暢気に洗濯しているアウデンティースをよそに、アクィリフェルはリュートを奏でる。その音色に一瞬手を止めた王は何食わぬ顔をして作業を続けた。
「おい、小さいの」
「なんですか、ヘルムカヤール」
「くすぐったいぞ。何をしている」
「ちょっと黙っててください、気が散る」
「おい……!」
 不意に目覚めた竜の抗議にもかまわずアクィリフェルは弾き続けた。聞こえてるのか感じているのか、自分でも判然としない。どちらでも同じことかもしれない。アクィリフェルの音色の下、大気すらも甘やかに香るようだった。
「アケル?」
 すっかり血に汚れた服を洗い終えて干してしまった王が訝しげな顔をしていた。とてもこんな姿はマルモルには見せられない、とアクィリフェルは内心で小さく笑う。
「ヘルムカヤール、具合はどうですか?」
 リュートの手を止めて巨大な竜を見上げる。殊にアウデンティースにはがされた鱗の辺りを。
「ふむ。調子がいいとはこういうことか?」
「アケル。何をした?」
「ご存知でしょうけど。僕は我が儘で自分勝手なんです。親しい人の苦しみは見捨てておきたくないんです。たとえ他の何かが犠牲になったとしても」
「おい!」
「大丈夫ですよ、ラウルス。別に命に別状はありませんから。ただ、なんでしょうね、生まれるはずだった命の一つや二つは消えたかもしれませんけどね」
「――小さなアクィリフェル。そこまでしてなぜ?」
 ヘルムカヤールの静かで深い声がした。竜は確かめていた。そのはがされた鱗の傷が物の見事に完治していることを。
「言ったでしょう? 僕がいやだったから、です。それに元には戻せません。僕がしたのはただ再生の手伝いです」
 アウデンティースは何事もなかったかのように語る彼の導き手を見ていた。本人が何も感じていないはずはない。生まれるかもしれなかった命が消えた、アクィリフェルはそう言った。たかが鱗の再生で。それを咎めるべきだろうか。
 否。誰がそうしたとしてもアウデンティースにはできなかった。自分たちのために苦痛を甘受してくれた大きくて優しい竜。癒せるのならば手段は選ばない、自分もまた。アウデンティースはそう思う。だからこそ、アクィリフェルを咎めない。
 残酷だとは知っていた。その命も、もしかしたら自分の民となるべきものだったかもしれない。だが今ここにある苦痛と、まだ存在しない何者かならば、アウデンティースはヘルムカヤールをとる。
「……それでも大変なことなのだがな。我らの鱗は元になど戻らんのだから」
「だと思いましたよ。だからです。僕らのために、いいえ、この世界のためにあなたが味わってくれた痛みをどうにかできるならばするべきです。あなたの痛みが当たり前? 世界の苦痛を前にしては些細なもの? そんなはずはないでしょう?」
 そう言ってアクィリフェルは実に綺麗に笑った。内心の痛みを押し殺し、そうしているのがアウデンティースには手に取るよう、わかる。
「アケル」
 いつもすまない。お前にばかり苦悩を強いている。言葉にはしなかった。彼には聞こえる。アクィリフェルはただ黙ったまま小さく首を振った。
「ほれ、ちっこいの。鞘はできたんだろうな。見せんか」
 まるで二人の無言のやり取りが聞こえたようだった。ヘルムカヤールの声にアウデンティースは苦笑して鞘を掲げる。
 空に煌いていた。蒼穹そのもののように鮮やかだった。夕暮れになれば甘く切ない夕焼け色になるだろう。夜になれば鞘には満天の星が映るだろう。
「なんて綺麗」
 ようやく目にしたそれにアクィリフェルが溜息をつく。思わずかき鳴らしたリュートが鞘の美に色を添えた。
「うむ、いい出来だ。さすが我の鱗だ。美しいの」
「自分で言うか!?」
「ならばもっと褒めんか!」
 王と竜のやり取りにくすりと笑い声が漏れる。ひどくいい気分で、だから怖かった。このままここに留まってしまいたい。王と竜と自分と。三人で他愛ない言い合いをしたり音楽を作ったり。どんなに楽しいだろう。
「ラウルス。そろそろ発ちましょう」
 だからアクィリフェルは言う。決心が鈍るその前に。安易な道を選んで滅びるその前に。
「そうか。行くか。ならば忠告を一つ」
 ヘルムカヤールの目に空色ではない色が浮かんだ。懸念を形にしたかのような炎の色。二人は息を飲んで見入った。
「その剣、何人にも触らせるではないぞ」
「……御使いには俺とアケル以外が触っても問題はない、と聞いているが?」
「そりゃ、問題はなかろうさ。別に呪われも祝福されもせん。だがな、ちっこいのたち。その剣はいわば魔王の剣。人の意識などたやすく飲まれるぞ、お前たち以外にはな」
 竜が嘘を言っているとは思わなかった。むしろ御使いの言葉が足りなかった、否、御使いにはあまりにも当たり前すぎて語らなかった事実だと知る。
「……え?」
「その剣を他人に持たせた、と仮定しよう。その場合何が起きるか。我には容易に想像できる。その者は剣に飲まれるだろう。混沌の焦点となるだろう」
「焦点……核と言うことか?」
「ふむ、そう言ってもいいな」
「だったら、剣を奪い返せばいい。核を討てばよい、と御使いから――」
「核となりおおせた人間ごとお前に討てるのか、アルハイド王よ」
 アウデンティースが鋭く息を吸った。彼にはできない。それはアルハイド王たるアウデンティースにはできない。人間はみな彼の愛し子たる民なのだから。それでも他にどうしようもないのならば彼はためらわないだろう。苦渋の決断を下すだろう。だからこそ、そのような事態を招かぬよう細心の注意を払うべき。納得した王の顔がさっと青ざめた。
「ならば……!」
 アウデンティースの目がさまよう。わななく手もそのままにアクィリフェルの腕を取る。
「お前も……? お前を討てというのか、俺に?」
 御使いは言った。アクィリフェルに混沌の核を集めよと。それを黒き剣にて討てと言った。震える手でアウデンティースは導き手の手を包み込む。そのまま両手で包んで眼前に掲げた。まるで祈りのように。
「もしもそれが必要ならばそのように。ラウルス」
「できるか!」
「やるべきです、僕一人の命と世界の命。引き替えならば充分です」
「お前を失って何になる! 他に、他に方法がある。絶対にある。ないわけがない――!」
「ラウルス! あなたの務め――」
「いい加減にせんか、ちっこいのども!」
 竜の怒号にびりびりと大気が震えた。思わず手を取り合ったまま飛び上がった二人が竜を見上げれば、今度の目は苛立ちに燃えていた。
「人の話を聞かんか、まったく! お前たちは例外だ、例外。わかっておろう? お前たちは人間にして人間ではない者。時の定めから外れた者。小さなアクィリフェルが歌う。集まってきた混沌をまとめて核を作る。ちっこいアウデンティースが剣で討つ。何も問題はないわ!」
「……あ」
 ばつが悪そうに顔を見合わせる二人の人間に向かって竜は溜息をついた。盛大に噴き出された吐息に体がぐらつく。支えあった手に温もりが蘇った。
「だから、奪われるな」
「危ないな、確かに」
「お前たちにとっても危険だ。打つ手がなくなるからな」
「それもはずせんが、いや、何より大事なことではあるのだが、だが……」
「ね、ヘルムカヤール。優しい人でしょう? 世界の危機を前に、混沌に囚われてしまうかもしれない誰かを気にしている」
「知っているか、似たもの同士と言うんだ、お前らは」
 馬鹿馬鹿しいとばかり鼻を鳴らした竜に二人は顔を見合わせて笑う。どうしようもないほど幸福だった。いつまでも続けばいいと思う。
「ラウルス、きっと」
「あぁ、必ず」
 世界の破滅など自分たちが止めて見せる。今日のこの日をもう一度、否、何度も味わうために。
「念のために聞くがな、ちっこいの」
「なんだ、でっかいの」
 言い返した王に竜が嫌な顔をする。わざとらしい顔だと、わかる自分がひどく楽しくてアクィリフェルは笑い声を漏らした。
「黒き御使い、悪魔の力を借りてでも止めたいか? 悪魔の力を借りていいのか、人間よ?」
「なにを今更」
 アウデンティースは傲然と顎を上げた。煌く目が竜に宿った炎のように燃えていた。
「言っていいことではないのだろうがな、ヘルムカヤール。なぜ神々は我らにご助力を賜らん? 神々と悪魔の戦にお忙しいから捨て置かれたか? ならば我らこの世の生き物はすがれるものにならなんにでもすがるわ」
「この危機をどう乗り越えるかの試練でもあるのかもしれんぞ」
「だったらもう少しまともな試練にしていただきたいものだな。これでは人も妖精も竜も、動物も植物もみな、滅びてしまう。気合と根性で乗り切れるようなことか、これが」
「むしろ信仰の問題じゃなかろうか?」
「信仰も気合と根性も似たようなものだろうが」
 どこがだ。思ったけれどアクィリフェルは言わなかった。言いたいことがわかるせい。確かに信仰を貫くには類稀な心の強さが必要だ。
 そしていま、それを貫き通すには命がかかりすぎている、彼の肩に。神にすがって祈ってどうにかなるものならば彼はそうするだろう。その命を代償に求められるならば喜んで捧げるだろう。
 けれど確かな徴はなにもない。混沌の侵略を退けうる手段をもたらしたのは、悪魔。神々ではなかった。
「もしもこれが試練なら、次回の試練はもう少しわかりやすいものにしていただきたいものだ。いささかひねりが効きすぎている」
 皮肉に言ってアウデンティースは空を見上げた。彼の目はもしかしたら天上の彼方におわすという神々を見つめているのかもしれない。神聖にして不可侵。そう言い伝えられている清浄なる神々もまた悪魔と戦をするのだと思いながら。
「お前と言うやつは……!」
「なんだ、幻滅したか。でっかいの」
「呆れただけだ! よくぞまぁこんなのと共に生きる決心をしたものだ、小さなアクィリフェル。いまからでも遅くはないぞ、気を確かに持て!」
 すっかり痛みも取れたのだろう、竜が大きく首を伸ばし、大仰に牙を噛み鳴らして見せた。くすくすと笑いつつアクィリフェルは竜を見上げる。
「ありがとう、ヘルムカヤール。でも僕はこの人がいいんです。我ながらどうかと思いますけどね」
「よく言うよ。俺こそ自分の趣味を疑うぞ、かなり」
「言いましたね!」
 足元で言い争い始めた小さな二つの人影に、竜のヘルムカヤールは溜息をついた。この二人に世界の命運が託されているなど。だがこの二人だからこそ。
「中々ぞっとする話ではあるわいなぁ」
 竜の嘆息は二人には届かない。互いに大声を上げるのに忙しすぎた。




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