王都の人々は国王が剣を持って戻った、もうそれだけで助かったような落ち着きを取り戻している。安易にすぎる、とアクィリフェルは思ったけれど実のところ城の中でも同じようなものだった。 「信頼が篤いってことですか」 どことなく面白くなさそうな顔をして呟く。それには理由がある。導き手としてならば、彼らの反応を喜ぶべきだろう。だが彼のアケルとしてはまったく喜べない。 戻った当日は当然のように大騒ぎだった。翌日からもそれまでの不在を埋めるよう忙しくしている。 「あれじゃ気の休まる暇がない」 本当ならば、自分が休ませるべきだろうとは思う。だが禁断の山の狩人であるだけのアクィリフェルにそれはできない。 王には王の責務がある。アウデンティースもまたそのことを当然の事実としてわきまえている。いまは更に混沌の侵略をどう阻むか、退けるかと言う会議が連日連夜行われているのだ。 「寝てないくせに」 小さく口の中で罵ってみたけれど、それではまるで別のことを不満に思っているようで気分が晴れなかった。 「アクィリフェル?」 廊下の向こうから歩いてきたのはティリアだった。背後にはいつもどおりメレザンドを従えているかと思いきや、彼女は一人だ。 「どうなさいました、姫様。メレザンド伯は」 「あなたまでそれを言うの?」 「もう言われ飽きましたか?」 「えぇ、すっかり」 いかにもうんざりだという顔を作って見せながらティリアは笑っていた。けれどその目元に憔悴の影がある。 「姫様」 一度言葉を切ったのは、相手はアルハイド王国の姫君で、しかもうら若き女性でもあるせい。そんなことを気にした自分を内心で笑いアクィリフェルは言葉を続けた。 「本当に、どうなさいました。もしかして姫様まで会議ですか」 「えぇ、そうよ。あなたは違うのよね。どうしてかしら」 「僕はただの狩人ですからね、重臣の方々がいらっしゃるところなど恐れ多くてとても」 にっこり笑ったアクィリフェルをいまアウデンティースが見たら必死になって止めたことだろう。そうティリアは思ったけれど、実際にはそんなことにはならないはずだ。そうなるより先、アウデンティースが怒りを爆発させるだろう。幸いにしてそれは娘の知らない父の姿だった。 「それはおかしいわ、アクィリフェル。あなたは世界を歌う予言の導き手。あなたなくしてどうするというの」 「陛下がいらっしゃいます」 「いいえ。違うわ」 確信的なティリアの声にアクィリフェルは感じるものがある。本当に、この方を次代の女王として仰げたならばどれほど国民は幸福なことか。だがそれを口にしないだけの分別をも持ち合わせていた。 「おいでなさい、アクィリフェル」 すらりとした抜き身のような姿でティリアは背を返す。妙なところが父によく似ている、とアクィリフェルはその背中に向かって苦笑した。 「ついてきなさい、と言ったのよ」 「はい、姫様」 「よろしい」 厳しく言った口許が甘く穏やかに笑っていた。そんなところも父に似ている、そう思う。思うたびに湧き上がってくる罪悪感。 「アクィリフェル?」 強く首を振った彼にティリアは訝しそうな声をかけた。なんでもない、ともう一度首を振りながら、アクィリフェルは自分の両手で頬を叩く。 「気をつけているんですが……また飲まれそうになりました。危なくてかなわない」 むっつりと言い、ティリアにはなんとか微笑んで見せる。あの日以来、アクィリフェルにとってだけ、危険は増している。 むしろ誰にとっても増大しているのだ、危機は。だがそれを感じ取れるのはアクィリフェル一人。思うだけで恐ろしくなる。 「お父様にもあなたにも大変なことだとわかってはいるわ。本当はこんなに簡単に口に出すことではないこともね」 王女と並んで歩く、と言う類稀なる栄誉を受けながらアクィリフェルは彼女の目にある真摯さを見とっていた。声にあるよりなぜかはっきりとしている、そんな気がした。 「でも、早く済んでほしいわ」 「努力します」 「いいえ、そうではないのよ。いまはお父様もお忙しいでしょう。そうね、とてつもなくお忙しいわ。あなたと語り合う時間も取れないほどに、ね?」 悪戯っぽく言われ、アクィリフェルは絶句した。真実この姫君は事態を理解しているのだろうかと疑いたくなってくる。 けれど耳は嫌でも理解した、彼女の感じている思いを。こちらに伝えようとしている気遣いを。アクィリフェルの目元がほんのりと和んだ。 「だから、早く終わって欲しいわ」 何もかもがすべて丸く収まりますように。全部が済んで、父がまた幸福になりますように。王でありながら、一人の男としての幸せを手にすることができないはずもない。そうあって欲しい、それを心から願うティリアの気持ちがアクィリフェルに伝わってくる。 「不思議です、姫様」 「なにがかしら?」 「王の責務とともに一人の人間であることができるのならば、なぜ?」 どうしてあなたはそうしないのか。口に出されなかった問いにティリアは微笑んで答えた。 「わたくしは、ただ一人でありたいからよ。我が儘なの。ただ一人のために、一人として過ごしたい。それだけで王族失格なのよ」 それが本当であるならば、ティリアのほかに王族と呼べる人はいなくなってしまう。アクィリフェルのそんな思いが顔に出たのかティリアは笑って小さく彼を睨んだ。 「弟たちはまだ幼いだけ。体ではなく心が。いずれ強くなるわ。お父様の子ですもの」 「僭越ながらそうあっていただきたいものです。禁断の山は王都からは遠く離れてはいますけれど、それでも王国の一部に違いはないですからね」 「暗愚の王では困ると言うことかしら」 「はっきりは言えませんよ、そんなこと。何と言っても僕も民の一人ですからね」 ふざけたアクィリフェルの言い分にティリアは声を上げて笑った。 「さぁ、真面目に務めを果たしましょう。よろしいわね」 「僕はさっぱりわからないんですが」 「だったら黙って見てらっしゃい」 「仰せのままに、姫様」 あえて大仰に一礼すればわざとらしく睨まれた。そのころにはもう連日会議が行われている部屋の前についている。 「お開けなさい」 部屋の前に立つ侍従が目を白黒させるのにもかまわずティリアは言う。アクィリフェルがわずかながら驚いたほどの尊大さだった。 「姫様――」 「聞こえませんでしたか」 「は……」 扉の両側に立つ二人がかわるがわる顔を見合わせ、けれど最後には諦めたのだろう。ティリアに一礼し、片方が扉を開ける。もう一方が室内に入ってティリアの名を告げた。 「ティリア・ロサ殿下のお見えにございます」 まるで予定されていたことのように告げる声にアクィリフェルは心の中で笑いを漏らす。ティリアも同感だったのだろう。唇の端がぴくりと動いた。もっとも、それ以上は表情を動かさないのだからたいしたものだった。 「これはこれは姫様。いかがなさいました。先ほどお休みになられたはずでは」 会議に列している重臣の一人がティリアの顔色を伺うようにたずねていた。その声だけでアクィリフェルには会議が巧くいっていないのを感じることができる。 「えぇ、休みたいと思います。ですが、お尋ねしたいことがありますの、お父様」 「できるだけ手早くな。見てのとおり白熱している」 どこがだ、アクィリフェルは思わず心の中でそう言った。会議はティリアが入るより前から静まり返っていた気配が如実に残っている。 どうやらいまだ何も決まらないらしい。そもそもアクィリフェルはなにを決めたいのか、なにを決めようとしているのかも聞いていなかったが。 ただし、知ってはいる。重臣も、列席しているファーサイトの賢者団も、まさか国王本人がたかが狩人に情報を漏らしているとは思ってもいないだろう。 「では手短に申し上げますわ。世界を救う導き手が、混沌を退ける方策を決定するための会議に列席しないのは陛下のご意思ですの」 父に娘が問うているのではない。王位継承権を持つ王女が、国王に問うている。それまで緩んでいた場の空気が引き締まる。 「そう思うのならば、お前は私の娘ではないな」 「えぇ、ですから連れて参りましたの」 にっこりと笑ってティリアは父を見つめた。その笑顔の裏側にある苛立ちや怒りをアウデンティースはまざまざと感じている。 この危機に、いったい重臣たちはなにを馬鹿なことをしているのだろう。アクィリフェルと言う武器を持ちながら、なぜ使わない。 ティリアの考えはよくわかっていた。だがアウデンティースにも考えはある。アクィリフェル一人を重んずるわけにもいかないのが国王と言うものだ。 だがいつまでもアクィリフェルを、否、世界を歌う予言された導き手を排除してことが進むわけがない。 いずれそう時間をおかずに重臣たちの目を覚まさせるつもりではあったが、ちょうどいいところにティリアが現れた。 「諸君。そろそろアクィリフェル抜きにしては話が進まないことに気づいていることと思うが、どうだ」 返ってきたのは沈黙。確かに身分を持たない、いわば一介の庶民であるだけの狩人だ。気分のよいものでないことは確かなのだろう。同時に彼の手がなければならないと認めることもまた。 「陛下。お言葉ですが。アクィリフェルなる狩人はすでに役目を果たし終えていることと存じます」 「ほう?」 「導き手の役割とは、陛下の御許に御使いの剣をもたらすことであったのではございませんか」 「いいや、違うな」 言いながらアウデンティースはゆったりとアクィリフェルを見つめた。その目は本当の役割は他にもあるのだ、と匂わせている。 けれどアウデンティースは確認していた、アクィリフェルに。覚えているか、とでも言うように。応えて狩人はそっと笑みを浮かべた。 |