星影が、ヘルムカヤールの体に落ちている。あるいはそれは、竜自身が夜空に同化しているかのようでもあり、際立ってただ一つの創造物の証ででもあるかのようだった。
「ラウルス。起きていますか」
 純白のヌベスカステルムもいまは漆黒の闇の中。ただ星明りが細くかそけく射しかかる。水に映った星影が、大地に広がる星空のようだった。
「あぁ。起きてる」
 皿にたまった水をなんとかよけられる位置を見つけて二人は横たわっていた。ゆったりと聞こえる竜の寝息がたとえようもなく安堵を誘う。
「アケル?」
 そのはずなのに、アウデンティースは彼の声に不安を聞いた。導き手の耳など持っていなくとも、アクィリフェルの声ならば聞き分けることができる。それが嬉しいと共に心細かった。
 こんな自分が、いったい彼になにをしてやれると言うのか。今更ではある。はじめからわかっていたことでもある。
 アクィリフェルはアクィリフェルとして、彼の道を進むべきだった。自分と共にあることは彼の幸福ではない。
 たとえ順調にすべてが解決したとしても、アクィリフェルと共にあることのできない自分など、彼に相応しいはずがない。
「ラウルス」
 呼び声に、仰向けのまま視線だけを隣に向けた。その呼吸が止まる。
「僕は、あなたが好きですよ。僕の幸せは、僕が決めます。僕はあなたを愛してます。でも、僕の幸福はあなたが決めるものじゃない」
「お前……」
「便利なんだか、不便なんだか、僕にもよくわかりませんよ、この耳はね。でも、あなたならばたった一言でいい。なにを考えているかくらい、わかりますから」
「お前は」
「ラウルス。その話はもう済んだはずですよ。お互い長い人生でしょう? だったらゆっくりできる時間はいずれ取れます」
「――中々そう思い切れなくてな」
 苦笑の気配にアクィリフェルが小さく笑った。星明かりにほどいた赤い髪が仄かに光ってすら見えるようでアウデンティースはただ黙って見つめるしかできない。ほんの束の間。戦いと戦いの狭間にも似た静寂。それにこんなにも幸福を覚える。
「そんなものだな、人間」
「そう言うものですよ、人間は」
 本当にアクィリフェルに自分の考えが聞こえているのかどうかは、どうでもよかった。わかってくれている、その信頼こそが大切だった。
「それで、アケル?」
 何かを言いかけていたはずだった、彼は。それを自分の物思いで中断させてしまったのをすまなく思えば、またも小さく彼が笑う。
「もっと傍若無人なものだと思ってましたよ、王様なんてね」
「失礼なやつだな」
「民に尽くすのが国王の本分、そう言っても実行した王はそうはいないでしょう?」
「……全員がそうだ、と断言したいところではあるがな」
 実際問題として、歴史上民に尽くさなかった王はいない。少なくとも、いないことになっている。もっとも、正史に刻まれなかった事実をアウデンティースが知らないはずもない。
「あなたは優れて立派な国王ですよ。――だから、言いにくいんです」
「うん?」
 アクィリフェルの逡巡にアウデンティースは半身を起こす。見下ろされた彼は視線から逃れるよう、顔を伏せた。
「痛いんじゃないでしょうか。つらいんじゃないでしょうか。僕は、僕らは、それを強いる権利を持っているんでしょうか」
 一段下の皿にたまった水が風に揺らめく。水面に映るアクィリフェルの顔がまるで泣いているかのよう歪んだ。
「つらいのかもしれん。痛いのかもしれん。だが――」
「そのままではあなたが不便かもしれない。それはわかってます。でも不便なくらい、なんとかなりませんか。僕は」
 アクィリフェルが言葉を止めた。必死になって顔を上げたその目が見開かれる。夜空に月がかかっていた。遠い満月。それも二つの。否。竜の両眼。
「とりあえず、まずは本人に痛いかつらいか聞いてみる、と言うのが手ではないかと愚考するがね、ちっこいのたち」
 月が一つになる。竜が片目をつぶっていた。話をすっかり聞かれていたらしい、と苦笑いをして見上げたアウデンティースの袖をアクィリフェルがしっかりと掴んでいた。
「ラウルス」
「本人が聞けと言っているんだ。まずは聞いてみてからでも悪くはない、と思う」
「でも!」
「小さいアクィリフェル。お前はいささか心配しすぎだと言われたことがないかね?」
「……だって、嫌じゃないですか! 誰かが傷つくのがわかっていて、それを強いるのなんて、嫌じゃないですか!」
 絞り出したその声に撃たれたのは竜ではなく王。アクィリフェルは決して純なだけでも清廉なだけでもない。そんなことはわかっている。
 けれどこれが彼の根幹に根差す本心だと言うことは、わかってしまった。アウデンティースは小さく拳を握る。
 そもそも禁断の山の狩人は聖地への立ち入りを禁じ、無断で山に入った者を罰する、人をも狩る狩人。だが、本当はどうなのだろう。狩るとはすなわち死に至らしめることと同義なのか。アウデンティースは疑う。否、ずっと疑っていた。
 それがいま確信に変わる。狩人たちが何を言おうと、それは外に向けた言葉でしかない。アクィリフェルを見ればわかる。狩人は無闇に命を散らすことなど決してしない。
 わかってみれば当たり前のこと。獣を狩る狩人を見ればいい。彼らは無駄な殺戮などしはしない。漁師を見ればいい。食べきれない魚を腐らせることなどしない。禁断の山の狩人が違うはずもない。だからこそ彼らは狩人を名乗る。衛士でも兵でもなく、狩人を。
 その禁断の山の狩人たるアクィリフェルを、優しいと言うのは違うのだろう。彼にとっては当たり前のことに過ぎない。
 だが、アクィリフェルにとって当然の行動を、あえて彼の意思として破らせた自分をアウデンティースは思う。心から憎ませ、痛めつけるための言葉だけを吐かせた。
「……すまん、アケル」
 謝ってすむことではない。詫びの言葉などこんなにも軽い。だが、言わねば伝わらない。せめて何か口にしなければ、心にあることも聞いてもらえない。聞いて欲しいと思うことすら、傲慢だと思う。わかっていても、どうにもならなかった。
「もうすんだことだって、言ってるじゃないですか」
「いいのか、お前は、それで」
「悪いはずがどこにあるんですか?」
「……そうだな」
「あなたは悩みすぎなんですよ。終わったことは終わったこと、今は今、です」
「楽観的だな」
「あなたが悲観的なので、否応なく」
 むっとして言い、アクィリフェルは見上げた。困ったような笑みのその先は、アウデンティースではなくヘルムカヤール。
「なので、えぇ、楽観的に行きます。僕がラウルスと一緒になって悩んでいたら、物事がまったく進まないって、わかりましたから。だから、ヘルムカヤール。答えてくれますか」
 無言で双眸に柔らかな光をたたえる竜の前、アクィリフェルは一度言葉を切る。決心したのに、それでも揺れてしまう自分を厭うよう拳を握る。その手をアウデンティースがそっと包んだ。
「彼の剣を収める鞘が、いるんです。抜き身で持ち歩くには、あまりにも物騒なので。だからヘルムカヤール、あなたの鱗をいただきたいんです。だからヘルムカヤール、痛くないか、つらくないか聞かせてください」
「もしも、だがね、小さいの。痛いつらいと言ったらお前、どうするね?」
「……考えます。抜き身で持ち歩くのは不便だと言うだけですから。あなたの鱗をいただかなくてもいいよう、考えます」
「そりゃ考え違いだ、小さいアクィリフェル。不便だからじゃない。そんなもの、抜き身で持っててご覧、いまはいい、そう長い時間じゃなかろうしな。時間が経つにつれ、混沌はお前さんたちに向かって集まるよ。剣に引かれて集まってくるよ」
「な……」
「その剣は暁の主の剣。混沌とは悪魔の体を満たすものでもあるならば、暁の主は混沌の体現でもある。その佩剣に引かれないはずがあるまいよ」
「言われてみればもっともだな……」
「だからこそ、我の鱗が必要と言うわけか。なるほど、こっちももっともだわいな」
「ヘルムカヤール?」
 一人で納得してしまったらしい竜に王が首をかしげて見せれば、しまったとでも言いそうな顔をして竜が片目をつぶる。
「小さなアクィリフェル」
 それからいまだ呆然としたままのアクィリフェルに声をかけた。その優しい響きにアウデンティースですら飲み込まれそうになる。アクィリフェルに及ぼした影響は更に顕著だった。ふわりと泣き笑いのような顔で竜を見上げる。すべてを納得した顔をしていた。
「痛いよ、鱗をはがれるのは」
「えぇ」
「つらいよ、鱗をはがれるのは」
「はい」
「だからな、小さなアクィリフェル」
 その先はもうわかっていると言うようアクィリフェルはうなずいた。それでいて、もう一度口を開く。
「いただけますか、あなたの鱗を。ヌベスカステルムの主、ヘルムカヤール」
「あぁ、やろうよ。人の子の王たるアウデンティースと気高い狩人アクィリフェルに、我の鱗をやろうよ」
「ならば僕は歌いましょう、あなたのために。誇り高く美しく、そしてこの上なく優しいドラゴンに。ヘルムカヤール、あなたに僕は歌いましょう」
「夜明けと共に」
「えぇ、夜明けと共に」
 立ち上がり、アクィリフェルが竜の首に手を添えた。試練に直面する友人を励まし勇気付ける仕種に見えた。だがアウデンティースは知っていた。励まされているのはアクィリフェルのほうだと。
「……今度はリュートつきで聞きたいな。頼めるか、アケル」
「えぇ、もちろんです。それがいいでしょう」
「今朝の夜明けの歌は、苦いものになるやもしれんなぁ」
「そんなものはね、ヘルムカヤール」
 にやりとアクィリフェルが笑う。不敵なそれに竜すらもが驚いたらしい。
「この僕がかき消して見せます。あなたの苦痛とともにね」
 大言壮語ではない。竜も王も知っていた。事実でもない。それも知っていた。だからこそ、彼らは導き手に向けて笑みを浮かべた。




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