抱きしめているのか抱きしめられているのか。そんな人間二人を横目で見ながら竜は天を仰ぐ。前脚で顔をかいたところを見ればどうやら照れていたものか。妙に人くさい仕種だった。
「まぁ、そんなにおびえることはないさね、ちっこいのたち」
 ぽん、と竜はアクィリフェルの肩に前脚の爪を置く。人の仕種に直せば肩でも叩いた、と言うところか。
 だが相手は竜だった。肩にかかったあまりの衝撃にアクィリフェルががくりと膝をつく。引きずられるよう、アウデンティースまでよろめいた。
「ヘルムカヤール!」
「おっと。すまんのぅ。加減がきかなんだ。なに、たいしたことはなかろう。許すがよいぞ」
 大仰に高らかと笑う竜に二人は怒る気力もなくした。ついでに恐怖もきれいに消えた。それが竜の目論見だったと悟っても一向に気は晴れないが。
「それで。ヘルムカヤール! 何か言うべきことがあったんじゃないんですか!」
「聞きたいと言ったのは小さいのだぞ?」
「だから聞かせてくださいって頼んでるんじゃないですか!」
「――俺にはどうにも頼んでる態度に見えんがな」
 ぼそりと呟くアウデンティースを狩人はぎらりと睨み、けれど賢明にも口をつぐむ。視界の端で竜が前脚をもたげていた。
「けっこう、けっこう。会話は楽しく大らかに行きたいもんだからな。さてさて?」
「……おとなしくしますから、だからちゃんと話してくださいって」
 長く深い溜息をつくのはアクィリフェルなりの不満の表明か。アウデンティースは顔を伏せて小さく笑う。
 不意に嬉しくなってくる。ほんの少し前までは、こんな日が来るとは思ってもいなかった。アクィリフェルを失い、王として義務を果たすのみとばかり思っていた。
 それはそれで自らの責務。逃れる気もつもりもない。だがわかっていた。自らの心の、あるいは魂の大事な部分が欠けたままになるだろうことが。
 欠けようが無くなろうが、責務さえ果たすことができるのならば、それで王としては在れる。それだけ支えに突き進んできたものを。
「――ようやく、埋まった」
 アクィリフェルで埋まった場所が、いまはもうわからない。そもそもあったのかすら、わからない。ただ自分はあったことを覚えている、とアウデンティース一人が知るのみ。それでいいのだと王は思う。
「なにか言いましたか?」
「いいや、何も」
「本当ですか!?」
「言えばお前が怒るようなことを考えてた。それだけだ。だから言わない」
「……あなたって人は! こんな大事に何を考えているんですか、本当に、信じ難い人です!」
「お前……。俺がなに考えてたと思ってるんだ?」
 実に不思議そうに言いつつも、本当はアクィリフェルの誤解の内容まですべて見抜いているといわんばかりのアウデンティースの金の目に見つめられ、狩人は視線をそらす。
「……話を続けたいと我は思っているんだが?」
 こほり、とどうやっているのか竜が咳払いをして見せる。器用なそれにアウデンティースは笑い、アクィリフェルは頬の赤みをそれとなく隠した。
「剣の話だったかの?」
「と言うよりも、剣とそれにまつわる何かにあなたが気づいたのではないか、と言うあたりだった気がしますが」
「おぉ、そうだったそうだった。さすが小さいの。頭がいいのぅ」
「褒められている気がまったくしません。不思議ですね、ヘルムカヤール」
「そりゃ我のせいじゃない。人格に問題があるんじゃないかね」
「……同感だ。って、待て! アケル! ヘルムカヤールの話が先だ、先!」
 覚えていろよ、と王を睨みつけ、それからなぜかアクィリフェルが笑み零れた。王にはわかる。彼もまたこのような時間が持てたことをいま不意に喜んだのだと。照れくさくなって見上げれば、またも器用に片目をつぶった竜がいた。
「ちっこいのの剣だがね、さっきも言った。そりゃ、悪魔の剣だ。それも飛び切りだのぅ。飛び切りと言うより……なにか言ってなかったかね、もらうときに?」
「ん? そういえば、御使い……悪魔か?はこれを自分の主君の剣、と言っていたな?」
 アクィリフェルに同意を求めれば確かにそうだと狩人もうなずく。それに竜が長い溜息をついた。ごう、と噴き出される吐息にあたり一面が突風に襲われた。
「やっぱりなぁ」
 慌てて風から身を守りつつ、アクィリフェルはぞっとしていた。竜の声にあったものを聞いてしまった。慄きであり喜びであった。
「その剣は、悪魔の中の悪魔、王の中の王、美しき暁の主の剣さね」
「暁? 美しい?」
「不思議かね、小さいの」
「それは、まぁ。不思議です。だって、悪魔なんでしょう?」
「悪魔が醜いと誰が決めたね?」
 にやりと、竜が笑った気がした。あるいは竜の目には美しく見えるのか。否。アクィリフェルは思い出す。黒き御使いのあの美しさ。
「人の目で、あるいは我らの目で見て理解でき表現しうる、そんなものではないわいさ。たとえるならば夜明けの美。射し初める曙光。星々をまとい、太陽すらも従える。それがあのお方さ。まぁ、それでもずいぶん拙いたとえではあるなぁ」
「……ヘルムカヤール」
「なんだね?」
「あなたは……」
「お目にかかったことがあるか、かね? ないとは言わん。あるとも言えん。付け加えるならば、神々の長たるお方にもお目どおりがかなったことがあるとも言うしないとも言う」
「どっちなんですか!」
「どちらでもあるもんなんだよ。小さいの、アクィリフェル。こればかりは人の言葉ではどうにもならんわい」
 竜の言葉に、それとも声音にだっただろうか。アクィリフェルは寂寥を覚えた。アウデンティースは最前言った。夕焼けに佇む竜に寂しくはないのかと。だがしかし、いまこそアクィリフェルは竜が真に孤独であるのを知った。同時に言い表す術さえない気高さも。
 アクィリフェルの喉から音が零れる。正に零れるとしか言いようのないものだった。歌ではあった。けれど声にして声ではなかった。アクィリフェルが、世界の楽器だった。
「ふむ」
 ヘルムカヤールが奇妙に空を見上げた。アウデンティースは見て見なかったふりをする。この存在するだけで圧倒的な畏怖すら覚えさせる竜がアクィリフェルの歌に涙したなど。
「歌いながらでも声は聞こえるのかね? あぁ、だったら話を続けさせてもらおうかね、小さいの。その剣が今ここにある理由さ」
「混沌を退ける以外に?」
 ゆるゆると喋るのは、感動の気配を余人に悟らせないためか。アウデンティースは竜の意を汲んで何事もなかったかのよう接する。それに竜がにやりと笑った。
「そもそもの話だ。なぜ悪魔が混沌を退けさせようとする?」
「……考えたことがなかったな」
「まぁ、いま知ったばかりだしの」
「だが、ちょっと待てよ。混沌とは悪魔の世界に満ちるもの、悪魔の存在を満たすもの、と言ったな? だったら、なぜ御使い、いや、悪魔の主が――」
「自分でやらないか、か? ちっこいの」
「そっちのほうが人間の手を使うより確実だと思うのは、卑下しすぎか?」
「いいや」
 竜の言葉にアウデンティースはにやりと笑い返す。が、その笑みが凍りつく。
「卑下なんぞ、とんでもない。確実に、完全に、間違っとる」
 細く竜が溜息をつく。ひとつの楽器になりおおせたアクィリフェルは竜を見上げて微笑んだ。音を乱さないための配慮とは世界を歌う導き手のみが知る。
「根本的に、だ。魔王がこの世界にやってきて何事かをしようとしたらどうなると思う。そりゃ混沌ごときどうにでもなろうがな、世界が滅ぶぞ」
「な――!」
「かといって小者がわらわらきたとしてもどうにもならん。だから人間の手でなんとかせにゃならんわけだ。そこでその剣、と言うことになる」
「貸してくれた、それが理由か」
「もっとも、それだけ余裕があるということでもあるな」
「余裕?」
「悪魔にとってこの世は遊技場よ。神々にとって世界が守るべき場であるのと同じで正反対の。面白い遊び場の一つを潰したくない。そりゃ、わかるな? だがの、ちっこいの。いまあちらは戦争中ぞ? その最中にそんなことがなぜできる。余裕の表れとしか思えんぞ、我には」
「……怖いな」
「怖いか」
「もし、だ。もしも、だぞ? 万が一、この戦いに悪魔が勝ったとしたら、どうなる」
「そんなもん我にわかるわけがなかろうが。どちらにしてもお前らには関係がないことだわな」
「ないわけがないだろう!」
 怒鳴りながらもアウデンティースの声は忍びやかだった。アクィリフェルの歌のすべてがわかるわけではない。
 ただ、竜にも、他の誰にもわからないことがアウデンティースにはわかる。
 この歌が、この世界のすべてをあわせたよりもなお貴重なものだと言うこと。いま耳にする、この一瞬を竜がこの上もなく喜んでいること。それを壊すべき理由などどこにも見当たらなかった。
「人間には関係があろうな。が、お前らには関係がない。わかるか、ちっこいの」
 竜もその志に気づいたようだった。仄かな温みすら感じる声音がアクィリフェルの歌に交じり合い、一つの歌になる。
「いいや、わからない」
 首を振ったアウデンティースの密やかな声もまた導き手の歌に飲み込まれていく。二つとない歌が出来上がっていく。三者の入り混じった歌でありながら、けれどそれはアクィリフェルの歌だった。
「神々と悪魔の戦いなんぞ、早々に決着がつくわけがない。結末は、何百年も先のことかもしれない。あるいは、何千年も前についてしまったのかもしれない。そもそも決着がつくものなのか? 戦いは長きにわたるのか? それとも、我らには一瞬にしか思えないほどの時間なのか? 誰にもわからん。あぁ……わからなくて幸いだよ、我はな」
 言葉通りを表すよう、ヘルムカヤールは夜空に向かって伸びをした。そのことにアウデンティースは驚く。空はすでに漆黒をまとい、星屑を煌かせていた。その美しさにアウデンティースは悪魔の王とやらの面影を感じ、小さく背筋を震わせた。




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