、やっとアウデンティースの姿が目に入る。酷い姿だった。たぶん自分もそうなのだろう、あるいはもっと凄まじいのだろう。小さく笑えば、体がいつ負ったかも覚えていない傷の数々に軋むように痛んだ。 「だが……酷いぞ」 「そうなんでしょうね、手を」 差し伸べられた手を掴み、アクィリフェルは体を完全に起こした。あたり一面、言葉には表せない有様だった。 いったい何をどうしたらここまで壊せるというのか。王宮は、壁も天井もなくなっている。廃墟のほうがまだしも秩序があるだろう。 瓦礫の中に散乱する、得体の知れないもの。それは壁掛けであったり、家具であったりした。が、壁掛けは埃一つついていないかのように姿を保ったまま、真っ二つに切れている。机は何世紀も経ったかのよう、腐って崩れている。艶やかな床の破片があるかと思えば、黴が生え、茸が顔を出す石壁もあった。 「まったく、何がどうなってるやら。わかるか」 「ある程度は。まず、そんなことより――」 「スキエントなら、あそこだ」 アウデンティースが片手でアクィリフェルを支えたまま指し示したもの。死体だった。矢で射抜かれ、剣で刺し貫かれたはずの喉。千切れてもおかしくないそれは、けれど掠り傷すらない。 「いったい……」 呆然と声を上げ、けれどそのときにはもうアクィリフェルにはわかっていた。 おそらくスキエントは混沌に囚われたとき、人間としての生命を終えたのだ。二人が対峙したのは彼ではなく、混沌としての彼だったのだろう。 「終わったんだろうな」 「そう願いたいですね」 「いささか……疲れた」 小さく笑ったのを感じ、アクィリフェルは顔を上げる。アウデンティースは笑っていた。けれどそこに安堵だけではないものも見る。 「アケル」 促しに、アクィリフェルは逆らえなかった。自分が見たもの、そしてたぶんしたのであろうことを訥々と語る。 まだきちんと整理できていなかった。見たものがわかっていないという以上に、自分の気持ちが整理できていなかった。 「まぁ、とりあえず生き残った民がいる、それで充分だ――。悪かったな」 「なにがです?」 「まだ、話したくなかっただろう?」 覗き込んできた目にアクィリフェルはうなずかなかった。アウデンティースには、それでも理解してもらえる、そんな確信。 励ますようにそっと、アウデンティースは彼の赤毛を撫でた。どれほどの苦痛を彼に与えたのだろう。自分と知り合いさえしなければ。他愛もなく無駄なことを考えているとわかっていても、じわりと心を侵す。 「ラウルス、変なこと考えてないでしょうね。僕にはわかるんですよ。僕は、後悔なんかしてませんから。あなたと一緒に戦えて、よかったですよ。あなたがいなかったら、僕は一人で戦っていたはずですからね」 それでは互いに敵を倒しきれなかっただろう、そう言外に語るアクィリフェルにアウデンティースは苦笑する。もう一度髪を撫でようとしたそのとき、アクィリフェルが跳ね上がった。 「ラウルス!」 「なんだ、急に!」 「姫様は! ティリア姫はどうしたんです!? あなたが抱きかかえてたのまでは覚えてる。まさか姫様に何かあったんじゃないでしょうね! 万が一あなたが僕を優先して姫様を見捨てたりしたんだったら、僕は一生あなたを――」 「ちょっと待て! 人の話を聞け、お前は!」 胸倉を掴む力がどこにあったというのか。アクィリフェルはアウデンティースに掴みかかって彼を揺さぶっていた。 それにアウデンティースは腹を抱えて笑い出したくなる。もしもそんな体力が残っていれば、だが。 「ティリアなら、そこにいる。大丈夫だ。生きてるよ」 アウデンティースの言葉を最後まで聞いてはいなかった。本当ならば走り寄りたいだろうに、アクィリフェルはゆっくりと立ち上がり、よろよろと王女の元へと歩いていく。 「本当だ……ちゃんと生きてる……」 「人の言うことを信用しろ、馬鹿」 「そんなこと言ったって!」 むっとして振り返ったアクィリフェルに、心が温かくなった。恋人の娘、と言う存在に思うところがないとはアウデンティースも思わない。それでもアクィリフェルはそれを乗り越えて彼女を心配してくれた。彼を愛する者として、そしてティリアの父として、こんなに嬉しいことはない、アウデンティースはそう思う。 「ラウルス!」 鋭い声に、残っていた体力を振り絞ってアウデンティースは彼の元へと急ぐ。なぜ呼んだのか確かめる意味はなかった。見ればわかる。ティリアが身じろいでいた。薄く瞼が開いていく。 「姫様、わかりますか、姫様!」 王女の傍らに膝をつき、アクィリフェルが必死になって呼びかけていた。その声にティリアはかすかに首を振る。わからない、の意味ではないだろう、意識をはっきりさせたくて彼女はそうしていた。 「ここは……」 「見覚えがないと思いますけど、王宮です」 「わたくしは……そう、スキエントに、囚われて」 「もう大丈夫です、なんの心配も――」 「いいえ、お父様! お父様はどこ! あなた、国王陛下がどちらか、知りませんか。お父様!」 「姫様? 大丈夫ですか、僕が、わかりますか」 不審そうな、心配そうなアクィリフェルの声に、アウデンティースは腹の底が冷えた。じわじわと、何かが染み込んでくる。あるいは、理解する。 「わたくしをティリアと知っているのですね? ごめんなさい、わかりません。どこで会ったのかしら。それより、お父様を見ていませんか、陛下は戦っていたはずです、ここで!」 ティリアがアクィリフェルの肩を掴んで起き上がる。そして彼女は見た。スキエントの、死体を。 「……お父様」 声を詰まらせ、ティリアの頬に涙がこぼれる。スキエントを見たのではなかった。彼女の目は、傍らに落ちていた剣を見ていた。 「お父様の剣だわ……」 アクィリフェルは虚ろな目をしてアウデンティースを見た。彼の腰には、黒き御使いの剣がある。彼女が見ているのは、漆黒の剣を取り返す前に手にしていた、かつての佩剣だった。 「あ……」 ティリアの声に、二人の視線がスキエントに集まった。もしも自分ひとりだったならば、我が目を疑ったことだろう。 スキエントが薄れていた。死体が、薄く薄く煙のようになっていた。煙ではない、埃のような固まりだろうか。息を飲む彼らの前、スキエントの死体は風に飛ばされて消えた。 「あの者は、混沌に囚われていました。……お父様は、混沌を退けて、そして。……亡くなったのですね」 はらはらと、埃に汚れた王女の頬を涙が洗う。呆然と、アクィリフェルはティリアを見つめる。嘘を言っているのではなかった。記憶が混乱しているのでもなかった。嫌でも、聞こえてしまった。 「ティリア姫、どこか安全な場所……そんなものがあるとしてだが、そこまでお送りしましょう」 ゆっくりと、アウデンティースが言葉を紡ぐ。はじめてそこにもう一人の男がいると気づいたのだろう、ティリアの目が大きくなる。 「えぇ、ありがとう」 けれどその目は初対面の男を見るものだった。王女らしく優雅に、けれど未婚の娘らしく男性を警戒する目。 「ご懸念には及ばない」 皮肉に笑ったようにティリアには見えただろう。わずかに彼女は羞恥を見せた。アクィリフェルには違うものが見えている。だからこそ、口は挟まなかった。 「誰かが来る。わかるか、アケル」 「えぇ、ちょっと待ってください。あぁ……メレザンド伯爵のようですよ」 「まったくもって予想通りだな」 にっと笑ってアウデンティースは視線を背後に向けた。それがティリアから顔をそむけたのだとは、彼女にはわからなかっただろう。 アクィリフェルは立ち上がる。ティリアはもう、心配は要らない。必要なのは、アウデンティースのほうだった。王女の視線を感じつつ、彼の手を取る。 「……こういうことだったんだな」 「ラウルス?」 「御使いが口にしなかった、例の祝福さ」 なすべきことをなすまでは、死なない。黒き御使いはそう言った。だが、続きがあったのをアウデンティースは確信している。 「姫様だけだと、思いますか」 記憶が奪われたのが。否、二人のことを覚えていないのが。アウデンティースは黙って首を振る。恨むのか、縋るのか、アウデンティースが握り締めた漆黒の剣の柄をアクィリフェルは睨んでいた。 「メレザンド伯が、もうそこにきています。そうすれば、わかりますね」 廃墟と化した王宮の中をメレザンドが走ってきていた。体中傷だらけになってティリアを探している。二人はメレザンドに向かって手を上げ、そしてアウデンティースの考えが正しかったことが証明された。 |