アウデンティース王の帰還を誰しもが今かいまかと待っていたのだろう。あっという間に帰還を祝う場が設けられたのには驚いた。
 城の大広間の中央でアウデンティースが豪快に笑っていた。見事に美々しい王衣を身にまとい、手にはあの剣を下げている。時折、掲げて見せれば大歓声が起こった。
 アクィリフェルはその光景を遠目に見つめていた。決して排斥されたわけではない。むしろ宴の最初には最大の功労者として王から感謝の言葉とともに列席者に紹介されたほどだ。
 だが、馴染めないでいる。当たり前のことだった。アクィリフェルは禁断の山の狩人。このような華やかな場所に縁はない。
「……言い訳、かな」
 人いきれから逃れたくて露台に出た、とでも言いたげな顔をしてアクィリフェルは一人喧騒から外れている。
 主人の戻った城は庭にまで篝火を盛んに焚いている。美しく思うよりなぜかアクィリフェルは恐ろしさを先に覚えた。
 雲ひとつない空なのに、星はあまり見えなかった。光が強すぎて、ささやかな星明りなど霞んでしまった。
 今ここにヘルムカヤールがいたならば、いったいどのような色合いを見せてくれたことだろう。かすかな星を映すのか、それとも燃え盛る炎か。
「言い訳、ですか? 何をです」
「姫様。いかがなさいました?」
「少し疲れました。風にあたりたくて」
 にこりと笑ったティリアの背後にはメレザンドが控えている。どことなくばつが悪くなって頭を下げれば気にしなくていいと小さく手を振られた。
「それで、アクィリフェル? どうしましたか」
「いえ……何も」
「本当に?」
 覗き込んでくるわけではない。ただ首をかしげるだけ。それなのにアウデンティースの顔に奇妙なほどよく似て見えた。
「……行ってしまった友が、寂しくて」
 それだけをかろうじてぽつりとアクィリフェルは言った。
 ヘルムカヤールは夕陽の中を飛んでいった。羽ばたくたびに煌く翼に心を絞られるような思いをした。行ってしまった、と思う。ヘルムカヤールは言った。
「我に用があれば呼べばよい」
 そう、アクィリフェルの手の中に小さなものを落とした。目を凝らせば、それは掌に納まるほどの笛だった。
「中々のものだろう?」
 長い首をもたげて語るところを見ればヘルムカヤールの手製か。更に目を凝らせば精緻な彫刻までされている。いったいどのように作ったのか尋ねても決してヘルムカヤールは答えなかった。
「それはな、小さなアクィリフェル。我の牙よ」
「牙!?」
「なに、抜け落ちたものだがな。それにしては小さいと思っておろうな。当然よ。そこまで加工するのにどれほど削ったと思っておる。どうだ、いい出来であろ?」
 にんまりする竜にアクィリフェルが呆れ顔を作って見せれば途端に落胆する竜。朗らかに笑って牙の笛を褒め上げた。実際、今まで手にしたいかなる笛より美しいと思った。
「だろう、だろう? だからな、小さいの。我に用があればそれを吹け。どこにいても聞こえるわ。すぐに飛んできてやる。ま、できる限りな」
 だから今は帰ると言う。人間が多すぎて落ち着かない、と巨体の竜が言うのだからおかしいものだった。人間のほうこそ竜が恐ろしくて落ち着かないでいるのだから。
「また会おうぞ。小さなアクィリフェル。ちっこいアウデンティース」
 高らかに一度吼え、ヘルムカヤールは行ってしまった。いま彼の牙の笛はアクィリフェルの懐にある。服の上から押さえれば固い感触。
 また会おう、ヘルムカヤールはそう言った。それは竜の嘘偽りのない思いだっただろう。アクィリフェルもまた会おうと言って送り出した。それもまた真実の思い。
 けれど。
 会えないだろう、とアクィリフェルは思う。自分の体の中に渦巻く世界の歌を聞く。混沌との戦いは、決戦はそこまで迫っている。いま人間の手に戦うための駒が揃った。
 アウデンティースの手にある漆黒の剣を見やった。黒き御使いの言葉を思い出す。呪われた命を生きることになる自分たち二人。
 なすべきこととはなんだろうか。いま考えても仕方ないことだとわかってはいる。けれど、再びあの竜に会えないことだけは確かなことのように思う。それは会いたいと思う気持ちの裏返し。期待するのが怖い。決戦が迫っているいま。
「素敵なドラゴンでしたね」
 慰める声音ではなかった。アクィリフェルが世界を歌う導き手でなくともその色は聞き分けられただろう。純粋な憧れの音。
「お気に召しましたか」
「えぇ、とってもきれい。あのような生き物がいるのですね」
「ご存じなかったのですか?」
 実際に竜と会見したものは多くはない。けれど存在を疑われるほど少なくもないはずだ。驚くアクィリフェルにティリアは笑う。
「あなたの故郷ではそうなのでしょうね。けれどここではまるで伝説です。城の空をドラゴンが飛ぶなんて。幼いころに見た夢のよう」
「広い大空を飛ぶ彼は本当に素晴らしいものでした。姫様にお見せしたかったですよ」
「ね、アクィリフェル。今度のことが全部終わったらきっとわたくしを連れて行ってちょうだい。お父様とあなた、わたくしとメレザンド伯と。みなであのドラゴンに会いに行きたいわ」
「えぇ、本当に――」
 約束などできなかった。黒き御使いは混沌を退けることができると言う。疑ってはいない。けれど無傷で、とは言わなかった。
 死ねない身であると言われた以上、自分たちは生き残ってしまうのかもしれない。けれど他の誰が生き残る。怖くて、とてもアクィリフェルには考えられなかった。
「アクィリフェル?」
「姫様。お願いがあります。聞いていただけますか」
 不意に口をつぐんでしまった狩人を気遣って声をかければ突如として顔を上げて願い事をしてくる。宮廷人にはない挙動がティリアには奇妙に好もしかった。
「けっこうですよ、言って御覧なさい」
 宴はまだまだ続いている。それどころか人が増えたような気すらする。アクィリフェルの小声の願いを聞き遂げてティリアは背後に立つメレザンドにうなずいてみせる。
「いらっしゃい」
 けれどうなずいて手招きをしたのはメレザンドだった。ティリアは逆方向に歩き出しにこやかに笑みを振りまいていく。
「こちらだよ」
 メレザンドに続けば、あっという間に人が少なくなっていく。それもティリアが注目を集めてくれたおかげだった。
「姫様はあちらから周っておいでになるだろうから、先に行こうか」
「はい、メレザンド伯爵。勝手なことをお願いして申し訳ありません」
「願いなんていうものはたいていの場合、勝手なものと相場が決まっているからね。気にしなくていいよ。それにこれは私の感謝でもある」
「伯爵?」
「姫様は陛下がご出立になられてから弟君の前ではずっと何事もない表情をなさっておいでだったが――」
 思えばメレザンドとティリアは恋仲なのだ。二人きりで会う機会もあれば、ティリアの悩みを聞くこともあっただろう。
「姫様は明るくなられたように思います」
「陛下がお戻りだからね」
「いいえ、そうではなくて。なんというべきか……」
「あぁ、私がいるから、と言ってくれているのかな? それならば嬉しいことを言ってくれる、と思っておこう。君も多少、変わったように思うけれどね」
 多少とはずいぶん控えめに過ぎる表現だ、とさすがに我がことながらアクィリフェルは思う。以前はメレザンドにもかなりなところ無礼を働いているように記憶しているのだが、どうにもいまさら詫びがたい。
「パセル。アクィリフェル。こちらよ」
 暗がりでティリアが手を振っていた。どこをどうやって通ったら先回りができるものかアクィリフェルになどまったく見当がつかない。
 それに驚くよりもまずメレザンドを名で呼んだことに驚いた。思わず頬に上った血は幸いなことに薄暗がりに紛れて見えなかった。
「姫様」
「よいのよ。アクィリフェルはお父様を連れて帰ってくれたのだもの。わたくしとの約束を守って」
 それだけとは思いがたい言葉の含みをメレザンドも感じはしたが、この優しげな容貌の姫は父王に似て笑顔で無言を貫くことが多々ある。軽い非難を目に浮かべただけで引き下がったメレザンドにティリアは笑みを向ける。
「わかっているのよ、パセル」
「……何を、ですか」
「あなたが照れているの」
 ここぞとばかり言ったはずなのに、きゃっと小さな悲鳴を上げてティリアが飛びのく。どうやら戯れにメレザンドが彼女の手をとったらしい。純でうぶであまりにも白くて、アクィリフェルは目のやり場に困る。わざとらしく咳払いなどしてみればかえってティリアに笑われた。
「まるでお目付け役のばあやね。いいわ、行きましょう」
 不愉快だ、と全身で表現し、けれどティリアの目は笑っている。二人の男は顔を見合わせてつい笑みをこぼす。
「置いていきますよ、二人とも」
 願い事をした当のアクィリフェルを置き去りにしかねない様子でティリアは進んでいく。メレザンドはまだいい。仮にも宮廷人。だがアクィリフェルはこんな王宮の深部に置き捨てられたなら迷子は必至、すでにここがどこかもわからないのだ。
「当然よ。ここは国王の城。最後の最後には塞ともなるべき城ですもの。毎年、慣れない従僕や侍女が行方不明になるわ」
「そのたびに古参のものが探しにいくけれどね」
「あなた、知っていて? 本当に行方がわからなくなったまま死んでしまった侍女の話。今でも泣きながらさまよっているという話よ」
「まさか」
「信じないの?」
「私がお仕えするアルハイド王家の方々はこの上なく民を思う方々ですから。古参のものが探して見つからなければ御自ら探索に加わってくださることでしょう」
 いかにも自信ありげに言ってメレザンドはアクィリフェルを見た。同感だとうなずけばティリアが不満そうにする。
 アクィリフェルは思う。結局その延長なのだ、混沌との戦いは。民を思うからこそ自ら動く。それがアルハイド王家の血に染み付いた本能だとつくづく知った。




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