夕暮れが、赤く世界を染めていた。ヌベスカステルムから見下ろす聖地の草原はあたかも燃え上がるかのよう。純白の城もいまは燃えている。そして竜もまた。
「綺麗ですね」
 思わずもれてしまったとでも言うようなアクィリフェルの声だった。単純な、あるいは世辞にでも聞こえかねない薄い言葉。それなのに彼が口にすれば真実に聞こえる。
「空か? 大地か? いずれ劣らず美しいがなぁ」
 ヘルムカヤールが応えて嬉しげに声を上げた。だがアクィリフェルは首を振る。
「あなたですよ」
 言葉に少しばかり驚いた顔をした後、竜は咆哮を上げた。猛々しく恐ろしい声。それなのに歓喜に聞こえる。顔を顰めたアウデンティースが口許をほころばせた。
「ほら。そう思いませんか」
 軽く首をかしげて王を見やり、視線は竜に添えたまま彼は言う。もっともだ、と無言でうなずく王はただ声が出せなかっただけだった。
 この世には、こんなにも美しいものがある。はじめて知った気がした。王家が所有するいかなる宝石よりもなお美々しく貴重。
 その名をヘルムカヤールと言う。竜は赤々と燃えていた。空の色を映し、夕焼け色に光を放つ。どこか遠くに走り去ってしまいたいような、郷愁にも似た思い。だからこそ口をつく言葉。
「なぁ。ヘルムカヤール。寂しくは、ないのか」
 王の声に竜は黙って長い首を優雅に振り向けた。その目もいまは炎に似る。
「不躾だったら、謝る。答えてくれなくてもかまわん。……ただ、人間の俺は、とても寂しく思った。それだけだ」
「まぁのぉ。寂しくないと言ったら嘘にもなろうさ。とはいえ我らはそもそも数が少ない。孤高を気取るわけではないが、会うにも捜すが一苦労」
 竜はからりと笑い、燃える翼をはためかせる。夕陽がもう一つそこにあるかの艶やかさだった。
「なぜです?」
「うん、少ない理由か、小さいの。そりゃ、簡単だ。この世界は我らが暮らすにはあまりにも加護も非加護も少なすぎるからさ」
「なんです、それは」
「そうさな、人間にわかるように言うのはちと苦労だが、やってみるか」
 一人ごち、ヘルムカヤールは首の鱗を前脚でかく。それはとても困惑する人間の姿に似ていた。思わず笑いを誘われてもおかしくはなかった、けれど。
 アウデンティースは姿勢を正す。これから何かがはじまろうとしている。それを先に感じ取ったのは、導き手ではなく王だった。アウデンティースに倣ったアクィリフェルに目を留めて、竜は細く長く息を吐く。
「言ってみれば、そうだな。喩えでしかないのだがなぁ。加護と言うのは、神の世界に満ちるもの。人の世に満ちる空気のようなものだと思えばよろしい。神々がまとう力でもあり、その体を満たすものでもあると言う」
「神官の言う奇跡のようなものですか?」
「それは神々の力がこの世界に発現した事象を言うんであろ。だからちと違うわな。その力そのもののことだ」
「……と言うことは、もう一方は」
「ちっこいのは悟りが早いな。そうさ、人間の言う悪魔の力さなぁ。悪魔の世界に満ちるもの――あとは一緒だな。逆転した力であるというだけのこと」
 思わず黙り込んだ人間二人を、竜はその炎の目でじっと見つめていた。夕焼けが消えるにしたがって衰えて行くそれも、けれどいまはまだなお赤い。
「恐ろしいか、人間。お前たちと相容れないものがここにいる。悪魔の力さえ借りて生きるもの。それが我らさ」
「いいや」
「強がりを言うでないわ!」
「いいや。ヘルムカヤール。少なくとも俺は、たぶんアケルも。恐ろしいとは思わんな」
「たぶん、と言う辺りに不信頼を感じますね。僕だって怖くないですよ。あなたを怖がる? そんな愚かな」
「だな。まったくもって同感だ。ヘルムカヤール、あんたは言ったな。どちらの力も必要だ、と。それは人間も同じこと。違うか?」
「……なぜだ」
「なにがだ」
「なぜ人間がそれを知っている!」
 竜が轟く咆哮をあげた。それだけで空気がびりびりと震える。皿にたまった水は吹き飛び、見る見るうちに再びたまっていく。
「単なる勘だな」
 そんな中で王は気安く肩をすくめただけだった。狩人は笑っただけだった。唖然と口をつぐむ竜に、アクィリフェルは笑みかける。
「ヘルムカヤール。僕はどうやらこの世界の声が聞こえるみたいなんですよ。声、と言うんでしょうか。あなたにはどう聞こえてるんでしょうか。聞こえてるような気がするんですけどね。だから、わかるんです。僕もあなたも、空も海も獣も鳥も妖精も。この世界に暮らす地上の生き物。そうでしょう?」
「必要なものがずいぶん違うがな」
「そんなもの、ちょっとした差でしかないじゃないですか」
「……国王の人格をまるで無視したやつだがな」
「陛下? 何かおっしゃいましたか。僕には聞こえませんでしたけど?」
「いーや。なんにも」
 最前と同じ態度でアウデンティースは肩をすくめて見せた。知らず牙の間から溜息が漏れる。告げるべきではないことを言う決心がつく。
「ならば。我らの言う非加護が、お前たちの言う混沌と知ってもか?」
「混沌ですって!?」
「ここでそれが出てくるのか!」
 口々に言う人間の表情を竜は見ていた。その目から炎が消えていく。単に夕陽が沈んだだけではなかった。竜の目に淡い笑みが浮かんでいく。
「なぜ恐れん?」
「あんたを怖がって解決がつくのだったら泣いて喚いてもかまわん」
「やめてください、鬱陶しい」
「――と言うことなのでやめておこうか。それで、ヘルムカヤール? あんたは混沌の侵略を知っていたのか?」
 ゆっくりと夕闇色に染まっていく竜が長く溜息をついた。呆れ返ったような、安堵したかのようなそれ。
「知っていたんじゃない。知ったんだ」
「もしかして?」
「いま読ませてもらったよ、お前たちの心をな」
「なるほど。便利ですね」
「……よくよく驚きも怖がりもせんやつらだな」
「その辺は諦めていただけるとありがたいです。色々ありすぎて、いまさら他に驚いてる暇がないんです」
 拗ねたように言い、アクィリフェルはちらりとアウデンティースを見やる。それでだいたいのことを察したのか竜はにやりと歯をむいただけだった。
「ならついでだ。もう一つ驚いておくがいいさ。おい、ちっこいの。なにを持っておる?」
「あぁ、これか? 御使いから授かった混沌を退ける、と言う剣だ。そもそもこれのせいであんたに話があったんだが」
「御使い?」
 怪訝そうに言い、竜は目顔で剣を見せろと促した。そして目にした漆黒の剣。竜が浮かべた表情は驚愕か、それとも渇望か。
「案の定だわなぁ。お前、ちっこいの。御使いとやらを神の使いと信じたのか? あながち間違ってはいないがなぁ。お前が会ったのはたぶん、いや間違いなく悪魔の一人だろうよ」
「……はい?」
 上ずった頓狂な声を上げたのはアクィリフェル。剣を持っていたアウデンティースはそのまま硬直した。おずおずと剣を見やる。
「もっとも、だからと言って混沌を退けられん、と言うことにはならんな。むしろ、神々にはどうしようもないことだしなぁ」
「ちょっと待ってください! ヘルムヤール!」
「なんじゃ、大きな声を上げよって」
「だって! どういうことなんですか! 説明、してくれるんでしょうね!」
「誰がせんと言ったか! いいからきんきん声を張り上げるんじゃない! 耳障りでかなわんわ!」
 怒鳴りあっている竜と狩人の声にすでに耳を塞いでいた王は苦笑し、かえってそれで自分を取り戻した。
「それで、ヘルムカヤール?」
 静かにも聞こえる王の声にぴたりと怒鳴りあいが止んだのだからおかしなものだった。唇をきつく結んだアクィリフェルが側に寄り添う。
「ここ最近、非加護が増えてきているのには気づいておったさ。ずいぶんと息がしやすくなったものなぁ」
 自分の言葉を確かめるよう深く息を吸い、竜はそれを大気に吐き出した。そこになにを見るのだろう、竜は。しばらくの間、影のない吐息をじっと見つめていた。
「この世界に非加護があふれている? 加護でもかまわん。いずれにせよ同じこと。何かが起こっているのさ」
「その何か、を聞きたいんだがな」
「言ってどうなることでも知ってどうなることでもないぞ? 簡単だが、どうしようもないことだな。神々と悪魔の覇権争い、戦争さ。その余波がここまで漏れてきている。そういうことだろうな」
「戦争、ですか……?」
「我らが考えるようなものではなく、お前たちが考えるようなものでもない。が、戦いであることに違いはない。そういうものさ。見てわかるものではなく、知って理解できるものではない。わかったか?」
「いいえ、全然」
「だからそういうものなのさ」
 してやったりとばかりに竜は言う。からかわれたのではないか、と王が思ったのは一瞬だけだった。アクィリフェルを見なくともわかる。彼の耳に問わなくともわかる。嫌でもわかってしまった。
「とはいえ……剣を預けたということは、あれか? ふむ」
「ヘルムカヤール。独り言なら心の中でどうぞ。聞かせたいことならはっきり言ってください」
「小さいのは気が短いの。えぇい、待て待て! いま言う! ちっこいの、これをなんとかせんか!」
「なんとかできるようなら俺も手こずらんのだがな」
 言った途端に頬に平手が飛んできた。もっとも、多少は加減されたようで痛みはない。乾いた音が高らかと鳴っただけですんだ。
「あなたまで話をややこしくしないでください!」
「そうかりかりするな、アケル。事情がどうであれ、なにが原因であれ、やるべきこともなすべき義務も決まっている。今更おろおろしてもどうにもならん」
「誰がおろおろしてるんですか、誰が!」
 お前がだ、とはアウデンティースは言わなかった。その代わりアクィリフェルの手をとり、黙って抱き寄せる。腕の中、狩人は小さく震えていた。




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