緊張が、肌にぴりぴりと感じられるようだった。アクィリフェルは深く呼吸をする。取り出したリュートの音色を整えることはしなかった。無言で構え、アウデンティースを見やる。 「いつでもいいぞ」 「それは我の台詞だと思うがな、ちっこいの?」 「どっちでもかまわんだろうが」 言い合う竜と王が、なぜか奇妙なほど対等に見えてアクィリフェルは小さく微笑む。竜の恐るべき巨体に隠れてしまいそうなアウデンティースだと言うのに。 アクィリフェルは彼らに直接答えはしなかった。代わりに空を見やる、東の空を。まだ暗い。けれど、闇の中に仄かなぬくもり。吸った息を吐き出す。再びの、呼吸。 「きた――」 夜明けの、曙光。遠い草原の影が、更に闇を濃くする、暗くなる。夜明け前の闇がその場にあるすべてを包む。そして射し初める閃光。光ではない。それは音だった。 「おぉ……」 竜が声を上げる。アクィリフェルの耳に聞こえる夜明けの歓喜は、竜にも聞こえるものなのだろうか。聞こえているはず。アクィリフェルは思う。あるいは願うのかもしれない。 リュートを奏でるというよりは爪弾く。世界の歌に乗せ調和させていく。ゆるゆると流れ出す声はそれを更に強めるもの。 「ヘルムカヤール」 アウデンティースはそのすべてが聞こえるわけではなかった。導き手の耳のない王には、彼が聞いている音は聞こえない。 けれどアクィリフェルの音ならば、聞こえる。彼の意図、彼の心、彼の願い。すべて聞こえる。 だから、いまだった。竜のまるで絶壁のような脇腹に手をあてる。 「いつでもいいぞ、ちっこいの」 その声にわずかな怯えを聞き取ったのは王ではなく導き手。彼の声が変わった。竜の怯えさえも肯定し、包み込む。 「はいだら、先のとおりにな、ちっこいの」 「あぁ、わかっている」 「なるべくさっさと済ませろよ」 「だったらちょっと黙っててくれ」 「おうさね」 まるで戯れのような言葉。アクィリフェルには聞こえているようで聞こえていない。否、聞こえていないわけではない。人の言葉として、聞こえていない。 いまの彼にとって言葉はすべて音だった。動きも音だった。人のそれも竜のそれも、世界のそれすら含めて。だから歌う。伸び上がっていく声にアウデンティースの手もまた伸びる。 「く――」 本当ならば、一息にはいでやりたかった。だが相手は竜。鱗の一枚とはいえ強靭を誇る。ヘルムカヤールが身じろいだ。 それは突き立てられた剣をこじられるのにも似ているのかもしれない。人間であるアウデンティースはその痛みに思いを馳せる。 竜であるヘルムカヤールならばこう答える。そんなものでは生ぬるい、と。 想像できる分、アウデンティースは必死だった。一枚の鱗が、こんなにも強いとは思ったこともない。全身に力をこめる王の顔は奮起のあまり真っ赤になっていた。 「ぐ……あ、う。いや、止めるでない! よけいに痛いわ! いやいや、痛くはないぞ、小さいの、あぁ大丈夫だとも!」 長い首だけを振り立てて竜は言う。夜明けと共に鈍い銀に、そして優雅な紫に、そして鮮やかな空色に染まり行く竜。 その鱗をはごうとしている自分が酷く冒涜的に思われて、アウデンティースの手が一瞬止まりかける。それを救ったのもまた、アクィリフェルの歌声だった。 「あぁ……そうだな。余計につらいだけだ」 よりいっそうの力をこめ、まだ足りない。自分はこの程度のものだったのか。アウデンティースはすぐさま否定し、唇を噛む。 噛みしめ、食い破る。痛みにわきあがる更なる、力。寸秒にも満たない間、竜の絶叫がした。すぐにかき消されていく。アクィリフェルの言葉のとおりに。 「もう少し。すぐに。大丈夫」 アクィリフェルの声が聞こえた気がして、竜は小さな人間を見やった。ぼんやりと焦点の合わない目にも赤毛が映る。 「いいや……」 アクィリフェルはそのような言葉を歌っていたのではない。そもそもこの歌に言葉はあったか。ヘルムカヤールの記憶にもなかった。 意味だけが知れた。あたかも自分の苦痛のように感じている小さな人間の心が、知れた。自分の足元で、いまははがれた鱗と格闘しているもう一人の人間。 ヘルムカヤールは痛みを紛らわせようと身じろぎ、そして強張る。苦痛などと言う概念を超えたものだとは、人間にはわからないだろう。 いったいどれほどの暴挙をしたのか、彼らにわかることはないだろう。ただ、どことなく感じているかもしれないとは思った。 「だからかもしれんなぁ」 鱗を生身からはがされるなどと言うことに甘んじたのは。再び伸びをしかけ、呼吸も止まるかと思った。 「ヘルムカヤール」 「なんだね、小さいの、いまはちょっと喋りたい気分じゃないぞ」 「えぇ、だから。もう少しじっとしていてください。あなたが動くと僕も痛い」 何を言っているのかと思った、竜は。訝しげに小さな人間を見やれば、漂ってくる血の匂い。 「お前――」 アクィリフェルの薄手の服の脇腹に確かにある血の染み。じわじわと、少しずつ広がって行くそれは確かにいま流されたものだと告げていた。 「こんなもの、あなたの痛みに比べればどうと言うことはないんです。もう少し引き受けたかったんですけどね、そうも行かない。僕も動けなくなるわけには行かない身なので。だから――」 「アクィリフェル!」 「大丈夫です。ラウルスを見てください。心配していないでしょう? だから、じっとしていて」 「ちっこいの!」 「俺はいま忙しいんだ。アケルの言うとおりにしてくれ」 「こんなこと、聞いていないぞ、我は!」 「言ってませんからね。ほら、ヘルムカヤール。僕に歌わせて」 にこりと、大きな血の染みをつけたままアクィリフェルが笑っていた。ありえないものを見ていた。竜の時間は長い。人間が想像できる時を遥かに超えて生きてきた。 「こんなことは。こんなものは。こんな人間は」 はじめてだ。いまは空色に染まった目を竜はアクィリフェルに向ける。首をゆっくりと彼の側へと下ろしていく。 もう覚えていない、この世に生まれたばかりのころのことをヘルムカヤールは思い出していた。温かな巣の匂い。甘い母竜の声。一切の不安のない、否、そのような概念のなかったころ。 アクィリフェルの歌はそれを作り上げていた。聞くでもなく聞かぬでもない。ただ流れてくる音色に耳を澄ますのみ。 「アケル、お前もだ」 「一緒にやってますよ」 「そのわりには、止まってないぞ」 「気のせいでしょ」 人間のやり取りが聞こえた気がした。それこそ気のせいだったのかもしれない。ヘルムカヤールは眠りに包まれていく。母の翼の元にいたころの夢を見つつ。 「どうだ?」 ふう、と長い息を吐き出し歌いやめたアクィリフェルに向かってアウデンティースは問いかける。曖昧な言葉に導き手は笑った。 「再生させるのはさすがに無理ですけどね。痛みくらいなら止まったかと思いますよ」 「そうか……」 明らかにほっとしたアウデンティースを見つめるアクィリフェルの目は優しかった。その視線が竜の体に移る。 無残にも鱗がはがれた痕がある。この上なく美しいものを傷つけてしまった後悔がそこにあった。単に体の美ではない。ヘルムカヤールの在りかたこそが美しい。だからこそアクィリフェルは悔いる。どうにもならないことではあった。けれど、悔いることまで忘れてしまいたくはない。 「お前は、アケル?」 「もう止まってますよ。言ったでしょ」 「見せろ」 「ちょっと、ラウルス! やめてください!」 無言で突き進んできたアウデンティースの手を払いのけようとしてかなわない。ふらりと傾いだ体を支えられ、服をはがされた。 「その手際のよさを是非先ほどヘルムカヤールに発揮していただきたかったですね!」 「一緒にするな」 「確かに僕の服は鱗よりははぎやすいでしょうけど」 「そこじゃない」 言ってアウデンティースはにやりとした。それから血だらけの服に向けて顔を顰めて見せる。 「ヘルムカヤールの鱗をはいで楽しかったと思うか、お前?」 「そんなわけあるはずがないでしょう!」 「だったら、お前の服をはいで楽しくないと思うか?」 「……ラウルス」 「うん?」 「よくこんなときに冗談が言えますね」 「生憎本気だ。いいから傷を見せろ、こんな血だらけで」 「だから、傷なんてないんですって! それは痛みを少しなりとも引き受けた代償みたいなものなんです。血は流れても傷なんてないんです!」 「本当か?」 思い切り疑って、腕の中に支えるアクィリフェルの肌を覗き込む。滑らかで引き締まった肌は朝の光にわずかに赤みを帯びていた。 「確かに、ないな」 だが、それだけだった。血の汚れはある。けれどそれだけ。 「アケル。一つ言っていいか?」 「なんです?」 「さっき言ったな、お前。俺が心配していないんだから大丈夫だって。あれは本気だったのか」 「心外ですね」 むっとした顔を作って見せ、アクィリフェルは彼の手から服を奪い返そうとする。鼻で笑ったアウデンティースはそれを高々と掲げてアクィリフェルの手から逃れる。慌てたアクィリフェルの鼻の頭に音を立ててくちづければ怒ったような照れたような声。聞こえないふりをして国王は、あろうことかそのまま皿にたまった水で洗濯をはじめた。 |