王宮はただならぬ焦燥に包まれていた。アウデンティース王が出立して以来、長い時間が経っている。すぐにお戻りになる、みながそう思っていたはずが思いがけないほど時が過ぎていた。 「父上はまだ――」 不安そうにケルウスが爪を噛んでいた。いずれ玉座を継ぐべき王子の仕種にティリアはかすかに眉を顰める。 「ケルウス。その癖はおよしなさい。みなが不安になりますよ」 「ですが、姉上」 「お父様はお戻りになります。必ず。あなたが信じなくてどうするのですか」 「姉上は……」 きゅっと唇を噛み、ケルウスは側に控えてよりいっそう心細げな顔をした弟を見やった。 三人のいる王宮の中庭は素晴らしい好天に甘い花々が香っていた。けれど設えられたテーブルで心穏やかに茶を楽しんでいるのはティリア一人。二人の弟は片や唇を噛み、片や虚ろ。 「ルプス」 呼びかければはっとしたよう姿勢を正す。けれど表情は決して晴れることはない。父王が出立したその日から。 ようやく二人の王子は自覚したのだった、あの日。どれほど自分たちが父に守られているのかを。王の庇護の下にある安堵を知りもしなかった日々。一時的であれとは思いつつ、こうして失ってみれば嫌でもわかる。 「兄上、僕は。……怖い」 「正直に言えば私もだ。だが姉上は、なぜ?」 「不思議です、わたくしは。どうしてあなたがたがお父様のご無事を信じきれないのか」 「ですが!」 万が一と言うことがある。平時であれ、ある。ましていまこのとき。何事もなく戻ってくると確信することは無理に等しい。 「感じませんか、ケルウス、ルプス。お父様がお戻りになるのを。ご無事であることはもとより、ずいぶんお喜びになっていらっしゃる。わたくしはそう感じます」 うっとりと目を閉じてティリアは言った。まるでその光景が見えてでもいるかのよう。だが兄弟はそれにすら不安を覚えた。アウデンティース王が心から愛した亡き王妃が生さしめた三人の兄弟。今まではどんな兄弟より仲睦まじく過ごしてきたはずだ。兄姉の、あるいは弟の考えていることが手に取るようにわかるほど。けれど今、弟たちははじめて姉の思いを受け取ることができなくなっていた。 「失礼いたします。よろしいでしょうか」 ふ、と振り返ればマルモルが立っていた。王子と王女の一時の休息を邪魔したことを詫びて頭を下げている。 「けっこうですよ、マルモル。どうしましたか」 にこりとティリアが首をかしげるのに、息せき切ってケルウスが言葉を重ねた。 「もしかして父上からご連絡が!」 「ケルウス」 姉のそれとないたしなめにあってケルウスは息を飲む。連絡などないのだろう。マルモルによけいな気遣いをさせてしまったことを悔いる。 「陛下はご無事です。我々に先行して王都に戻るようお命じになったとき、それはお元気でいらっしゃいましたから。どうぞ殿下方にはご安心を」 「えぇ、ありがとう。マルモル。ケインと言いましたか、あの若い騎士は。お父様がお側に置くのですもの、見所のある騎士なのでしょうね」 弟たちが未熟だとはティリアも思わない。けれど不安でたまらない己の心を隠すことに関してだけは、いまだ至らないと思う。 自分たちが不安そうにしていれば、人心が惑う。近衛騎士とて同じ人。どれほど心細い思いをしていることか。だからこそ、隠さねばならない。それを弟たちが理解する日はくるのか。くるはずだと思うけれど、遠い気もした。そしてその時間が残されているのかどうか。そればかりはティリアも不安だった。 「いえ……は。その」 ぐっと言葉に詰まったマルモルにはじめて王子たちが唇をほころばせた。悪いとは思ったが、ティリアの狙い通りであった。 「どうしました、マルモル?」 追い討ちをかけるのはケインがここにいないからできることではある。申し訳ないとは思うけれど、まず弟たちのこの鬱陶しいほど陰鬱な顔を何とかしなくてはならないティリアだった。 「はぁ、その。なんと申しましょうか。ケインは陛下にもお目をかけていただいてはおりますが、なんと申しましてもいまだ未熟者。見所など、とても。むしろそこをアクィリフェルに愛でられている始末にございます」 「アクィリフェルに? マルモル、健やかにしているのでしょうね、あの者も」 「申し上げるまでもございません。いささか傍若無人が過ぎるほど活発にございます」 どことなく冷や汗をかいているように見えるマルモルだった。どうやらアクィリフェルは元気になったらしい、ティリアはそう思う。 ティリアは本来のアクィリフェルを知らない。けれど自分が出会ったあの狩人が、彼の本性だとは思っていなかった。旅立ちの際に見せた一瞬の笑顔。ひどく無垢で限りなく美しかった。あれこそが彼の根にある純粋さなのだとティリアと思う。 「姉上はあの狩人にお目をかけてらしたのですか」 不思議そうに言うルプスに、だから心配りが足らないのだ、とはさすがにティリアも言わない。彼ら弟たちが父王の不在を不安に思うほど、ティリアは王国の今後が不安になる。 「中々興味深い人物ですよ。わたくしも禁断の山の狩人と会ったのははじめてですから」 「僕もです。獣を狩る者なのにずいぶんと華やかでしたね、あの者は。そうお思いになりませんか、姉上」 「わたくしもあれほども見事な赤毛を見たのははじめてでした」 にっこりと弟王子に向けて笑みを見せる。けれど兄王子がまた爪を噛んでいた。 「狩人より父王のことです。えぇ、狩人などいざとなれば――」 「ケルウス。あなたも王家の者ならば人の命を軽んずるようなことを安易に口にすべきではありませんよ」 「は――。申し訳ない、姉上、失言です」 「ケルウス王子殿下のお心の曇りが僭越ながらわかるような気がいたします」 「マルモル?」 「私は近衛騎士ですから、陛下のお命がすべてです。陛下のお命のためならば狩人のなど、そう思ったこともありました」 「いまは違うと?」 「はい、姫様」 短い言葉だけに毅然としたものだった。それに弟たちが何を感じたのかティリアにもいまはわからなかった。けれど彼女本人だけはわかる。 「お父様はお幸せですね」 だから、笑った。この上ない笑みをもってマルモルの言葉の裏に潜んだ意味を受容する。彼が予言に歌われた導き手であること、そしてアウデンティース本人にとってだけ意味のあることまで。 「姉上?」 不思議そうな弟たちにもまた無言の笑みを。それで姉が言葉を濁したこと、自分たちで受け取り理解せねばならないことを彼らは知るだろう。 「マルモル、禁断の山の狩人の里のことをもう一度話してください。調度を知りたいわ」 「は、ですが、不調法者にて姫様のお役に立てますかどうか」 「けっこうですよ、話してください」 まるで当たり前の日々。執務室を覗けば王がいるだろう。海の彼方は晴れ晴れと澄んでいるだろう。作物はよく実り、手仕事はうまく行く。 ほんの一時であれ、ティリアは弟たちの不安をなだめたかった。それは不安を伝播させないためではあったけれど、もしかしたら愛しい兄弟の心を慰めたい思いが最も強かったのかもしれない。 王宮にいては決して目にすることのない狩人の里の様子だった。不調法とは言ったけれど、マルモルは中々の語り手だった。 そこに暮らす人々の様子、口にしたことのない食べ物のこと。そしてティリアが望んだ調度品の模様など。 「楽しそうなところですね、わたくしも行ってみたい」 「なんと姫様!」 「いけませんか?」 「いえ、その……。えぇ、そうです、メレザンド伯爵にお話しなさいませ!」 しどろもどろに顔中に汗までかいてマルモルが言い逃れる。その様子に弟たちが笑い声を上げた。 「私がどうかしましたか、マルモル殿」 「なんと、ちょうどいいところにおいでになった、メレザンド伯! 姫様が狩人の里にご興味をもたれてだな」 「あぁ、それならば私も興味があります」 にこりと笑ってメレザンドは王家の子供たちに一礼した。ごく軽い会釈であるのは、いずれ姉が嫁ぐはずの人、と弟たちも理解しているせいだった。 「メレザンド、わたくし行ってみたい」 「いずれ時が参りましたならばお連れしましょう」 「本当? 約束ですよ」 もちろんだ、とうなずく男にケルウスもルプスも微笑んだ。頼りになる姉が嫁いでしまうのは心細いが何より姉が幸せになることを望んでもいる。母亡き後、ほんの少し年上なだけのこの姉にどれほど弟たちは頼ってきたことだろう。 「きっとお父様もご賛成くださるわね。だって――」 言葉を切り、ふ、とティリアが空を見上げた。風が強くなってきた。思いがけず頬を切る突風。乱れた髪を押さえて空を見続ければ不意に射す影。 「姉上!」 メレザンドさえ手を出す隙もなく、弟たちが両側から姉を庇っていた。上空を見上げる目には怯えの色。それでも姉を守る手は外さず。 「殿下! メレザンド伯もお早く!」 マルモルが大きな声を出す。凍り付いていたティリアはその声で我に返った。 「いいえ! 逃げるには及びません。少しよけたほうがよいでしょうけれど」 「姫様、何を仰せになる! あれがお見えにならないのか、ドラゴンですぞ!」 マルモルが身分も脇においてティリアを怒鳴る。けれどティリアは立ち上がり、まるで竜を迎えるよう手を広げた。 ごう、風がなびく。なんとも言いがたい色をした竜だった。空色ではある。けれど雲の色でもある。甘くかなしく正しく空だった。 「姫様!」 「姉上!」 身近な者達の声など聞こえぬげにティリアは待ち続けた。竜が羽ばたく。決して攻撃の意思とはとらなかった。 「降りてくるわ」 なおのこと逃げなくては、と腕を引くケルウス。けれど反対にはメレザンドが立っていた。ティリアの言葉を鵜呑みにはせず、けれど受け入れて。横目でちらりとティリアは笑う。 「御覧なさい、大丈夫」 狭い中庭に降りようと竜は苦闘しているらしい。もがいてでもいるような姿が案外可愛らしい、と思うのはティリアだけだろうか。不意にマルモルが息を飲む。 「わかったでしょう?」 竜の背には人の姿。それも、二つ。切望した父王の金茶の髪と、華やかな赤毛が翼の巻き起こす風にひるがえっていた。 |