ティリアがメレザンドに伴われて去っていく。彼らを無言で見送るアウデンティースの背中を、アクィリフェルは見つめていた。
「まぁ……ある意味では好都合だな」
 振り返ったアウデンティースの表情は、光の影になって見えなかった。アクィリフェルは思わずその胸倉を掴みたくなる。
「なに馬鹿なことを――!」
「いや、本当だぞ?」
「ラウルス!」
 彼は笑いはしなかった。言い返しもしなかった。黙ってアクィリフェルを抱きしめた。温もりを感じることで自分の存在を確かめるかのように。
「本心だ。考えてもみろ、アケル」
「なにをですか!」
「俺たちはどうやら忘れられたらしい。だったらちょうどいい」
「だから、なにがですか!」
 耳許で、アウデンティースが小さく微笑んだのを感じた。記憶としての存在を奪われた痛みは薄れはしない。それでも彼は笑う。笑うからこそ、アクィリフェルは彼の傷を感じる。
「なぁ、どこに行こうか」
「ラウルス!」
「ちゃんと話してるつもりなんだがな……。俺たちのことは誰も覚えてないらしい。都合がいいだろ。お前はもう狩人は続けられないだろうが。俺も王冠を被ってなくっていい」
 声が冷ややかだった。自らの責務として王位についたその日から、アウデンティースは死ぬまで責任を果たすつもりだった。こんな風に突如として奪われるのではなく。
「僕の場合は続けたくても禁断の山自体がないですからね、もう」
「なに!?」
「あぁ、話してませんでしたっけ。混沌を退けたあと、ずいぶん地形が変わったみたいです。シャルマークの北には物凄い山並みができてますよ、それにほら――」
 アクィリフェルはティリアを見送った場所を振り返らせる。そこからは外が一望できた。アウデンティースが息を飲む。
「さっきは気づいてませんでしたよね。あの山も出来立てほやほやですよ。湯気が出そうなくらいにね」
 からかうように言ったアクィリフェルをアウデンティースは引き寄せ抱きしめた。言葉は要らなかった。禁断の山がないのならば、そこに住んでいた人々は。アクィリフェルの両親は。
「たぶんね、禁断の山はその役目を終えたんですよ。それがどんな役目だったのかは知りませんけどね。二人もみんなもきっと、満足してると思います。それが狩人ですから」
 冷静に言ったつもりだった。しかし意図せず声は震えた。アウデンティースに包まれてアクィリフェルはしばし涙の流れるままに任せる。みんないなくなってしまった。けれどここに、胸の中にはいるのだと信じられるまで。
「ラウルス」
「うん?」
「色々変わりましたから、見に行きましょう。二人で」
「あぁ、二人で」
 顔を上げたアクィリフェルはアウデンティースの顔に本物の笑みが浮かんでいるのを見た。何もかもがよかったとは思えない。犠牲になったものもしたものも余りにも多い、けれど。それを言葉に出す前、アクィリフェルは呼吸を止める。
「なんだ、あれは!」
 アウデンティースもまた、同じものを見ていた。まるで光の滝だった。はらはらと零れ落ちる光が二人を照らす。あまりの眩しさに目を覆い、互いを互いの体で庇いあう。目を開けたとき、そこには光が立っていた。
「いや、御使いか!?」
 驚きの声を上げた彼から離れ、アクィリフェルは光を見つめる。輝く御使いは、あの黒き御使いとはまったく違った。空と海ほどにも違う。
「天の、御使い――、ですよね」
 自分の声が無様に震えているのを隠そうとして隠し切れない。御使いは一人二人と増え、瞬く間に大勢になった。
 美しかった、御使いは。超然とした彫刻のようなそれを美と言うのならば。太陽のよう輝ける黄金の髪、どこまでも澄んだ空の目。丈高くあたかも光の翼を背負っているかのよう。
「去れ。呪われし者らよ」
 御使いの声が言う。それが自分たちのことを指しているのだとわかるまでには数瞬かかった。
「では、これはやっぱり呪いと言うわけか」
「そのほかに何がある。悪しき者と関わり助力を請うなど」
「なるほどね」
 御使いのその在り様に怖気づいたアクィリフェルとは違った。アウデンティースはにやりとして漆黒の剣の柄に手を置く。
「俺たちが忘れられたのも呪いと言うわけか」
「正しくは忘れられたのではない。人間の記憶に残らないのだ。以前も、以後も。お前たちは呪われし者として過ごすのだ」
 優しさの欠片もないただ事実を告げる声。アクィリフェルはどことなくあの黒き御使いのほうにこそ親近感を覚える。
「呪われし者ね……。まぁ、いいさ。俺たちがどうなろうと民は助かった。それでいい」
 毅然としたアウデンティースの声だった。諦めたのではない。心から彼はそう思っている。怯えた自分を情けなく感じ、アクィリフェルは彼の隣に立つ。
「悪魔の手先になどなるから呪われるのだ」
 御使いが、鼻で笑ったような気がした。アクィリフェルが凝視していてもまったく表情など変わっていなかったというのに。
「だったらあんたが手を貸してくれたのか? この世界が滅びる前に助けてくれたのか? 全部終わってから現れて文句を言うのは容易いな」
 御使いのようアウデンティースは事実だけを述べていた。そのぶん冷たく聞こえはするが、彼の声音にわずかながらもからかうような響きを聞いた。
「我らを信じればよかったのだ。悪魔の呪いなど受けさせず助けてやったものを」
「そう言うことはな、神々のお一人だかその使いだか知らないが、そう言うことは信じさせる努力をしてから言えっていうんだ。行くぞ、アケル」
 御使いの言葉を待たず、アウデンティースは背を返す。アクィリフェルは黙って彼らを見もせずに愛する人に従った。その背を追いかけるように響いてくる声。
「我らが守ろう、人間を。悪魔の手になど触れさせずに――!」
 アウデンティースは聞いていなかった。アクィリフェルも返答はしなかった。どうせだったらもっと早く助けてくれたらよかったとは言わなかった。



 シャルマークの王都で、吟遊詩人はまだ歌っていた。長い、長い歌だった。
「猛き鷲の王、混沌の先駆けとなりし者を退けり。神人、王に誓う。以後は我らが人を守らん。王、安んじて旅立てり、赤き鷲の導き手を伴いて」
 最後のアルハイド国王は、混沌との戦いで果てた。伝説は語る。王はたった一人で混沌と戦ったのだと。そして退けたのだと。だが、歌はそうは語らなかった。
「禁断の山ってなんだ、聞いたことあるか?」
 ひそひそと王城前の広場に集まった人々が語り合う。中々巧い吟遊詩人だった。だが、聞いたことのない歌だった。
 混沌の侵略の記憶はもう遠い。祖父の祖父よりまだ昔の出来事だった。昔話は語る。それは酷い有様だったのだと。
 吟遊詩人もそう語る。大地は滅茶苦茶になり、川の流れも変った。それまではアルハイドの大地に山と言い得るほどの山はなかったと言う。
 だがいまは聳え立つ山々があった。とてもシャルマーク王国を他の二国と分けるあの山脈がなかったなど、思えないものを。
 そう。いまはもうアルハイド王国はない。混沌を退けたあと、最後の王は戦いに果てた。残された二人の王子、そして王女。彼らが大陸を三分し、統治した。ラクルーサはケルウス王子、ミルテシアには末のルプス王子が。そしてシャルマークは最後の王に最も愛されたティリア王女が。
 民の数も、あの頃に比べればずいぶんと増えた。三国は復興を遂げ、豊かになった。こうして吟遊詩人の歌を聞きに集まってくることができるほどに。
 それだけではない。見るがいい、人々の顔を。晴れやかな顔を。見るがいい、その衣装を。美々しく、あるいは簡素な。見るがいい、その幸福を。
「これはあれだろう? アルハイディリオンだろう? だがそれにしてはずいぶんと歌詞が違うような気がするが」
 教養ありげな貴族の一人が首をかしげる。吟遊詩人はしかし歌をやめなかった。そんな反応は慣れているとでも言いたげに。
「王は行かん、狩人と共に。民に幸あれかしと、今日の空、明日の空へと王と狩人はさまよい続けん。そして人々よ、知るがよい。放浪の中にありて今なお王の手は人々に伸ばされているのだと。星々を王衣に、花々を王冠に。そして大地を玉座に。かの王こそ真の王なればこそ」
 リュートの響きが余韻を残して消えていく。最後の歌詞も、聞いたことのないものだった。あるいはこの吟遊詩人が付け足したものかもしれない。
「別名は、滅びの歌と言ったか……」
 誰もが困惑し、拍手も起こらない。確かにいい歌だった。だがみなが知るアルハイディリオンとはまるで違った。奇妙な静寂を破ったのは、一つの拍手。
 吟遊詩人はその音がどこから、あるいは誰のものかを知っているかのよう顔を上げた。その拍子にフードが背に落ちる。それは見事な赤い髪だった。
「また腕を上げたか? いい歌だった」
「四六時中聞いてるくせによく言いますよ」
「そうでもないぞ。最後に全曲聞いたのはいつだったかな?」
「忘れましたよ、そんなこと」
 すらりと立ち上がった吟遊詩人の目を追って人々は見た。気安い声の主を。吟遊詩人の護衛と思しき戦士だった。とはいえ、護衛にしては彼の腰にある剣は立派すぎたが。
「どうする?」
 問いに吟遊詩人は眉を顰める。猛禽のような金の目をした戦士はそれを面白そうに見つめていた。
「もちろん、旅に」
「もう少しのんびりしててもいいんだがな」
「あなたが? それとも僕がですか?」
 傲慢そうな言い振りに、集まっていた人々が驚いたか。否、そのようなことはなかった。まるで歌い終えた吟遊詩人が立ち去るよう、人々こそが立ち去った。彼ら二人は、知っている。
「何度見ても、慣れないもんだな」
 人々の後姿を目で追った鷲の目の戦士は肩をすくめる。
「僕はとっくに慣れましたけど?」
「俺自身のことは慣れたがな。お前の歌を忘れられるってのが信じられん」
 その言葉に吟遊詩人は密やかな笑みを漏らし、戦士の腕にするりと自分の腕を絡ませた。その言葉で、それだけで充分だった。
「行きましょう、次のどこかに」
 吟遊詩人はリュートを背負い歩き出す。歌を口ずさみながら。笑って戦士も歩き出す。吟遊詩人が歌うのは、またもあの歌。
 アルハイディリオン。音楽だけがあった。赤い髪の吟遊詩人と鷲の目をした戦士の姿は誰の記憶にも残らない。
 アルハイディリオンさえ風と共に去り。歌の名残だけが、ただ――。




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