ヌベスカステルムの主、竜のヘルムカヤールより鱗の鞘を受け取ったアウデンティースとアクィリフェルは王宮に一刻も早く帰還する、と言った。 「どうやってだね?」 「当然、馬でだが?」 「馬より速いぞ」 おそらくそれはにっと笑ったのだろう。竜の顔では牙をむいているようにしか見えなかったけれど、たぶんそうだろうと二人は見当をつけつつも訝しげだった。 「乗るがいいぞ。運んでつかわす」 いやに横柄に言い、そして二人は驚異的な速さで王宮に戻ってきた。風を切る翼、頬を切る風。信じられないものがここにあった。なんという快さ、なんという素晴らしさ。 だからこそアクィリフェルは決意を新たにする。民のため、人間のためだけではなくヘルムカヤールのために。どうあっても混沌を退けねばならないと。 「狭い! なんという狭さか、降りにくくってかなわんぞ!」 いまだ上空にありながらぼやくと言うよりは怒鳴る竜の声に二人して吹き出す。掴みにくい鱗にしがみつく苦労も忘れるほど楽しかった。 「お。息子たちがいる。出迎えとは気がきいているな」 「姫様もいらっしゃいますよ。偶然ですね、きっと」 出迎えを喜ぶ風なアウデンティースにアクィリフェルが辛辣に答える。が、戯れだった。ヘルムカヤールにもそれは知れたと見え、笑った拍子に体勢を崩す。 「おい!」 すまないとも言わずに竜はうなる。どうやら本当に難儀なことらしい、この広い中庭に降りるのは。 なんとか竜が着地を果たしたとき、王子たちは揃って姉を両側から抱え込み、けれどティリアは晴れ晴れと王を迎えて笑みを浮かべていた。 「おかえりなさいませ、お父様」 実に愛らしく美しい笑みだった。が、父は娘をよく知っている。わずかに怯んだのだけれど背中にはアクィリフェルの冷たい目があった。くつり、と竜が笑う。 「あぁ、いま帰った。息災であったか。何事もなく過ごしたか?」 「えぇ、わたくしは。ですけれど、お父様。なんということでしょう。お母様の中庭がすっかりだめになってしまいましたわ」 「いや……」 内心で冷や汗をだらだらとかいているアウデンティースだった。 最愛の母が愛した中庭に竜が降り立った。よって、庭が荒れてしまった。それを娘が怒るのは、理解できる。 だが背中にはなんと言ってもアクィリフェルがいる。よけいなことを言えばこの気の短い狩人が何を言い出すか、あるいは何も言わずにどこかに去ってしまうか。考えるだに恐ろしい。 「これ、ドラゴン。そなたはわたくしの大事な庭を荒らしたのですよ、わかっていますか」 そんな父の心のうちが手に取るようわかっているのだろう。両側に置いた弟たちはなんのことかわからず姉と父の顔を見比べているのと言うのに。あるいは理解しているのはメレザンドだけかもしれない。マルモルはアクィリフェルに近すぎるがゆえに彼を慮ってはひやひやとしていた。 「おう、人間の王国の姫よ。わかっているとも。申し訳ないとは思うがな、ここしか穏便に降りられる場所がないのでな」 「まぁ……」 「ふむ。姫は我が人語を解するとは思ってはいなかったらしいの。小さいの、これは不思議なことだと思わんか」 「別に思いませんよ、こんなものです、人間の世界はね」 「冷たいことを言いやるの。お前の世界ではないか」 「――まぁ、そうですけどね。僕は王都で暮らしているわけじゃないですから」 「我にしてみれば同じ人だがな」 「そうでしょうけどね。僕にしてみれば全然違うものですよ」 ごく自然にアクィリフェルが竜と喋っていた。だからこそティリアは息をつく。自分には見も知らず聞きもしないことがいくらでもある。それを知らないほど愚かではない。 「面妖な! 父上、離れてください、私が退治いたします!」 「兄上、ご助勢いたします!」 「おう、ぬかるな!」 血気壮んといえば聞こえはいいが、物を考えない弟たちにティリアは小さく溜息をつく。父も同じ気持ちだったらしい。つかつかと歩み寄ってきたかと思えば両手で弟たちの頭をはたいていた。 「父上!?」 「なにをなさいますか!」 口々に言って驚きもあらわに父王を見つめる。ヘルムカヤールの側でアクィリフェルが微笑んでいる気がした。 「導き手を見よ。このドラゴンが悪しきものに見えるか」 「……ですが、導き手が惑わされていると言うことも。なんといってもただの狩人にございます」 「では私はどうなのだ。答えよ、ケルウス、ルプス」 「お父様、それくらいになさって。二人ともそれはお父様の身を案じていたのですもの。そうね、ケルウス、ルプス?」 怒り役となだめ役。見事に男親と女親の役割を果たしているとも言える。アクィリフェルにはそれが王家の普通のあり方なのかはわからないが、一般家庭ではそうだ。少なくとも自分の家でも幼いころはそうだった。 だからこそアウデンティースとティリアの不安が理解できる。ケルウス王子は決して凡庸ではない。しかるべく時が至ればよい王になり得る素養はあるだろう。 だがその父と姉はどう見るだろう。至らない息子を頼りなく思うだろう。ましてティリアはケルウスを差し置いて次の王にとまで望まれた女性だ。そしてそれをにべもなく蹴った女性だ。だからこそケルウスを案じ、鍛えたいと望んでいる。 かつてはわからなかったそんなことが今のアクィリフェルには手にとるようわかっていた。彼らの声を聞いているだけで何もかもがわかってしまう。 「怖いかね、小さいの」 「怖くなかったら嘘ですよ」 「だからだな、我はお前を信頼できる。よいのぉ、小さなアクィリフェルは」 他愛もないことを言っているように聞こえた。真意は違う。それすらもわかってしまう耳が疎ましいようでありがたい。 「なにを言ってるんですかね」 さらりと言ってアクィリフェルは王家の人々に視線を戻した。 あそこにいるのはアウデンティースが、ラウルスが心から愛した后が産んだ子供たち。王家の人々は長命とは言え、ティリアたちとアクィリフェルはそう年が違わないらしい。 だから、わかってはいるのだ。亡き王妃と張り合っても争っても無駄だということが嫌と言うほどわかっているのだ。 子供たちとさして年の変わらない自分だ。王妃が彼の元に嫁したころにはまだ生まれてもいなかったことだろう。 だから、わかってはいるのだ。亡き王妃より先に出逢いたかったと、自分ひとりを選んで欲しかったと思っても無駄だと言うことくらい。 わかっては、いるのだ。 「小さいの?」 長い首を優雅にもたげてヘルムカヤールがまるで猫が懐くように覗き込んできた。庭の緑を映してか、空色の目は今は見たこともない翠をしていた。 「きれいですね、ヘルムカヤール」 「うん?」 「あなたの目。目だけじゃない、鱗も。姫様の大事な庭の緑色です」 世界を歌う導き手の声だった。歌であり語り。それは何を告げる。不意に息子たちを叱りつけている声が途絶えた。と思ううちにアウデンティースが傍らにいる。 「アケル」 小さな声だった。決して他聞を憚るから、ではない。アクィリフェルを思いやるがゆえの小声。ほっと息をついて導き手は王を見上げた。 「陛下、まずは宮廷の方々に成果をお見せしてはいかがでしょうか」 アウデンティースが誰にも見えないよう目をむいて見せた。見えているのはアクィリフェルだけ。まずは少しなりともお前といたい。そう言ってくれている目がそこにある。あるから、アクィリフェルは笑顔で控えているマルモルに目を向けられた。 「騎士殿。ご心配をおかけしました。無事戻りました」 「アクィリフェル。わたくしにはないの?」 にっこりとティリアが言った。マルモルが口を挟む隙もない。メレザンドなど息もできないのではないか。目を白黒とさせたままあちこちを見ている。 「とんでもない。ただいま戻りました、姫様。お言いつけどおり、確かにお守りいたしました」 「そのようね、アクィリフェル。わたくしはあなたが言葉を違えないと知っていましたよ。ですからね、これを用意しておきました」 優雅に微笑んでティリアは足取りも軽やかに近づいてくる。何かと思ってアウデンティースを見上げれば、父王も娘のことがわからないらしい。 「アクィリフェル、少しかがんでください。お父様ほどではないけれど、あなたも背が高いわ。届きません」 少しばかり不快そうに言い、ティリアはわざとらしく唇を尖らせて見せた。その表情があまりにもアウデンティースに似ていてアクィリフェルは思わず笑み零れる。笑った顔が見えないよう、咄嗟に言いつけに従った。 「もう少しです」 もっとかがめとはいったい何事だろう。アクィリフェルは不可思議に思いながら頭を下げる。ティリアはその髪に触れた。思わず上げそうになる頭を繊細な手が押さえていた。 「ティリア……、お前」 呆然としたアウデンティースの声に、アクィリフェルも悟った。理解はした。けれど、まさかとも思う。 「あなたの部屋で壊れていた髪飾り。巡りめぐってわたくしの手に届きました。差し出がましかったかしら?」 あの、髪飾りだった。今もまだアウデンティースの首に下げられている他愛もない玩具のような指輪と対の。 「……馬鹿な。いいえ。まさか。姫様、直してくださった」 「直さなければこうして髪に留められないでしょう?」 当たり前のことのように言いティリアは笑う。不意に亡き王妃の娘、との意識がなくなった。ここにいるのは類稀な王家の姫。アクィリフェルは無言で膝を折り、ティリアの指先にくちづけていた。 |