メディナを決戦の地に。アウデンティースの姿が一回り大きくなったように見えた。カーソンは長く側近くにあった王の姿を感動の面持ちで見つめていた。
「ところで陛下。よもやお一人で向かわれるおつもりではありますまいな?」
「混沌の核を作るのはこの剣だ。とはいえ、アクィリフェルがいなくては――」
 その真贋が定められない。言おうとした王の言葉が止まる。カーソンがまるで若きころの彼のよう、渋い顔をして王を見ていた。
「陛下」
「なんだ」
「お言葉ではありますが、アルハイド国王ともあらせられます御方が、力強き味方とは言えアクィリフェルと二人で混沌討伐ですと?」
「それが最も効率的だと、思うが……」
 カーソンの表情がアクィリフェルにも移ったようだった。もっともアクィリフェル自身は同意しなくもない。だがそうはいかないだろうこともわかっていた。
 どうにもこの王は国王としての責務だけはしっかり果たす、否、それ以上に果たす気もあれば能力もあるものの、それ以外のところが危なくてならないらしい。
 アクィリフェルはそこにラウルスを見て思わず微笑みそうになる。強いて気を引き締めればカーソンの苦い顔がこちらに向いていた。
「アクィリフェル」
「はい」
「そなたから何か言うことはないのか。まったく、陛下といいそなたといい!」
「いえ……その」
 つい口ごもってしまったのにアウデンティースの気配が和らいだ。横目で見やれば含み笑いを隠そうと努力している。
「ですから、その。僕としては陛下の案に賛成、と申し上げたいのですが……」
「アクィリフェル!」
 まるで全盛期の若さを取り戻したかのカーソンの怒号だった。関係のない列席者まで身をすくめている。
「ですが! カーソン卿! ちゃんと聞いてください。そんな風に怒鳴られたら僕は話せない!」
 列席者の縮んだ体が強張った。あのカーソンに、往時はアルハイド全軍を率いた将軍に、たかが一介の狩人が、導き手とはいえ言い返すとは。
「まぁ、素晴らしいわ。アクィリフェル。あなた、カーソンが何者かご存知なの」
「もちろん知ってますよ、姫様。カーソン卿にはメディナでお世話になりましたから。僕にだって噂話の一つや二つ、聞こえてますしね」
 すっかりと外面を取り繕う気をなくしたらしいアクィリフェルだった。むしろその方が好ましいと思っているアウデンティースを除き、一同みな目を白黒させている。動じていないのは彼の娘くらいなものだった。
「ですが、姫様。過去の業績がなんです。そんなものは僕が知ったことじゃない。僕はカーソン卿を、現在のカーソン卿を信頼しています。それが何より大事なことなんじゃないんですか」
 乱暴とも言いうる口調だった。だがティリアは彼に向けて微笑む。席の向こうでエクルが小さくなっていた。
「アクィリフェルの言には一理ある」
 重々しく言ってアウデンティースがカーソンを見やった。視線につられるようそちらを見ればカーソンが赤くなっている。
 怒りではない。憤りでもない。無礼を咎めているのでもない。
「アクィリフェル。感謝するぞ。このカーソン、これほど嬉しい言葉を聞いたのは実に久しぶりだ」
 面と向かって言われてしまってアクィリフェルこそ赤くなる。その耳には確かに聞こえていた。
 彼がアウデンティースに寄せる信頼。我が身に代えても王を守ろうと言う気概。言葉で言うのは容易い。
 だがカーソンは口で言ったのではない。言葉にならない言葉で、世界を歌う導き手にのみ聞こえる音でそれを告げた。彼自身、意図せぬままに。
「カーソン卿が信じるに値する方であるというのは、僕にとってもありがたいことですから」
 傲慢に言い放てばアウデンティースが声をあげて笑った。おかげでカーソンどころか彼の騎士、ファロウにまで微笑まれてしまってアクィリフェルは身の置き所がなくなりそうな心持ちになる。
「本当のことなんです! 卿は全身全霊で陛下を守ってくださるでしょう。その卿が支配するメディナで戦えるならば。僕は後方になんの不安も持たないで済みますから」
「まったくそのとおりだな」
「わかっておいでですか、陛下」
「なにがだ? アケ――いや、アクィリフェル」
 一度軽く睨んでおいてアクィリフェルは目元を和ませる。失言ではあろう、けれど心が軽くなっていた。
「混沌を討つ。それはいいんです。そのために僕がいる。そのために御使いの剣がある。ですが、わかっておいでですか?」
 言葉を切ってあえてカーソンを見れば、重々しくカーソンもうなずいていた。
「陛下。混沌を討った後のことです。相打ちでも陛下を獲られたらこっちは終わりなんですよ。そのあとのこともちゃんと考えてくださらなくては」
 多少、悪戯っぽい言い方だった。世界の歌を聞く耳を持つアクィリフェルはまた、声音も自在に操れた。すべてが終わったら、吟遊詩人になってみるのも楽しそうだ、そんな詮無い思いがちらりとよぎって消えた。
「いや、考えてはいるが……」
 それは知っている。だからこそ考え出した嘘もある。けれどそれでは足りない、アクィリフェルはそう思う。
「忘れないでください。陛下はアルハイド国王であらせられます。世界の災いが去ったのち、陛下なくして民に幸福がありましょうや?」
「幸いなことに出来のいい息子がいる。王家の慣例としては若いが、ケルウスはいい王になるだろう。ルプスもそれを助けるだろう。二人の弟を当然ティリアは見守るだろう。なんの心配も――」
「僕は心配ですよ」
 王の言葉を遮る無礼に、けれど一同声がなかった。ティリアですらアクィリフェルの言葉を待っている。あの、王位を断固として拒んだティリアが。
「王子殿下方も、姫様も、民を思う心篤くいずれは素晴らしい統治者になるでしょう。ですが、陛下。陛下はわかっておられない」
 言葉を切り、じっとアウデンティースを見つめる。その目はラウルスを見ていた。
「混沌との戦いに、陛下が、アウデンティース国王陛下がお倒れになったら? 民の命と平和、その幸福を陛下の命で贖ったのだと民が思ったら? 当然、みんなそう思いますよ。わかってるんですか」
「それは……」
「民の心にそのような罪悪感を植え付けるのは善き国王のなさることでしょうか。陛下は倒れてはならない。誰が倒れようと、僕やカーソン卿の命で身を守ろうと、決して倒れてはならない。どうぞ、お覚悟を」
 きつく唇を結んだアクィリフェルにアウデンティースは圧された。黒き御使いの呪いで死ねない身だとか、お前一人を死なせて生き残らせる気かとか、そのようなことはとても言えなかった。
「当然だ。覚悟など問うまでもない。玉座についたその日から、民のために死ぬ覚悟ならばできている。民のために死なぬ覚悟をせよと言うのならば同じこと。我が名はアウデンティース、アルハイド国王だ」
 その姿、その威容。カーソンが、アクィリフェルが立ち上がる。列席者が次々と立ち上がり、この偉大なる国王に深く一礼した。最後にはスキエントも立ち上がり、国王に敬意を表する。
「とはいえ、できれば誰も死なせたくないと思っているぞ」
「そんなことは戦いの前に誰もが当然思うことです」
「当然か?」
「違うと言うんですか?」
 わざとらしい無邪気な問い。アクィリフェルの演技を感じた。心の中でだけ、小さく下手だ、とアウデンティースは思う。
 声は震えていなかった。表情も自然だった。けれどアクィリフェルは怯えている。誰かが、今ここにいる誰かが死ぬかもしれないと。自分の力及ばず、あるいはまったく関係のないところで。
「いいや、違わん」
 力強く笑って見せる。アウデンティースにはそれくらいしかしてやれることがなかった。だからこそ、思う。
「アクィリフェル。相談だが」
「まだ仰るんですか? だめです。僕ら二人で混沌を討って、陛下に万が一のことがあれば僕はカーソン卿に申し訳が立ちません」
「そうですぞ、陛下。いやはや、まったくもってなんとも頼もしき立派な男かな、アクィリフェル」
「口も態度も悪いがさつ者ですが」
「なんの、そんなことは貴殿の心根の鮮やかさに比べればなにほどのこともない」
 確か以前はお前だったはずだ。今日再会したらそなたと呼ばれた。それがいつの間にか貴殿にまで昇格してしまっている。ずいぶん見込まれたものだと、呆れるものの嬉しくないはずもなかった。
「そう言うことですな、陛下。是非一軍といわず全軍でもお連れ願いたいものだが――」
 言ってちらりとカーソンはアクィリフェルを見やる。アクィリフェルは黙って首を振った。
「ふむ。まぁ、確かに全軍ともなれば行軍速度も甚だしく落ちる……」
 顎に手をあて、重厚な態度で考えはじめてしまったカーソンに、誰も列席者は口を出せない。カーソンがきた、それだけでここまで話が素早く進むのだ。いまだ彼が王国の重鎮であり続けていると言う証左だった。
「待て、カーソン」
「いかがなさいましたかな、陛下」
「続きはあとだ。まずはカーソン、将軍位に服するよう命ずる」
「なんと、陛下! この老骨にまだ働けと仰せですか」
「言うな、カーソン。老骨と言うほどの年でもあるまい。私とさして変わらんはずだぞ」
「長命なるアルハイド王家の祝福されし血を受けてはおりませんからな」
「関係があるのか? ファロウ、お前の主人は剣も握れん老人か?」
「とんでもないことにございます。我が主は毎朝、日の出と共にお目覚めになり、若い騎士たちに稽古をお付けになります。極寒時を除けば、水練も。それこそなりたての従士などついていくことが敵わないほどにございます」
「なにを言うか、ファロウ!」
 声を荒らげて止めたカーソンだったが、意外とまんざらでもないらしい。一同が、アウデンティースですらもが呆気に取られ、ついで大きく笑い出していた。




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