そこは長い廊下だった。一直線に伸びた廊下は灯火も少なくちらりちらりと見える人影がどことなく背筋を寒くする。 「こちらよ」 そう言ってティリアが立ち止まったのは一枚の絵の前だった。先ほどから見えている人影の正体が、これだった。廊下の両の壁にずらりと掲げられた無数の肖像画。 「これがお母様の肖像よ」 絵の中の人は夢見がちな眼差しをして微笑んでいた。亡くなる数年以上は前の絵だろう。健康的、とは言いがたいものの病の気配はどこにもない。 アクィリフェルは王妃の肖像の前に立つ。ただじっと視線を絵に注いでいた。 「どうしてお母様の肖像を見たいと?」 それがあの場でアクィリフェルが口にした願いだった。ティリアは一も二もなく容れたものの、不思議に思ってはいる。 「美しい方ですね」 答えずアクィリフェルはぽつりと言った。肖像画の下にはアウデンティース国王妃、ロサ・グローリアとある。 「わたくしの名はね、お母様からいただいたの」 「姫様?」 「わたくしの名はティリア・ロサ。お母様と同じ名をいただいたのよ」 日常、ティリアと呼ばれているから忘れがちではあった。だがそれはティリアにとって重大な決心が必要なほどの名でもあった。王位を望みはしない。一王女として弟を助けようと。だからこそ、王位についたのちに与えられるはずの名を取る余地を残さず、母の名からロサを名乗る。 それは王族ではないアクィリフェルにわかることではない。だからティリアも語りはしなかった。ただなぜか、決心だけはわかってもらえるような気がした。 はたしてアクィリフェルは肖像を向いたままうなずいた。こくりと、無造作なものではあったが、ティリアには不意に通じたとの思いが沸き起こる。ほっと笑みを浮かべたときアクィリフェルは振り返った。 「亡き王妃様に、よく似ておいでです」 灯火のせいかと思った。あまりにも明るい灯は絵を傷ませかねない。だから薄暗い長廊下。だからだ、きっと。アクィリフェルの眼差しが淀んで見えたのは。思わず傍らのメレザンドを窺えば、こちらも目をみはっていた。 「えぇ……ですけれど、アクィリフェル」 戸惑うティリアにアクィリフェルは一転、激しく首を振る。握り締めた拳が痛そうだった。 「わかっています。姫様は、亡き王妃様ではない。それはわかっています。でも、僕は姫様にお許しを請うしかない。――姫様、僕を許してくださいますか」 淀んでいるのではなかった。あまりにも悲痛な目だった。握った拳の中には何があるのだろう、ティリアは思う。せめてそこに愛があってほしいと思う。 「許すも何もありません」 毅然と言った。王家の女性として。亡き王妃の代理として。それをアクィリフェルが望むのならば。 「でも――」 「わたくしの母はね、アクィリフェル」 語るべきだろうか。語らないほうがよいことなのだろう。けれどアクィリフェルが望んでいた。 父王はティリアの人を見る目は厳しすぎると言う。もっと寛容であれとも言う。だがしかし、アクィリフェルはそのティリアの信頼をいつからともなく勝ち得ていた男だった。 「わたくしの母は、愛された以上に心からの愛を捧げた方でした。死の床にあっても、幸福のみを願った方でした」 それが何を意味しているのか、何を言っているのかわからないアクィリフェルではなかった。むしろティリアの心遣いを感じる。表情にそれを見とったのだろう、ティリアが微笑んで言葉を続けた。 「許すも何もありません」 そうしてティリアは母の肖像を見上げた。いつも微笑んでいた、亡き母の絵は。肖像画は姿を変えはしない。それでもティリアには母の微笑が見るたびに違うような気がしていた。楽しげな微笑み、悲しげな微笑み。うっとりとした微笑み。その笑みの先にいるのは父王だった。いまは、どうだろう。 「わたくしは長く母の代わりを務めてきたのですよ、アクィリフェル。あの日以来、本当に長かったわ」 弟たちの求める母であろうとし、父王を支えるべき王妃の役割を演じ、そしてこの国で最も高貴な女性として民を慰撫する。年若い王女にはどれほど過酷な日々だったことか。 それを側で見つめ続けてきたメレザンドがわずかに足を踏みかえるふりをして一歩、ティリアに寄り添った。 「アクィリフェル」 「はい――」 「わたくし、疲れました。そろそろ代わっていただきたいの。そして代わってくださるのは、あなたではなくて?」 にっこりと、まるで悪戯な少女のようにティリアは笑った。アクィリフェルはその眼差しを正視できないでいる。 こんな自分でいいのだろうか。愚問だとは思う。けれど思わずにはいられない。 王妃の代りなど、務まるはずはない。そもそも自分は男で、公認されるとしてもせいぜいが寵童だ。それもかなり年嵩の。 どう考えても、宮廷で歓迎されることではない。よりによって、禁断の山の狩人の自分。宮廷に留まることのできない自分。 わかっていてティリアは言っているのだろうか。わかっているとも思う。だからこそよけいに、惑う。 一度、亡き王妃の肖像を見たかった。見れば、決心できるような気がした。それなのに惑い惑って心は定まらない。 ならばアウデンティースを捨てられるのかと問う。答えなどはじめから知れている。 王妃の肖像の前で、詫びたかっただけかもしれない。あなたが心から愛した男を手に入れてしまったと。あなた亡き後も至誠と愛を捧げていた男の、その心を奪ってしまったと。 肖像に向かって心の中で詫びてみる。絵は穏やかに微笑むばかり。 「あなたになら、代わっていただけるわ」 不意に背筋に痺れが走った。おずおずと肖像を見上げる。馬鹿なことをしている、と思った。いまの声は紛れもなくティリアの声。それなのに、亡き王妃の声に、聞こえた。 「ロサの代わりなどいらん」 暗がりから、また一つ声がした。誰より早くアクィリフェルが振り返る。 「あれには誰もなり代れんよ。ロサは、ロサだ」 姿を現した王は、そう言って懐かしそうに王妃の肖像を見上げた。 「そう言うことを仰るからアクィリフェルが不安になるのではなくて、お父様?」 「なに、アケルはわかっているよ」 何事もないよう言ってアウデンティースはそっとアクィリフェルを肖像画の前から引き離した。 「ごめんなさい……」 うつむき、悄然とした狩人だった。はじめて見るアクィリフェルのそのような表情にティリアは笑みをこぼす。父の前ではそうなのかと思えば微笑ましくもなる。だが王は愕然とアクィリフェルを覗き込んだ。 「怖くて。僕なんか――いてはいけないような、そんな気がして。僕なんか、消えてしまいたくて。僕なんか――」 平坦に呟く声にアウデンティースは肝を冷やす。どきりとしたときには、手が出ていた。 「アケル!」 ごく軽くではあった。けれど王国随一の剣の使い手とも名高い男の手だった。まるで思い切りはたかれたかのようアクィリフェルが揺らぐ。 「すまん」 咄嗟に腕を掴んで抱きかかえれば目を瞬いてそこから逃れた。 「こちらこそ」 何度も何度も首を振る。その仕種にアクィリフェルの心を感じた気がした。 「なにがあった?」 「感じましたか?」 「いいや。お前がおかしいことだけはわかった。正気になったか?」 「えぇ、すっかり。痛い思いをしましたから」 「非常事態だ。許せ」 ぶっきらぼうな会話に唖然としたのはメレザンド。吹き出したのはティリアだった。 「まぁ、おかしなお二人ですわね。何がありましたの、お父様。アクィリフェルはお父様のお心が不安だったのではないのですか」 「不安がらせているつもりは……」 「無きにしも非ずですが、この際は置いておきましょう」 「おい、アケル」 慌てた王の姿を丁重にメレザンドは見なかったふりをした。それを目の端に留めたアクィリフェルが目礼を送ってくる。 「いいか?」 「僕の決めることではありませんよ。あなたの国で、あなたの姫君です」 冷たいことを言う。小さくぼやいた王の声に聞こえた様子も見せずティリアは首をかしげて見せた。その眼差しにあるのは強い光。長く父王を支え続けてきた王女の目。 「アケル」 「わかりました」 短い言葉の示唆がわからないはずはない。長く仕えたメレザンドにわからないことでも、アクィリフェルにはわかる。その耳がある。 「この際ですから、言葉の定義は横に置きます。――王宮は、混沌の瘴気が濃いみたいです。僕は決して人格者ではありませんし、穏健派でもありません。些細な勘違いで人を呪い殺してやりたいと思ったことすらあります」 それが誰なのか、無論ここにいるみなが知っていた。黙ってうなずき続きを促せば、アクィリフェルは高位の貴族に王女、そして国王本人の前で大胆にも盛大な溜息をつく。 「人を殺す前に死にたいと思ったこともありますけどね。今はそんな気分になるはずがないんです。多少、申し訳ないと思ってはいます。でも――」 「時間ばかりはどうにもならないからな。ロサが王妃になったころ、お前はまだ生まれてないぞ」 「ですよね。だから、喧嘩をする気も嘆く気もないはずなんです」 「それなのに?」 「えぇ、そんな気分になった。僕は予言された歌い手、導き手ですから。嫌でも聞こえてしまう。今は、油断しました。うっかり飲まれそうになった」 唇を引き締めて、どこでもない場所を見るアクィリフェルの目の精悍さ。その眼差しの先を追う父王の目。 「近いですよ」 「わかっている。お前こそ」 「僕は今後油断はしません。気をつけていただきたいのはあなたですから」 二人は混沌が迫っている、そう語る。けれどいまティリアが感じたのはたとえようもない信頼と感謝だった。 |