ヘルムカヤールが鋭い鉤爪を二人に向ける。一瞬だけ緊張したのはアクィリフェル。それより長く強張っていたのはアウデンティース。 「大丈夫ですよ。あれはたぶん……手招きですから」 小声で王に言えば、アウデンティースは珍妙な顔をした。どうやら理解しがたいものを見た、と言うところだろう。この場合、理解できなかったのは竜かそれともわかってしまったアクィリフェルか。 「登ってくるがよいぞ」 竜はそう上機嫌に言って住処たるヌベスカステルムを見上げる。ヘルムカヤールにしてみればちらりと上を見ただけのことだろう。人間にしてみればずいぶんと高い場所だったが。 「が、その前に。お前ら」 煌く青い目が人間を見据える。不意にこれは異種族だ、とアクィリフェルは淡い恐怖を覚える。同じよう人語を解していても、根本的なところで違うもの。知らずアウデンティースの袖を掴む。 「心配は要らんのだろうよ」 「ラウルス?」 「語り合える。話し合える。冗談も言う。形は違っても、笑いもする。どこが違う?」 そう、アウデンティースは笑って見せた。これが先ほどまで強張っていたのと同じ男か、アクィリフェルは疑問に思い、けれど彼が正しいのを知る。 「あなたって人は……」 感嘆が言葉にならなかった。世界を歌うといっても、所詮アクィリフェルはまだ若い人間の男でしかない。同じ人間ではあったとしても、王家直系の血を持ち、通常の人間より遥かに長命なアウデンティースとは、過ごしてきた時間が違う。 「惚れ直したか?」 冗談に、アクィリフェルが仄かに頬を染めた。だがしかし、笑い声は別のところから。ヘルムカヤールが空に響けとばかりに声を上げていた。 「おいおい、我を忘れてもらっては困るぞ? 話の途中ではないか。人の話は最後まで聞け、と習っていないのかな、最近の人間は。まったく困ったものだ。躾もなっていないとは!」 憤然と声を荒らげれば、ヌベスカステルムの皿にたまった水が跳ね上がる。きらきらと、ありえない美を見ている気がした。 「失礼した。ヌベスカステルムの主殿」 「ヘルムカヤールでよい、と言っておろうが!」 「なに、それはアクィリフェルがもらった許し。俺にではないのでな。さて、ヘルムカヤール。話の続きとは?」 アクィリフェルは再度感嘆する。この男はなんと言う人間だろう。竜の目に飲み込まれもせずあまりにもあっさりと、当たり前のように竜と話している。ごく普通の人間の友人のように、とは言いすぎだろう。これから友人になるかもしれない人物と話しているかのようにだ、とアクィリフェルは内心で訂正する。 「ほう、覚えていたか」 にんまりと笑ったのだろう、竜は。だが唇が裂けてつりあがり、牙がむき出しになっている。正直に言ってアクィリフェルは恐ろしい。狩人の誇りにかけてそんな気配は窺わせなかったが。 「覚えていたとも」 それなのにアウデンティースは応えてにっこり笑った。それも少しばかり嫉妬を覚えるほどきれいに鮮やかに。そんなアクィリフェルを見やった竜が笑みを深め、一転して渋い表情を浮かべた。 「お前たち、いささか臭うぞ」 「まぁ、ここまで長旅だったのでね」 「事情はわからんでもないがな。人の住処よりここは離れすぎておるがゆえに。とはいえ我が臭いを我慢せねばならんいわれもない。まずは湯浴みせよ」 「湯浴み?」 いったいどこで、と疑問もあらわなアウデンティースに竜は再びにんまりと笑う。それから視線が動いた。 「それはすごい!」 「ちっこいアウデンティース。本当にわかっているのか?」 「おぉ、わかったとも! すごいぞ、アクィリフェル。あの皿にたまってる水は湯だそうだ。これは実にありがたい!」 「……本当にわかっておったわ、この男」 ぼそりと呟くヘルムカヤールそっちのけでアウデンティースが喜んでいる。アクィリフェルは驚きも呆れも超えてしまって手を引かれるままに水に手指を浸す。 「あぁ、確かに。本当ですね」 「俺がお前に嘘をつくとでも?」 「散々つかれた気がするのは僕の気のせいですか」 「……気のせいだということにしとけ」 むっとして言った態度が妙に竜と似ていた。思わずアクィリフェルは笑みをこぼす。それに応じて王もまた笑った。 「ヘルムカヤール。ありがたく使わせていただきます。実はアウデンティース王が入浴したいとずっとうるさくって」 「うるさいとはなんだ、うるさいとは!」 「事実でしょう? これだから王都に住む高貴な方々は困ったものですよ。旅は汚れるものと相場が決まっているのに」 「それを主人が我慢せねばならん理由もなし。さ、使うがよいぞ。ちっこいのたち」 機嫌よく言ってヘルムカヤールはその場に座り込む。獣のように胴の下に足を折り込み、背には優雅に翼を畳む。あまりにも形としてそれは美しかった。 「……ちょっと、ヘルムカヤール!」 「うん、なんだ?」 「僕は入浴姿を見つめられて喜ぶ趣味はありません!」 「気にするでない。人間は人間に見られて気分のよいものではないと言うことくらい存じておるわ。だが我はドラゴンぞ? 気にするな、気にするな。その辺の木がここにあるとでも思っておけばよいわ」 「……全っ然よくないです」 「小さなアクィリフェル。何か言ったかね?」 「……。ところで、陛下?」 アクィリフェルがにっこり笑ってアウデンティースを見つめた。思わず笑い返したものの、心の中で王は冷や汗をかいている。 「どうした、アケル?」 「少しお尋ねしたいことがあるんです。えぇ、たいしたことではありません。少し気になったのですが、王家にはドラゴンのご先祖がいらっしゃったりしたんですか」 「いるわけないだろうが」 「へぇ、そうですか。あなたとヘルムカヤールの態度に共通したものを覚えたのは僕の勘違いでしょうか」 「お前、実は怒ってるか?」 「怒ってません!」 調子を狂わされてしまったのか、それとも本気で入浴を見られるのを嫌がっているのか、アウデンティースに区別はつかなかった。 肩をすくめてつい竜を見やれば、竜がなぜか似たような仕種をしていた。体の構造が違うから、肩をすくめる、と言うわけにはいかない。けれどなぜか不思議とそれが同じ意味の仕種だとわかる。 「ラウルス!」 むっとした彼の呼び声に竜と人間は目を見合わせて小さく忍び笑う。無言でアウデンティースはアクィリフェルを追い、竜もまた無言で彼らを見つめ続けた。 少しでも竜の視界から外れようとアクィリフェルは努力したのだが、結局無駄だった。どれほど動き回っても、そのたびに笑いながらヘルムカヤールは向きを変えた。 「いい加減に諦めるがよいぞ」 笑った竜の声に、はじめてアクィリフェルは思いを聞き取った。はっとして竜を見つめる。 自分たちが怖いのか、とは聞かなかった。とても、尋ねられない。それにおそらく、恐怖ではない。ぼんやりとした異種族の感情が、伝わるようで伝わりきらずにもどかしい。 妖精でさえ、もう少しは聞き取ることができたものを。アクィリフェルは妖精と竜、そして人間の違いを思う。 「どうしたね、小さいの」 やっと、聞き取れた。今の声は懸念だった。自分の身を案ずるのではなく、アクィリフェルを思いやる声。 それがわかってしまえば、あとは楽だった。先ほどのあれは、とアクィリフェルは思う。警戒以外の何だと言うのだろう。そんな単純なことがわからずにいた自分が恥ずかしくなる。 人間だとて、同じではないか。初対面の客を我が家に招けば、それとなく素性を尋ねてみたり気を使ってみたり、警戒するではないか。 「いいえ、なんでもないですよ。ヘルムカヤール」 自分には、人の思いすら聞き取ることのできる耳がある。それならば、この自分の心を伝えうる喉があってもいいはず。 「ほう」 小さな声だった。だが聞き間違うはずのないアウデンティースの声。ちらりと見やったアクィリフェルは試みが届いたのを知る。 「いつの間にか器用なことができるようになったもんだ」 「努力の結果と言ってください!」 「いまのは物の弾みだろうが」 「なんてことを言うんです、あなたって人は、もう! 本当に!」 「本当に、なんだ?」 にやにや笑いをしながらアウデンティースはここがハイドリン城の国王の浴室であるかのよう無造作に衣服を脱ぎ落とす。翳りつつあるがまだ充分に明るい日差しが肌に注いだ。 「別に……別になんでもないです!」 不意打ちにつぐ不意打ちに舌がもつれた。幸いそれ以上何かを言うつもりはないらしい。唇を噛みしめてアクィリフェルもまた王に倣う。 「明るいところで見るのははじめてだな」 「……陛下」 地の底を這うような声だった。思わずアウデンティースは一歩を退きかけ、かえって前に出る。アクィリフェルの裸の背中に手を触れた。 「陛下!」 金切り声寸前の甲高さ。竜がわざとらしく顔を顰めて牙をむき出して呻る。そちらには軽く目顔で詫びたアクィリフェルだった。 「どうした、アケル。そんな声を出して」 「……誰のせいなんですか、誰の! もういいです。もう知りません。ヘルムカヤール、この水って飲んでも死にませんよね。あぁ、それはよかった。では、陛下。お覚悟を」 アクィリフェルの背を撫でていた手だった。それがどうされたものか、さっぱり見当がつかない。アウデンティースの手はアクィリフェルに掴まれ、ひねり上げられ、そしてついに。 「さぁ、陛下。そこで充分反省していただきましょうか」 ひねり上げた腕を肩に担ぐようにしてアクィリフェルは王を投げた。背中から思い切り水面に落ちた王はけれど大きく笑っていた。 「アケル」 空を指差す。竜を示す。両腕を大きく広げる。すべてを抱え込まんと。何もかもが、アウデンティースの目には美しかった。瞼の裏に蘇る混沌。その欠片にもならないようなものしか見ていないのに、肌がざわめくほど恐ろしい。だが王の目にはこの世界があった。決して何者にもこれを壊させはしない。世界を見るよう、その具現でもあるかのよう、アウデンティースの目はアクィリフェルを見つめていた。 |